【ノベルバー】霜月のための三十の諸相
藍川澪
第1話【鍵】
家の鍵を返した。
賃貸のマンションは人の入れ替わりが前提なものだから、当然退去の手続きも手慣れたものだった。水回りだの壁紙だのを見た中年の男性は、じゃあ敷金はこれだけお返ししますねとその場でさらさらと金額を出して見せた。同意の印鑑を押して、がらんどうになった家、だった場所を出る。もう家じゃないんだと思うと、この前まで起居していたはずの場所がいやによそよそしく思えた。
ドアに鍵をかけて、その鍵を男性に渡してしまえば、もうそこはぼくの居場所ではない。スマートフォンに撮った退去前の記念写真は、なんだか侘しい風情の窓際が写っていた。
エレベーターで地上まで下りて、ロビーで男性は一礼し駐車場の方へと去っていった。あの鍵は、全く見も知らない別の人の手にいずれ渡る。あの部屋は、ぼくの知らない場所になる。そう思うと、少し寂しいような、荷物が軽くなったような妙な気分がした。
とりあえず、ここにいても仕方ない。ぼくはもう、ここの住人じゃないんだから。ぼくが背を向けたマンションの前では、見慣れた子どもたちが今日もきゃあきゃあと高い声を上げながら遊びまわっていた。
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