写真⑧

その晩、拓人はご飯に卵をかけてかき混ぜると途中醤油を足しながら口に頬張った。テレビはついておらず、茶碗を箸で掻く音だけが時々響く。健司は部屋で寝たまま一向に起きない。


健司は目を開けた途端、地面に吸い込まれそうな酔いを感じてもう一度目を閉じた。

酒を口にしたのはいつぶりだろうと考えた。元々酒は弱く好まなかったが、昔なら会社の行事で1、2杯付き合う事はあった。しかしそれも妻めぐみの容体が悪化してからは忘年会すら断るようになった。拓人の面倒を見てくれる身内は誰一人いないのだから仕方がなかった。健司の頭の中では、今朝の出来事が何度も繰り返されている。


部長が出勤してきたのを見てすぐさま、長らく休んだ事を詫びようと健司は席へと向かった。部長の江住は朝礼後にもう一度来るよう言いつけた。休んでいた間に担当顧客からのクレームや相談の対応を自分の代わりにしてくれた社員がいて、引き継ぎ事項が多いのだろうと思った。朝礼の間中、引き継ぎ内容を色々と想像していたが、朝礼後に江住の口から出た言葉は意外なものだった。

「私は上が決定した事を伝えるまでなんだが… 君には退職してもらうことになった」

言われた事を理解するまでに暫し間があった。やがてじわじわと不安が胸に広がり始めた。

「退職… ですか」

「ああ。これはちゃんとした理由があっての事だ」

「長らく欠勤した事が原因ですか?」

「それだけじゃない。前から君の働き方について回りから意見があってな」

「どのようなことでしょうか?」

「まあ、家庭の事情ってのは充分把握しているが、これまでに早退や欠勤が何度もあっただろう?」

「はい」

健司の眉尻は深く下がった。

「まだ小学生の子供を父親1人で育てるってのは大変だとは思うがな、周りの社員だって家庭の事情は色々ある。君だけを特別扱いする訳にはいかない」

「申し訳ありません」

「営業成績が悪くなかったからこそこれまであまり言わずに済んでいたところもあるが、今じゃ獲得数が一層と落ちているのも明白だ。うちの会社も経営が厳しくなってきてる、言いたい事はわかるな?」

「はい… あと、どれくらいここで働かせていただけるのでしょうか」

「今日は何日だ?」

「29日です」

「そうか、29日か。明日は土曜日だな」

「はい」

「うちとしては、今月末で退職してもらいたい」

健司は胃が引きちぎれるような痛みを感じた。声の出し方さえ忘れそうになるほど、突きつけられた現実は厳しい。

「つまり…」

「そういう事だ。挨拶まわりは必要ない、今日は自席の片付けに専念するといい。君の担当顧客の引継ぎも不要だ。君が休んでいた間代わりに対応していた新人の松永にすべて任せてある」

何と返事をしたらよいのか、健司は言葉を出せなかった。自分がこれまで必死にしてきた事は、引継ぎが不要な程度の仕事だったのだろうか、と頭の片隅で思った。しかし明日から無職になるという事以外、考える余裕はなくなってしまった。江住は健司の顔を見もせず立ち上がると、素っ気なく、あるいは逃げるように静かに部屋を出て行った。




「おい拓人!昨日なんで来なかったんだよ!」

明るい朝の光が差し込む教室に機嫌の悪い声が響いた。

「ごめん」

「なんでかって聞いてんだよ」

行こうと思えば行けたものをどうして行かなかったのか。簡単に説明できるような胸の内ではない。

「また今度行くよ」

拓人は咄嗟に言ったものの、当分行けそうにないと思った。そして言った事を後悔した。

「は?やだよ。ちゃんと理由も言えねえような奴、誰が誘うか」

その瞬間、拓人の後ろの席に座っていた聡が間に入った。

「おい勇太、そんな怒るなよ。拓人は“たぶん”行けると思うって言ってたんだぞ?」

「たぶんって、ほぼ行けるって事だろ?こいつ、前から何回も誘ってんのに全部断ってんじゃん。ほんとは俺らと野球したくねえんじゃねえの?」

「…そんな事ない」

小さな声の拓人を勇太は嘲笑った。

「ほら、声震えてんじゃん。嫌ならはっきり言えよ」

「やめろよ勇太!」

「なんだよ、なに味方してんだよ!」

勇太が聡の肩を強く押すと周りの生徒が注目した。聡は勇太を睨みつけた。

その時、ホームルームが始まるチャイムが鳴り響き担任の林が教室に入ってきた。勇太は林に目を付けられないようすぐさま窓際の自分の席へと戻った。聡は呆れた顔でその背中を見ている。

「ごめん、聡」

「なんで拓人が謝るんだよ。あいつが悪いだろ」

「昨日行かなかったのは本当だからさ」

「気にすんなって」

拓人は少し安心し、林が話し始めたので前を向いた。



1限目、国語の本読みをしている生徒の声を聞きながら拓人は朝の健司の様子を思い浮かべていた。昨夜健司はトイレに行く以外に部屋から出てくる事はなかった。また、拓人から健司に話しかける事もしなかったために家の中には異様な空気が漂った。

しかし、拓人が朝目覚めて台所に行くと健司はこれまで通り何もなかったかのような顔で拓人に話しかけてきた。学校からもらってきたプリントはランドセルから出したか、上履きはそろそろ洗った方がいいんじゃないか、健司が自然な声色で話しているのを見て不思議な気持ちになった。仕事が無くなったと言っても今が大変なだけで、また少し日にちが経てばどうにかなる事なんだ、まだ小学生の拓人はそんなふうに考えた。

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