07●死の淵の彼方に……ヒルダの結末は三種類ある!

07●死の淵の彼方に……ヒルダの結末は三種類ある!




 『太陽の王子ホルスの大冒険』の主人公は誰なのでしょうか。

 表層的な“子供向け”ストーリーの主人公は、言うまでもなくホルス少年です。

 ポスターにせよ、後年のビデオやレーザーディスクのジャケットでも、中心に大きく扱われているのはホルスの姿であり、ヒルダはヒーローの少年に救われるお約束のヒロインであるかのように、添え物扱いに甘んじています。


 しかし公開前の劇場に流された予告編のフィルムでは、ヒルダの存在感が、俄然、増しています(RAE表2)。

 「わたしは悪魔? それとも人間?」のテロップとともに、懐刀かいとうを構えてせまる、おどろおどろしい形相のヒルダは、彼女が、ただ可愛いだけの女の子ではないことを、観客に印象づけます。

 悪魔と人間の狭間に自己の生きどころを探して苦悩する、二面性を備えた異色の超絶ヒロインが、初めて観客の前に登場した瞬間です。


 そして作品が公開され、16年が過ぎた1984年に出版された解説ムック本、『ロマンアルバム エクセレント 太陽の王子ホルスの大冒険』(徳間書店発行)の表紙には……

 ヒルダの胸像ブロマイドのみ。

 ホルスや、その他の登場人物の姿は皆無で、ヒルダただ一人。


 この解説本は明らかに大人向けです。

 そこには、大人の鑑賞眼で本作を眺めたとき、主人公として認知されるのはホルスではなくヒルダであることが、一目瞭然に示されているのです。


 表層的な子供向けストーリーの主人公は少年ホルス。

 しかし、その裏面に重ね敷かれた大人向けストーリーの主人公は、少女ヒルダ。


 本作はそもそも、役割も性格も異なる二人の主人公による、表裏一体の物語として構成されていたと考えられます。

 そのことを前提としなければ、本作を理解することができませんよ……と、1984年の解説ムック本の編集者から教えられているのです。


 少年ホルスの物語は、とてもシンプルです。

 男の子の、親からの自立、旅立ち、敵との遭遇、試練、人間集団の中での成長、敵と戦い、裏切られ、それでも仲間を信じ、正義を貫いて悪に勝利する……という、男の子向け英雄譚の王道をそのまま進んでいきます。

 それ自体、ひとつの完結した、しかもかなり完璧なストーリーです。


 この、子供向けストーリーの中では、少女ヒルダの役割は、絶対正義のホルスに説得され、諭されて、悪の道から善の道へと更生する不良少女でしかありません。

 村を救ったホルスの功績に、さらなる花を添える名脇役にとどまります。


 しかし……

 大人の鑑賞眼でもって、ヒルダを中心に本作を再構成すれば……

 そこに、ホルス一人の物語よりもはるかに深く、かつ壮絶な精神の叙事詩が立ち上がることに驚かされるのです。


 詳しくは、次章以下にも述べますが……

 ここでは、作品の結末、ラストシーンに着目してみましょう。


 私が申し上げたいのは、“物語の結末が一つではない”……ということです。


 少なくとも三種類の異なった結末が、同じ画面、同じセリフの中に重ねあわされているのです。


 どういうことでしょうか?


 少女ヒルダの物語のテーマは、予告編のフィルムに明示されています。

 テロップによる「わたしは悪魔? それとも人間?」の独白です。

 悪魔と人間の狭間で生きる場所を失い、悩み苦しむヒルダは、おそらく世界のアニメ史上空前の、“引き裂かれたヒロイン”ではないでしょうか。

 そして生と死の狭間で、ついに結論を得たとき、ヒルダの物語は頂点に達します。


 その頂点は、どこにあるのでしょうか。

 ヒルダが、悪魔か人間か、どちらであるべきかを、命がけで選択する場面です。

 それはわかりやすい形で、ひとつのシーンにまとめられています。

 「さ、おゆき! あたしの命の珠をかけて」と、雪中に凍えるフレップとコロに、グルンワルドから与えられていた命の珠を譲り渡す場面(RAE47頁)。

 その直前、ヒルダの行為を止めようとしたフクロウのトトを、彼女は剣を一閃して、ためらうことなく斬り殺します。


 いつもヒルダと一緒にいるフクロウのトトと、リスのチロは、それぞれ、ヒルダの心中で対立する、悪魔の心と人間の心を代弁するキャラクター(RAE186頁)です。

 悪魔の側のトトを切り捨てる所作は、ヒルダが悪魔から決別して人間の心を取り戻そうと決意したことを明示しています。


 しかし、人間であることを選び、その場で“命の珠”を手放すことは、猛吹雪のさなかにコートを脱ぎ捨てるようなもの。

 フレップとコロを助けるかわりに、自分の命が危なくなります。


 ならばヒルダは、フレップとコロを抱いて、自分自身の魔力を使って、命の珠の保護結界に包まれながら、一緒にホルスの村へ行けばよかったのです。

 空を飛ぶこともできるので、村へ到達することは容易です。

 当時の“子供向け”のお伽噺なアニメ作品なら、そうするのが、むしろ妥当な筋書きであったでしょう。

 なのに、あえてヒルダは、命の珠を放棄して、フレップに託した。

 なぜでしょうか?


