第6話 用品にも色々種類がある(後編)
「うわあ~ マットってこんなにあるんだ~」
マットコーナーを見たハルはその驚きを隠せなかった。それもそのはず、彼女の眼前には袋詰めされた茶色や黒色の土が積まれた4段の棚が左右に5台置かれていた。
現役飼育者であるナツキとタクミにとっては当たり前の光景であるが、初心者──それも人生で一度も昆虫ショップに来たことがない──であるハルにとっては驚くべき光景であった。彼女のみならずクワカブに興味がない一般人でもこの光景には驚くだろう。
「親父が生体の次に力を入れてるところだからな~」
川西クワガタセンターのマットコーナーは他のショップと比べ、売り場面積が広くとられている。その理由として、このショップオリジナルのマットを多く販売しているからだ。
ショップの中にはそのショップオリジナルのマットを作って販売をしているところがある。このショップのマットは特殊製法により幼虫が大きく育つようになっており、尚且つ質がとても高い。オマケに値段も他社のマットに比べ手頃なので多くの飼育者から高い評価を得ている。
「ねえ能勢さん、マットってどんな種類があるの?」
──お、やっぱり来たな
思った通りの質問が来てナツキの口角が少し上がった。
「まずマットというのは大きく分けて2つあるの。それが未発酵マットと発酵マット。未発酵マットは朽ち木とかを粉々に粉砕しただけのマットのことで主に成虫を飼うときに使う。それに対して発酵マットは未発酵マットを発酵させて幼虫が食べられるようにしたマットのことなんだ」
「ふむふむ…」
ナツキの説明を聞きながらハルは熱心に手帳にメモをしていた。今の時代、メモを取るならスマホのメモ帳アプリで書いた方が早いのだが、彼女曰く、スマホのメモ帳アプリで書くより手書きの方が頭に残りやすいのだとか。
「今回は成虫を入れるケースに敷くマットだからこの成虫管理用のやつを使う。産卵や幼虫育成用のマットだとコバエが湧きやすいし値段も高いからな」
ナツキは棚の二段目に置いてある成虫管理用と印字されているマットを指差した。薄茶色で粒子が荒いこのマットはクヌギの朽ち木を粉砕しただけのシンプルなものである。
「あれ?」
「ん?桑方さんどうしたの?」
「あのマットも成虫管理用って書いてあるけど、どうちがうの?」
ハルは成虫管理用マットの横にあるマットを指差した。そのマットは最初に見たものに比べ粒子が細かく、色もオレンジ色をしている。そして決定的に違う点はマットの
「ああ、これか。これは針葉樹マットだな」
「針葉樹マット?」
「そ、こっちのは針葉樹の材をマットにしたやつ。主に虫に付く
クワカブを飼育していると必ずと言っていいほどつきまとってくるのがダニである。一緒に入れた覚えがないのにいつの間にか成虫の体に集団でくっついている。ダニは成虫に付いている有機物をエサとしており、環境さえ合えば体を覆うぐらい繁殖してしまう。人によっては飼っている虫に害はないとは言われているが、飼い主にとっては気持ちの良いものではない。
さらに、ダニが産卵用のケースで繁殖してしまうと、使用しているマットが急激に劣化をしてしまい、産卵数に影響が出てしまう。
ダニの存在には様々な意見があるが、プラスになるものではないことは確かである。それらの問題を解決してくれるのがこの針葉樹マットなのだ。
「針葉樹にはダニやコバエが嫌がる成分が含まれているんだ。それに消臭効果もあるから結構需要があるんだよ」
ダニやコバエは針葉樹に含まれるヒノキオールと呼ばれる成分を嫌うため、針葉樹マットを敷いているケースにはダニやコバエが湧きにくくなる。また、このマットで飼育すると成虫の体に付いたダニも落ちるため、ダニが落ちるまでの間、針葉樹マットで飼う飼育者もいる。
ここまでの説明を聞いてハルは少し迷っていた。一体どっちのマットを使うと良いのか、初心者であるハルには分からなかった。しかし、今この場には現役の飼育者がいる。それも二人だ。悩み続けるより、二人からのアドバイスを聞いた方が最善である。
「能勢さんや川西くんもこのマット使ってるの?」
「うーん… 最初の頃は私も針葉樹マットを使ってたけど、今は普通の成虫管理用マットをつかってるかな」
