10●第一の結末②……“自立する少女”の歴史的爆誕
10●第一の結末②……“自立する少女”の歴史的爆誕
暖かい春の野に生き返ったヒルダ。
しかし、ホルスたちの救助隊は現れない。
彼女は“自力で下山”する。
制作スタッフたちは、そうなることに、こだわったのではないか。
これ、どういうことでしょうか。
当時の童話やアニメの典型的なハッピーエンドでは、概ね女の子は、“ヒーローの少年に助けられる役”でしかありません。
おしとやかであろうが、お転婆であろうが、彼女は敵に囚われるなど、ピンチに陥ります。そこで、敵と雄々しく戦って活躍するヒーロー少年が、籠の鳥に甘んじているヒロインをカッコよく助けてあげることで、“男を上げる”という、いわば、“女の子は男子の活躍に花を添える飾り物”的な作品が一般的だったようです。
『ホルス……』に前後する東映動画作品『ガリバーの宇宙旅行』(1965)や、『長靴をはいた猫』(1969)、『どうぶつ宝島』(1971)のヒロインの扱いがそうですね。“ど宝”のキャシーはかなり自立志向ですが、それでもヒルダに比べると、“お転婆”程度にとどまっています。
※『空飛ぶゆうれい船』(1969)は、国家的な謀略や侵略戦争を盛り込んだ点で、極めて先進的で特殊な作風なので、例外とさせていただきます。むしろこちらは、“子供向け”と“大人向け”の視点を見事にミックスさせた成功作と言えるかもしれませんね。
さて……
男女雇用機会均等法など、まだまだ未来の時代です。
女子の就職は結婚までの“腰掛け”であり、25歳で“売れ残りのクリスマスケーキ”になる前に結婚し、ご家庭に“永久就職”することが人生のゴールインというのが、世間の常識でありました。
いやもちろん、専業主婦を揶揄するつもりはありません。それ以外の選択肢が21世紀の現在よりもはるかに狭かった、ということです。
したがって漫画映画の世界でも、女の子のキャラは、王子様の迎えを待ちながら、男の子の活躍を目立たせる、か弱いお嬢様……が当然で、多くの観客もそれでよしとしていました。
しかし、『ホルス……』の作り手たちが目指したのは、それら、戦前から引きずられた古き社会の価値観への挑戦だった……と想像されます。
作品の結末をどうするのか、脚本、監督はじめ、あらゆるスタッフが考え、知恵を出し合ったことでしょう。経営側から“子供相手のマンガ映画”を求められて深沢一夫氏が書いた脚本が、高畑監督との板挟み的な議論を経て(RAE186頁)、かなり異なる形にブラッシュアップされたことがうかがわれます。
そして、製作スタッフ陣の中に形成された結論は、おそらく……
白馬の王子様が、眠り姫をキスで起こすような、
ただし、その後、完成した『ホルス……』のエンディングシーンは、たしかに“子供相手のマンガ映画”そのものでした。
そうしなければ社会も会社も許容してくれなかったでしょうから。
しかし、“ホルスがヒルダを救助する”場面は、描かれませんでした。
それどころかヒルダは、あの白い廃村でホルス君と出会ったときから最後のエンディングシーンの直前まで、ホルスと手をつなぐことも、親しい会話もなく、どこかピントのずれた説教を垂れるホルスを冷たくあしらい、村長暗殺未遂事件では敵に回るわ、迷いの森に落とすわ、自分から剣戟を仕掛けるわ……で、ヒルダのキャラクターは、ほぼ終始、当時のお定まりの“お姫様キャラ”の真逆を歩んでいるのです。
(もっとも、内心はホルスにホの字で、メロメロでメラメラな愛に身を焦がしている……という、超元祖ツンデレの側面もあると思いますが、それについては、のちの章に詳述します)
そこで……
結果的に、製作スタッフ側が描いたのは……
“他者に依存せず、自立する少女”でした。
だからヒルダは、主人公のホルス少年に媚を売るとか、同情にすがって生きようとはしないのです。兄のグルンワルドにすら逆らいます。
作品の中盤でホルスに出逢ってからずっと、ヒルダは休むことなく、「私は悪魔? それとも人間?」という人生の命題に苦しみ、ときには錯乱し、鼠の襲撃やドラーゴの陰謀に手を貸すなど、狂気的な行動に走ります。
しかしそれでも、彼女は結局……
自ら煩悶して、自ら結論を出し、自ら解決するのです。
だから、一度死んだ自分に残っていた、人間の心を奮い起こし、自力で下山し、自分の足で村まで歩き、ホルスの前に立ち、自分の眼差しで告白するのです。
“あなたと暮らしたい”と。
なぜ、ヒルダは村へ戻って来たのでしょう?
