09●第一の結末①……ヒルダは自力で下山する
09●第一の結末①……ヒルダは自力で下山する
第一の結末は、作品の映像を見ての通り……
“ヒルダは一度死んで、生き返った”という展開です。
その理由は、「悪魔の妹は死んだ。人間として目覚めたヒルダは……」(RAE78頁)と説明される通り、「人間として目覚めた」からです。
つまり、“人間に生まれ変わった”のだと。
ホルスに出会ったとき、ヒルダは「あたしには、悪魔の呪いがかけられている」(RAE24頁)と告白しています。この“悪魔”とは、
ヒルダが一度死に、そしてグルンワルドが滅びたことで、悪魔の呪いは解け、ヒルダは人間として新しい生を受けて、新たに目覚めることができた……と、説明がつけられます。
これは、神様の思し召しによる、生まれ変わりの一種ということでしょう。
神様はこう判断したと思われます。
“罪を犯したのは悪魔の妹のヒルダ。人間に生まれ変わったヒルダに罪はない。まっさらの人生を生きなさい”……と。
それも、ひとつの解釈です。
とはいえ、やはりどことなく、ご都合主義の残り香は漂います。
腑に落ちない点が残されているからです。
理屈の通る説明ができません。
と言いますのは……
まず、ヒルダが雪狼に倒され、雪に埋もれてから、生き返るまでの間に、おそらく相当な日数……数日か数週間か……が過ぎているはずだからです。
氷の城でグルンワルドが滅びたとき、一瞬にして“命の珠”は消滅し、魔力も瞬時に消滅して、飛行中のホルスは地上へ落下してしまいました。
このとき同時に、雪原で死に直面していたヒルダにかかっていた悪魔の呪いも解けて、ヒルダは悪魔の妹から、人間の娘へと、一瞬にして相転移したはずです。
となると、ヒルダは、まだ周囲が極寒の雪原であるにもかかわらず、人間として目覚め、立ち上がらなくてはなりません。そのまま気を失っていると、生身の人間ですから、もちろん凍死します。
しかし映像を見るかぎり、春が訪れ、雪解けも進んだ野原に、ヒルダは目覚めています。
数日か数週間かわかりませんが、それなりの日数を経てから、ヒルダは目覚めたわけです。
これは、やはり、不自然です。
だから、ヒルダ自身、生き返った自分に合点がいかず、「どうして、あの珠をなくしたあたしが……」と自問しているのです。
これは、どうにも説明がつきません。
そして、腑に落ちない、二つ目の点は……
ホルスが、ヒルダの救助活動を行なった様子が、うかがえないことです。
グルンワルドが滅びたとき、“命の珠”が消えた直後のホルスに向かって、リスのチロが「ヒルダは死んじゃったの?」(RAE50頁)と号泣します。
このときホルスは、ヒルダがフレップに“命の珠”を譲ってくれたおかげで、フレップとコロが救われたことを知っています。
しかもフレップから“命の珠”を渡されたことで、ホルスは魔力で飛行し、グルンワルドを打ち滅ぼすことができました。
ヒルダはもう、ホルス個人の恩人どころか、村全体の大恩人なのです。
そしてまた、ホルスと違って、ヒルダは村人たちに排斥されていません。
じつは悪魔の妹なのである……という正体は明確にはバレていないのです。(RAE64頁のホルス追放の場面で、村長の息子ポトムに一度糾弾されただけで、終わっています)
ですからヒルダは、まだ、村に受け入れられた、歌うたいの異邦人……というポジションのままです。
こうなると、グルンワルドを滅ぼした直後に、おそらくポトムもボルドも、「ヒルダを探しに行こう!」と声を上げたことでしょう、
直ちに、ホルスをリーダーに、村人有志の捜索隊が組織されて、ヒルダの救助に向かっていて不思議はありませんし、むしろ、そうならなければ、筋が通りません。
人類の味方についてくれた岩男モーグの協力を得られれば、たちまち広範囲を捜索でき、短時間でヒルダを発見できたことでしょう。
なのに、映像では、ホルスも仲間たちも、すっかりヒルダのことなど忘れたとばかりに、呑気に村の再建にいそしんでいます。
これは、アニメの歴史に残る“放置プレイ”ではありませんか!?
ただし、シナリオを読むと、チロのセリフで「だって、あんなに捜したんだよ」(RAE68頁)と、ヒルダの捜索が行われたことが語られています。しかし、映像化された本編では、そのくだりは割愛されています。
本編の映像では表現されなかったのですが、裏設定では……
“熱心に捜索したものの、ヒルダは発見できなかった → だから彼女は自力で下山するしかなかった”……という事情が含まれているようです。
そうはいっても……
これが雪山登山の遭難なら、雪解けを待って、せめて遺体回収に向かいますよね。
結果的に、ヒルダがとぼとぼと、自力で下山してくるまで、少なからぬ期間、彼女を生死不詳のまま放置してしまったことは、まぎれもない事実でありまして……
これはいくらなんでも、
いったい、どこ見て捜したのよ!
とばかりに、ヒルダが激怒してホルスの尻を蹴っ飛ばしても不思議のない場面が、物語のエンディング直前に来るのです。
それでも殊勝なヒルダ、“こんなあたしでも、いいかしら?”みたいな、しおらしい表情で、ホルスと対面します。
これはおかしい。
できすぎだと、思われませんか?
大人の観客が納得できる終わり方としては……
みんなで幸せな結末を迎えたければ、一刻も早く行方不明のヒルダを探し出し、死の一歩手前の彼女に、手をさしのべなくてはいけません。
人間として目覚めたものの、良心の呵責にさいなまれて、村へ還る決心がつかぬまま雪原をさまよい、力尽きようとするヒルダを、間一髪でホルスたち捜索隊が発見し、ヒルダの救助に成功して全員で喜びあう……という展開になっていただくのが、スジというものです。絶対に。
このとき、ホルスがヒルダを抱きかかえて名前を呼び、ヒルダがうっすらと目を開けて、以前、鼠の群れに襲われた直後のルサンとピリアと同じ
そうなってこそ、子供にも納得できる、感動あふれる、お約束ハッピーエンドになったはずなのです。
白馬の王子様が、眠れる美女をキスで目覚めさせる図式……ですね。
しかし実際に映像化された結末は……
ヒルダは生き延びたものの、誰にも助けられず自分の足で村にたどりつくしかありません。すると、まるで今朝あたりに森で迷子になった友達が、ふらっと戻って来るのを待ってました、とばかりに、無責任なみんなが喜ぶハッピーエンド……。いや、えせハッピーエンド?
一見、万人の期待に沿う、典型的な予定調和に見えるスタイル。
当時の漫画映画なんてそういうものだと諦観すればそれまでですが、理論的には、どうにもこうにも、釈然としない終わり方になってしまったのです。
これはやはり、理屈が通りません。
それでも、この結末にしてしまった。
なぜでしょうか?
あくまで私個人の想像ではありますが、制作スタッフ側の意図を推察するに……
“ホルスによる、ヒルダの捜索と救助の場面を、あえて、完成作品のストーリーから排除した”
……ということではないのでしょうか?
そのために、結末が不自然になるのを百も承知のうえで……
つまり、“ヒルダの自力下山にこだわった”のではないかと考えます。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます