第三章:雫

第八話

「家出?そもそもどうしてそのようなことを?」


 イザークは固まってアデルナにそう問いかけた。なぜか心の奥がガタガタと震えている。


「公爵家に居る意味がないから出るのよ。ここは束縛しかない。欲しいものも手に入らない。ここにいては私はいつか家の為に嫁に出されるのよ。」


 それは公爵家に生まれたのなら仕方がないのでは?そんなイザークの無自覚をアデルナが追い込む。


「いい?私が嫁いだらあんたもついてくるのよ?想像してみなさい。あんたの目の前で、私の夫は私を抱きしめてキスするのよ?愛を囁いてさらにもっと‥‥」

「いや!もうやめてください!」


 その様子を具体的に思い浮かべてイザークは慌てて制止する。気持ちが悪い。


「ほら、いやでしょ?」

「‥‥いやというか、ちょっと生々しくて‥‥」

「なに生娘みたいなこと言ってるのよ!」


 イザークは顔を伏せて手で目元を覆う。散々姫の婚約を心配していたのに、結婚のことまで考えていなかった。考えないようにしていたのかもしれない。


 自分が大切に守ってきたこの姫に自分でない誰かが触れる。それはイザークの心をざわりと泡立たせた。

 この感情は忘れるくらい遥か昔に封じた。姫はそのようにたやすく触れていい方ではない。


「というわけだから、駆け落ちするわよ。」

「駆け落ち?誰が?」

「私が。」

「‥‥誰と?」

「あんたと!皆まで言わせんじゃないわよ!!」

「姫こそ!駆け落ちの意味を正しくご存知ですか?!」


 もう今更驚かない、と身構えていても驚いた!なぜに駆け落ち?しかも俺と?!そんな関係でもないのに!!


「知ってるわよ!私が知らないことがあると思って?結婚を反対させた恋人同士が逃避行するんでしょ?!」

「俺と姫は恋人ではありませんが?!」


 ふん、とアデリナは鼻息が荒い。イザークをぎろりと睨みつける。


「そうよ、だからこれは偽装駆け落ちよ。一人でいなくなると誘拐か事故かと勘違いされて捜索隊が出るでしょ?駆け落ちなら仕方ないで諦めるから。」

「そんなわけないでしょ!公爵令嬢舐めたらダメですって!大騒ぎになります!」

「一人で失踪とか怖すぎるでしょ!ホラーよ!憶測で変な噂が立つのよ。駆け落ちの方が穏便にすむの!」

「そんな理由で俺を偽装駆け落ちに巻き込まんでください!!」

「イザーク!」

「ダメです!今回は絶対ダメ!!」

「‥‥あんた、本気で言ってるの?」


 アデルナは信じられない、とため息をついた。


「ここまで強情とは思わなかった。いやそう育てたんだけど。」

「俺は姫に育てられたことはありませんが?」

「養ったでしょ?」

「公爵家から給金はいただきましたが!」


 もうさっきからなんなんだ!人の気も知らないで!俺の意思が一欠片も入っていないのに家出とか駆け落ちとか。命令すればいつでもついてくると思うなよ!


 イザークは苛立っていた。ここまで苛立つ訳もわからない。ただぞわりと泡立つ焦燥がイザークを責め苛む。


 だがその一方でイザークは心中でため息をつく。どうせこの姫の言う通りに命じられる。そして俺は逆らえない。


 アデルナはふーっと長いため息をついた。そしてイザークを見据えた。


「わかったわ。好きになさい。」


 予想外に突き放されて今度はイザークが口籠る。そこにあると思い伸ばした手が空を掻いた時のような虚しさが残る。


「今晩決行するわ。それまでどうするか考えなさい。命令はしないわ。ついてくるか残るか、自分でどうするか決めるのよ。」


 そう言いアデルナはイザークを下がらせた。




 





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