第9幕 日比谷野音・国会議事堂の段


     ( 1 )


「はーい正樹ちゃん、元気ですか?

 この頃全然電話も手紙もなくて心配です。

 この葉書届いたら、電話か手紙下さい。

 何かあったら、すぐ東京へ行くといやに張り切っているお父さんです。 照子より」


 照子から葉書届いて読んでいたが、全然返事を書いてなかった。

 電話もしてない。

 葉書読んで、すぐに電話した。

「何かあったの。全然連絡なくて」

「色々事件続いたから」

「何かあったの。困った事あったら云うてみんしゃい」

「良いニュースと悪いニュースそれぞれあった」

「良いニュースは」

「義太夫三味線の師匠、竹之輔師匠が、重要無形文化財、つまり人間国宝に内定された」

「へえ、それは良かった。で、悪いニュースは」

「二つある」

「ちょっと待って。すぐかけ直すから」

 電話が長くなると悟った照子は、一旦切ってかけ直した。

 長距離電話は、料金が跳ね上がるのだ。

 それを気にしていたのだ。

 これなら、正樹も気兼ねなく話せると思う母親の気持ちだった。


 正樹は、受話器を握り直して、階段口に座った。

 どこから話すべきか一瞬迷った。

「まず一つ目話す」

 あの日。

 いつも通りに国立劇場に姿を見せた竹之輔だった。

 異変は舞台、本番中に起きた。

「壺阪観音霊言記」の幕が開く。

 しばらくすると義太夫三味線を抱えて下向いたまま、義太夫三味線を鳴らす竹之輔。

 しかし、義太夫三味線の音色はすぐに途切れた。

 竹之輔は、義太夫三味線を抱えたまま、がくっと顔が下を向き目を閉じた。

 一番早く気づいたのは、隣りの椿太夫だった。

 上手袖に目配せした。

 途中で幕が閉まり、客電が明るくなった。

 すぐに正樹らによって上手袖に引き入れた。

 原田頭取が駈け付けた。

「竹之輔師匠!」

 頬を叩いても意識はなかった。

「すぐに救急車や」

 椿太夫は叫んだ。

 救急車が到着した。

 正樹は一緒に乗り込もうとした。

「正樹くんは、ここにいなさい」

 原田が制止した。

「けど」

「正樹、お前はここに残れ」

 椿太夫は仁王立ちして、指でさされた。

「わかりました」

「僕が代わりに」

 上条が云って、原田と一緒に救急車に乗り込んだ。

「何かあったら、頭取部屋の電話するから」

 直通に通じる電話があった。

「わかった」

「僕らは、ね」

 上条は、仙仁ら三人だけに通じるメールの事をつぶやく。

 そして、簡単なメールが届く。


「日本大学病院

 そこに収容された。只今手術中」


 正樹は、落ち着いていた。

(ここで、竹之輔は死なない)

 他の太夫、義太夫三味線弾きは、うろうろしていた。

 正樹は、一度経て来た50年を知っていた。

(あと、少なくとも2年あまりは生き延びる)