「俺は今でも使ってるぜ。俺の場合、カブトをメインで飼ってるから少しでもマットの劣化の原因を無くしたいからな」
二人の意見は二つに分かれた。
「能勢さんはどうして普通のマットで飼ってるの?」
「一番はやっぱり
「バクテリア?」
生物が得意ではないハルでも、この言葉の大まかな意味は知っている。クワカブ飼育でのバクテリアはどういうものなのかは分からないが、何らかの
「クワガタのメスは幼虫の消化に必要なバクテリアを持ってるんだ。これが少ないと産卵数も少なくなってしまう。針葉樹マットの成分にはバクテリアを殺してしまうから産卵にも影響すると思って変えたんだ」
「あ~確かそんなことエークワに書いてた人いたな~ けどそれって半分都市伝説的な感じがするんだよな。その辺どうなのよ、ナツキ」
「最初は私もそう思ってたけど、いろんな人の飼育ブログとか見たら全部ウソって感じではなかったんだよね。実際に検証してた人もいたし」
タクミが投げ掛けた質問にナツキは実際に調べた結果を元に答えていった。
「この話が真実であれウソであれ、産卵数に影響する原因は出来る限り取り除きたいからさ。タクミがさっき言ってたことと同じだよ」
ここで二人の議論を聞いていたハルが話しかけてきた。
「やっぱり人によって色々な意見があるんだね~」
「そ、飼育者も人だからね。全員が同じ意見を持ってるって訳じゃない。この話題だってそう。支持する人もいればしない人もいる。こういった議論があるからこそ、この界隈は日々成長していくんだよ……って桑方さん、どうしたの?」
見るとハルは少しぼーっとした表情でじっとナツキを見つめていた。
「もしかして、ちょっと難しかった…?」
「ううん、そうじゃないの。やっぱり能勢さんってスゴいんだなって。色んなこと知ってるし、何も知らない私に親切に教えてくれたからさ。ちょっと尊敬しちゃった」
「そんな… 別にすごくないよ… 」
「そんなことないよ。私も能勢さんみたいになれたらなって思っちゃった!」
満面の笑みで語るハル。それを見たナツキは自分の胸が熱くなるのを感じた。他人からこんなにも尊敬されたことがなかった彼女にとって、こんな気持ちになったのは初めてだった。そしていつの間にか彼女も先程のハルのような姿になっていた。
「どうしたの能勢さん?なんだかぼーっとしてるけど…」
「えっ…… う、ううん、何にもないよ」
我にかえったナツキは咳払いをすると話題を元に戻そうとした。
「でさ、桑方さんはどっちのマットにする?」
「う~ん… やっぱり最初の方のマットかな? 針葉樹の方はダニが湧いてきたときに買うことにするね」
ハルは5Lの成虫管理用マットをカゴに入れると嬉しそうに先を進んでいった。
「
「なんだよその言い方」
「いやあ、お前本当にスゴいなってことだよ」
「何さっきの桑方さんみたいなこと言ってるんだよ…」
ナツキはタクミのからかいに少し呆れながら返したものの、その表情はどこか嬉しそうだった
「二人とも!次はゼリーでしょ~ 早く行こ!」
先を歩いていたハルが振り返って彼女たちを呼んだ。
「おっと、早く行かねえとな」
「だな」
※
20分後、ハルの会計が済むのを待った後、三人は店の出口へと向かった
「今日は色々教えてくれてありがとう!」
「いいっていいって。またなんかあったらいつでも来ていいからな!」
「私も、分からないことがあったらいつでも相談して」
「うん!能勢さん、川西くん!今日は本当にありがとう!おじさんにもよろしくね!」
ハルは礼を言うと見送ってくれた二人に手を降り、帰っていった。
「じゃ、私もそろそろ帰るね。今日はありがとう、タクミ」
「おう、気を付けてな」
しばらくしてナツキもタクミと別れた。
その帰り道。ナツキはあの時の会話を何度も思い出していたしていた。
「私も能勢さんみたいになれたらなって思っちゃった!」
──私みたいになりたい……か
あの時の会話を思い出しつつ、新しい仲間、そして明日もあの仲間に会えることを考えながら彼女は自宅を目指して歩いていった。
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