第5話 その腕は二つ

 目の前にいる少女の事を俺は知らない。

 という事は、彼女は原作に登場しない人物と言う事になる。

 ジョンに助けられる筈の人物の一人、という事だろうか?

 分からないけど、何にせよ彼女が助かり今も生きている事はとても嬉しい事だ。


「え、ぇっと」


 少女は差し伸べられた俺の腕を見、少し戸惑って見せる。

 俺の手を取って良いのか分からないと言わんばかりの様子。

 空中で手を伸ばしかけ、それを引っ込めかけ、を繰り返す。

 業を煮やした俺は逆に俺の方から腕を伸ばし、彼女の手を取る事にするのだった。


「、わっ」

「ほら、大丈夫か?」


 驚き、目を見開く少女に俺はとりあえず笑って見せる。


「悪いけど、服を乾かすとかそういう手段を俺は持ってねぇ。そこらへんは自分で何とかしてくれ」


 にっ、と笑ってそれから俺は彼女の手を放す。

 柔らかく温かい手だ。

 生きている人間の手。

 そしてその場から離れようとする俺に対し、背後からその少女が「あの!」と声を掛けてくる。

 だいぶ勇気を振り絞った感じの声だった。


「あ、ありがとうございます」

「……いや、当然の事をしたまでだよ」

「あの、その。私は、アリシアと申します。お礼に関しては後程、しっかり手順を踏んで行わせて貰うので」

「……アリシア?」


 その名前は知っていた。

 確か、ヒロインの一人の妹の名前だ。

 そしてその妹であるアリシアは、プロローグの、今回の事件で亡くなる事になっていた筈。

 だからこそそのヒロインは最初勇者の事を嫌っていたのだ。

 だとしたら、俺は原作にない動きを取って死ぬ筈だった人物を生かしたという事だろうか?

 ……いや、別にそれは問題ではないか。

 死んで良い人間はこの世にいないし、彼女が生きている事は喜ぶべきだ。

 それが物語にどのような影響を及ぼすのかは分からないけど、とりあえず今は彼女が生きている事に安堵しよう。


「お礼は良いよ。さっき言った通り、お前を助けたのは当然の事をしただけの事。勇者として、人として、な?」

「ですが」

「お礼をしたいというのならば、お前にはもっと明るい表情をして欲しいよ。生き残った事に罪悪感を覚えているというのは、俺としてもあまり嬉しくない」

「それは――」


 口ごもる彼女、アリシアに俺は再び笑いかける。


「そう言う訳だからアリシア、だっけ? 今後また顔を合わせる事があるかもしれないけど、その時はちゃんと笑ってくれ」

「あ……」


 そして今度こそ、俺はその場から離れる。

 背後から彼女の視線を感じるが、あえて無視して歩いて行った。

 

 ……寮の部屋までは割と迷わずに辿り着く事が出来た。

 まあ、迷う方がオカシイか。

 前世の記憶を取り戻して自我が変容しても、俺は俺なのだから。

 学園長が言った通り、他の寮生よりも広くて住み心地が良さそうね部屋。

 柔らかなベッドの上に転がり、俺は一人小さく呟い矢。


「……くそが」


 俺は。

 逃げた。

 逃げて、助ける筈の人々を助ける事が出来なかった。

 寝取られゲーの鬼畜勇者の方がもっと成果を上げているという事実が、とても重く俺にのしかかって来る。

 無論、本来死ぬ筈だった少女が今も生きている事は良い事だ。

 だけどそれは大前提で、もっと救える筈の命があった筈。

 苦しい。

 ……悔しい。


「畜生……」


 ぎり、と歯を食いしばる。

 涙が零れそうになり、俺は枕に顔を埋める。

 こんなところ、誰にも見せられない。

 俺だけの寮室だからこそ許される行為だった。


 俺はこれから、どうすれば良い。

 ――やる事はもう決まっている。

 それはつまり物語と同じく人々を救い、助けられなかった筈の人々も救う。

 きっと過酷な道だろう。

 原作の勇者は、女好きという性格であったからこそもしかしたら耐えられていたのかもしれない。

 なんだかんだ言って、女生徒のスキンシップでリラックス効果を得てたのかもしれないな。

 だけど今の俺にそんな事をする余裕はない。

 

 ……強く、ならなくちゃ。


 そう心に決める。

 誰かを守るために、俺は強くならなくてはならない。

 そのために、今流す涙を糧にする。

 そう思いながら、俺は枕を少しだけ濡らし――


「失礼しますぅ」


 ――底抜けに明るい声に、シリアスな空気が破られる事になった。

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