 でもそんな事は云えない。

「竹之輔の代役は、正樹くんにお願いする」

 椿太夫は宣言した。

「けど師匠、正樹はまだ研修生ですから」

「研修生が出たらあかんのか」

 椿太夫ではなく、後方にいた梅太夫が発していた。

「正樹、早よ支度せい」

「わかりました」

「場内放送せんかい!」

 係員は走って行った。

 場内アナウンスが流れる。


「三味線、矢澤竹之輔急病につき、代わりに坊屋正樹が合い務めて参ります。坊屋正樹は、今年度文楽協会が募集を開始しました、第1期文楽研修生であります」


 アナウンスが終わると共に、大きなどよめきがあちこちで、瞬時に生まれた。

 史上初の本公演に研修生が出演する事になった。

「坊屋正樹って、銀座ホコ天で話題になった人だろう」

 東京なので、中座での出来事をほとんどの人は知らなかった。

 情報を得るのは、テレビ、新聞が主流の時代だったからだ。


 正樹が、義太夫三味線を奏でる頃、原田頭取と上条は日本大学病院にいた。

 原田からの連絡で、弓子夫人が見えた。

 入院に必要な物が入っていると思われる大きな紙袋を持っていた。

「原田さん」

「今、緊急手術が行われてます」

「手術ですって!」

「心臓が悪いそうです。でも奥さん大丈夫です」

「心配なく」

 上条も同調した。

 待合室で、三人は黙ったままだった。

「こっちも大変だけど国立劇場も大変だな」

 こっくりと上条はうなづいた。

 原田が国立劇場に電話した時、竹之輔の代役が、正樹と知ったからだ。

「ご主人の代役は研修生の坊屋正樹くんです」

「やっぱり」

 その言葉に原田は違和感を覚えた。

「やっぱりって何かあったんですか」

「ありました」

 上条は云った。

 先日、研修生が南青山の竹之輔宅を訪れた時に、竹之輔が正樹相手に稽古をつけた事を話した。

「主人は、この日が来るのを予知してたんですかね」

「まさか!偶然ですよ」

 上条も弓子夫人も偶然とは決して思ってなかった。

「うちの竹之輔こそ、予言者かもしれませんね」

 待合室に弓子夫人の言葉が、妙に一同に降りかかる。

 時が経つ。

 中々、手術の終わる時間が来ない。 

 廊下を一人の男が走って来た。

「竹之輔師匠は、まだ生きてますか?」

 と叫んだ。

 一同は、突然飛び込んで来た輩に困惑と強烈な拒否の視線を投げかけた。

「原田さん、どうしてここに」

 男は、原田に視線を集中した。

「お前こそ、何で来たんだ」

 二人に一同は視線を投げかけた。

「ああ、自己紹介しろ」

 原田は、その視線に気づき云った。

「申し遅れました」

 男は、慌てて背広の内ポケットから名刺を取り出し皆に配った。

「文化庁の平安京介です」

「こいつとは、同期なんです」

「原田さん文部省やめて、今何してるんですか」

「文楽協会の事務方だ。それよりお前の要件は何だ」

 すでに竹之輔が、人間国宝に内定していた事は原田も知っていた。

 平安は、かいつまんで説明した。

 記者発表はまだだが、今年度の人間国宝内定者の健康調査を行っていると云う。

「つまり、正式発表まで生きているかって事か」

「率直に云うとそうです。それでどんな具合ですか」

「まだ手術終わってないので、何とも云えない」

 もし竹之輔が亡くなったら、文楽人間国宝の枠が一つ空く。

 文化予算は、決められている。

 人間国宝になると、毎月死ぬまで年金が支払われる。

 予算が少ないので、大体70代、80代が多い。

 長生きしないから。

 次の人間国宝に回せられるから。

 死んだら、代わりの人間が任命される。

 万が一竹之輔が亡くなれば、人間国宝のリストから除外される。

 

 舞台を終えると、正樹はすぐに日本大学病院に駈けつけた。

 国電中央線「四ツ谷」駅から、「御茶ノ水」下車。

 手術はまだ終わってなかった。

 上条は、正樹の顔を見てすぐに、

「ちょっといいかな」

 正樹と少し離れた場所に行く。

「きみは、少し勘違いしてないか」

「どう云う意味ですか」

「きっときみは思ってる。竹之輔師匠は、ここでは死なないと」

「そうです。上条さんも知っているでしょう」

「それが大きな勘違いだと云うんだ」

 上条の小声での説明は続く。

 正樹は、50年前の自分の人生をやり直している。

 そこでは、そっくりそのままではなくて、新しい人生もある。

 銀座ホコ天、中座、伊予北条鹿島それぞれの土地での義太夫三味線ライブ。

 一回目の人生ではなかったものだ。

「つまり、ちょっとずつ一回目の人生の道から離れていっているんだ」

「でも、それをやってもいいと上条さん云いましよね」

「ああ。でもそれが他人にどんな影響及ぼすかは未知数なんだ」

「僕の銀座ホコ天でのライブと、竹之輔師匠との病気とは関係ないんじゃないですか」

「だから、そこまでわからないんだ」

 二人とも熱くなっていた。


 手術が終わり、一般病棟に移された。

「正樹君、ここできみの出番だ」

「出番?何の出番だ」

「もちろん、きみの義太夫三味線だよ」

「お願いします」

「でも僕は義太夫三味線持ってません」

「義太夫三味線ならここにあります」

 弓子夫人は、持っていた大きな袋から、折り畳まれた義太夫三味線を取り出した。

 三味線の棹は、三つに分解される。

「わかりました」

 素早く棹を繋ぎ、糸を張る。

 ねじめを何度も回して、調律をした。

 義太夫三味線の音色が病室に響く。

 今まで、病院での義太夫三味線披露は何度かした事がある。

 しかし、病室は初めてだった。

 