村の仲間たち、マウニやチロや、フレップやコロに再会したいから?
それもありますが、決定的な理由は……
ホルスと一緒になりたい。
これに尽きるのだと、ラストシーンの彼女の視線が語っています。
ヒルダの表情を、最後にアップで見せる、あの切なさと願いと優しさに満ちた微笑みは、“無言の愛の告白”であると思えるのです。(RAE52頁)
対して、笑顔でヒルダに手を差し伸べたホルスは……
これが、“愛の告りへの承諾”であることを知ってか知らずか。
知らないだろうなあ……
ともあれ。
自分の生きる場所は、自分で探すしかない。
待っていたら、誰かが与えてくれるというものではない。
自分の望みをかなえたければ、勇気を奮い起こして、自分の足で、一歩を踏み出そう。それしかない。
だから“愛”も、昔話のお姫様のように、ただ待つだけではやって来ない。
王子様のキスを夢見る眠り姫ではダメなのだ。
だから、生きよう! ひとすじの愛を、この手につかみたい。
いま、しばらく、どうか生かしてください、神様……
ヒルダは、そんな想いだったのでは……と考えます。
やや観念的な解釈ではありますが……
“一心不乱な彼女の愛が、自分の死を克服した”
そういうことではないでしょうか。
だから……
“愛は自らを救う”
それが、“第一の結末”から得られるメッセージです。
これを、ヒルダという“少女キャラ”が実行した。
単なる、やんちゃな“お転婆”ではなく……
ハムレットばりに、生きるべきか死すべきか、という人生の究極の選択を、他者に依存することなく、自分自身で決定し実行した、ヒルダ。
“世界名作劇場”のハイジやペリーヌ・パンダボアヌやアン・シャーリイといった、自立を志向するヒロインがまだブラウン管(当時は液晶ではありません)に登場していない時代のことです。
これは時代に先駆けた、『ホルス……』の歴史的偉業のひとつだと思います。
【補足】
自分の人生を自分自身でチョイスする少女像が最初にスクリーンに現れたのは……
私の知る範囲では、『メトロポリス』(1927独)のマリアでしょうか?
エリート階級と労働者階級の間に立って双方の手をつなごうと自分の意志で行動する少女マリアと、マッドサイエンティストのロートワングに造られて(背景に逆さの五芒星が描かれている演出はお見事!)大衆を扇動し、大都市メトロポリスを破滅に導いてゆくロボット・マリアとの見事な善悪の対比は、『ホルス……』のヒルダに通じるのでは。
ハリウッド映画では1937年の『オーケストラの少女』で、自ら失業者救済のために貧乏楽団を組織して、高名な指揮者ストコフスキーを迎えようと大奮闘するヒロインの少女パッツィー。ディアナ・ダービン嬢が泣かせる演技を見せてくれました。
しかしいずれも、“大人向け”の実写映画です。
“子供向け”のアニメでは登場がはるかに遅れています。
ディズニーアニメでは、『不思議の国のアリス』(1951)のアリスは闊達ですが、まだお転婆の域でしょう。曲がりなりにも人生の選択を自力でやってくれる少女ヒロインは、『ビアンカの大冒険』(1977)の少女ペニーとミス・ビアンカを待たねばならないかと思います。これもディズニーアニメで一番好きな作品です。私見ですが、“アナ雪”よりもずっと優れた逸品だと思いますよ。
劇場アニメで “自立する少女”を中心的なヒロインに据えたのは、『雪の女王』(1957ソ連)が
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