 答えは明白です。


 “人間であることを決めた瞬間、ヒルダには、自ら命を絶つべき理由が生まれた”からです。


 ヒルダはこの時、この場所で、悪魔ではなく、人間として“死ぬ”ことを決意したのです。


 その理由は……

 ヒルダが人間の村を攻めたのは、これが初めてではありません。

 「いつもいつもヒルダは、闘わされるだけなんだ」とチロが嘆く(RAE29頁)ように、これまでも幾多の村にグルンワルドの工作員として潜入し、その歌の魔力で人心を惑わして、内戦を誘発させてきました。

 殲滅した村はひとつやふたつではない、おそらく二桁以上のオーダーでありましょう。その犠牲者は数千、数万を超えるかもしれません。

 まさに、微笑み歌う美少女型大量殺戮兵器です。


 もっとも、ヒルダは内戦工作をするだけで、直接手を下さない間接正犯。

 であるとはいえ、血みどろになって互いに殺しあう男たちや、火に包まれて焼かれる母親や子供を間近に見てきたのです。

 おそらく、冷えた笑みを浮かべながら……


 ヒルダは大量殺戮の隠れた張本人。

 しかも、グルンワルドに力ずくで強制されたのではなく、半ば自分の意志で殺戮に加担してきたことも事実です。殺意に故意が認められるのです。

 「なりたくないわ、人間なんかに!」(RAE41頁)と、無力なホルスに刃を向けるほど、ヒルダの心の奥底には、人間という悪しきものへの深く激しい憎悪が宿っていることが察せられるからです。


 ヒルダはグルンワルドの魔力で洗脳され、自分の意志を失っていた……と解釈することもできますが、じつはグルンワルドのマインドコントロールは早々にほころびを見せて、ヒルダに対する支配力はかなり薄れています。

 例えば……

「グルンワルド様はお待ちかねです、一刻も早くホルスを斃されたいと」と、フクロウのトトが注進する場面(RAE63頁)がありますが、そのようなことを指摘されること自体、ヒルダがホルス抹殺計画をなぜか先送りにして、着手が遅れていることを示しています。

 しかも続く場面で、「マウニは助けます。このヒルダが……」と彼女が答えたことで、トトはフギャッとばかりにビックリ仰天しています。

 敵の人間を助命するなんて、全くの想定外。

 ヒルダへのマインドコントロールが完全なら、ヒルダはためらわずさっさとホルスを殺し、マウニも殺そうとするでしょう。

 少なくともこの時点で、ヒルダはグルンワルドに盲従する奴隷ではなく、自分自身の意志を心の中にしっかりと保持している、と思われるのです。

 ですから……

 

 ヒルダの心の中は、グルンワルドに支配されてはいない。

 

 しかし……

 それでもヒルダはホルスの斧を手に入れて、ホルス抹殺計画を遂行します。

 崖っぷちにホルスを追い詰めたヒルダのセリフは……

「なりたくないわ、人間なんかに!」(RAE41頁)

 つまり、グルンワルドに精神を支配されたとか、悪しき思想を刷り込まれたというのではなく、まぎれもなく彼女自身の意志として、人間に対する底無しの憎しみを吐露しているのです。


 ということは……


 過去のヒルダがグルンワルドとともに数々の村に住む多数の人々を殺し続けてきた行為は、悪魔の兄グルンワルドに強制されたのではなく、悪魔の妹であるヒルダ自身の意志にもとづく、故意の犯罪であると推定されるのです。


 この作品の世界の中で、最も多くの人間の殺戮に、意図的に加担してきたのは……

 ヒルダ自身。


 その罪はあまりに重い。

 人間となる以上、ヒルダは罪をあがなわねばならず、だから、極寒の雪原にフレップとコロを発見したとき、彼女は命の珠をはずし、「自ら死を選ぶ」ことにしたのだ……

 そう考えてよいでしょう。


 “死ぬことで魂を浄化する”


 壮絶なまでのテーマが、ここに浮かび上がります。


 “ヒルダの死”の場面にはそれだけの重みがあり、まさに絶妙の演出なのです。


 やがて観客は、スクリーンの画面から問いかけられます。

 「ヒルダは? ヒルダは死んじゃったの!?」(RAE50頁)と泣き叫ぶチロの姿です。


 ヒルダは死んだ。それでいいのだろうか? 

 ……と気付かされた時、観客の期待に応えるかのように、ヒルダは早春の野によみがえります(RAE51頁)。


 まあ、子供向けの漫画映画だから、最後はハッピーエンド、そんなものさ……と、観客の大人たちは勝手に納得したことでしょう。


 だが、そんなはずがありません。


 当時、主要な観客であった小学生でも、あれほど悲劇的に亡くなったヒルダが、最後の最後に都合よく生き返る展開には、“子供だまし”を感じた子がいたのではないでしょうか。

 そんな安易な結末を、三年もの月日をかけ、巨費を投じて、最高峰のスタッフたちが心血を注いで作ったとは思えません。

 超精密なアナログ時計のような『ホルス……』なのですから。


 筆者の私自身、子供のころに初めてこの作品を観たとき、変だと思いました。

 どうしてヒルダは生き返ったの?


 なぜなら、当のヒルダが、生き返ったときに自問しています。

 「どうして、あの珠をなくしたあたしが……」(RAE51頁)

 ヒルダ自身、自分が死ななかったことを、不思議に思っているのです。


 死んだはずなのに、生き返ってしまった。


 これは、観客に対する、“ここで、なぜなのか、理由をよく考えてみたまえ”という、制作スタッフ……もしかすると、高畑勲監督……からの問いかけに他ならないのではないでしょうか。


 ありえない状況から生き返る以上、必ず理由があるのだ……

 ……という謎かけなのです。


 じつはこの瞬間から、物語の結末は三つに分かれるのです。





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