 創作浄瑠璃「運命糸命及(さだめのいのちのいと)生還(せいかんせし) 」

 ♬

 命のともし火  消えかける

 魂に吹き込む  三味の音

 三業の作業   文楽なら

 命の三業は   何ぞやな

 本人仲間に   弟子の顔

 ここで去りぬ  三味の糸

 糸操る人は   運命の人

 もし聞こえたら  合図の手

 してみせてよ   お願いす

 一同見守る    先に祈念

 数々の奇跡    起こしたぞ

 義太夫三味線   バチさばき

 耳に届いたか   うっすらと

 開ける目元に   一滴の涙

 嬉し涙か     震えてる

 周りの人も    誘われ涙

 枕濡らすは    生還者

 夜も開けて    朝始まる

 命の生還     拍手する

 まだまだだ    一念発起

 文楽再興     遂げるまで

 立ち上がりしは  よろめきか

 歯を食いしばって 一歩ずつ

 ゆっくりと前を  向いて歩む

 その先には    きっと後光さす

 沿道の人々も   頬照らす


 最後に正樹は、ポケットからホイッスルを取り出す。

 藤川トンビから貰ったものだ。

 大きく息を吸って、一気に空気を吐き出す。

 笛の音が病室に鳴り響くと思った。

 しかし擦れていた。

 何度も繰り返す。

 ようやく、音が鳴り響く。

 いつの間にか、正樹は義太夫三味線を抱えたまま眠りこけた。

 翌朝。

 上条に起こされた。

「他の人は」

「ロビーにいる」

 主治医が回診に来る。

「危機は脱しました」

 竹之輔は目を覚ます。

「皆いるのか」

「いますよ師匠」

「あなた」

 弓子夫人がほほ笑む。

「折角人間国宝に任命されたんだから、もっと世のため人のために文楽を盛り上げないとな」

「そうです」

「何だか奇妙な夢を見てた」

「どんな夢なんですか」

 義太夫三味線によって四方八方囲まれていた。

 天井を見上げると義太夫三味線がぎっしりあった。

 一方向に光が見えたので歩いて行く。

 すると一斉に義太夫三味線が勝手に鳴り出した。

「おかしな事に、光の方へ歩くと義太夫三味線の音が激しくうるさいほど鳴り出したんだ」

 その音は背中にまでひっついて、歩かせようとしない。

「さらに汽車の汽笛が聞こえたんだ」

「それで」

「汽車に乗ったんだ。何だか名残惜しかったけどな。それでどんどん光りの渦が遠ざかったんだ」

「その光りって、あの世ですよ」

「そうかなあ」

「きっと正樹くんの義太夫三味線と笛で、あなた、救われたんですよ」

 娘の美奈子の足もよくなった実績を知っていた夫人は断言した。

 枕元で義太夫三味線を弾いた事を聞かされた竹之輔。

「それ、聴いてみたかったなあ。もう一度頼む」

「もう他の人達起きてますから、無理です」

「それもそうだな」

「助かってよかった」

「不思議な事があるもんだ。沢一お里夫婦みたいだな」

 今月国立劇場で上演中の「壺阪観音霊言記」に出て来る夫婦の名前である。

 二人は谷底へ身投げして死ぬ。

 しかし、生き返り沢一は盲目だったのが、見えるようにまでなるのだ。

 奇跡は、観音様によって作られた。

「これからは、正樹くんの事を観音様と呼ぼう」

「そんな、とんでもない!」

 慌てて正樹は否定した。

 皆の笑いが病室に生まれた。


「あともう一つの悪いニュースは何よ」

 ここまで聞いて照子は声を潜める。

「ヒロコが誘拐されたんだ」

「まさか。単なる気まぐれの失踪でしょう」

「僕も最初はそう思ってた。ところが・・・」

 ところが、手紙が届く。


「日比谷野外音楽堂でのライブはやめろ。でないと猫はどうなっても知らない」


「それ脅迫状じゃないの」

「そう」

「警察に云ったの」

「行った。でも」

 笑って追い返されたのだ。

 猫の失踪、誘拐には、警察は動かないのだった。

「その日比谷野外音楽堂って何よ」

「ああそれね」


 青山学院大学で、美奈子、秀美の前で義太夫三味線を鳴らしていた時だった。

「その三味線の種類何ですか」

 一人の学生が近づいて来た。

「義太夫三味線です」

 簡単に説明し、正樹は自分の事を云った。

「ひょっとして、銀座ホコ天の人?」

「そうです」

「すげええ!」

 その学生が近日、日比谷野外音楽堂で、青山学院大学フォークソングコンサートがある。

 それの特別ゲストに出てくれと云ったのだ。

「フォークソングの客層に受けるかなあ」

「サプライズゲスト!」

 他にも似たようなコンサートが東京各地で行われていた。

 大学の数以上に連日あちこち、東京都内で行われていた。

「何か気色の変わったものを考えていたんだ」

「やります」

 文楽協会、梅太夫の許可も取った。

「あんた、やりんしゃい」

「でもヒロコ猫」

「あの子は大丈夫」

「どうしてわかるの、母さん」

「ヒロコは普通の猫じゃないから」

「知っていたの」

「ある程度は」


 上条にも相談した。

「そうか。ゴーサイン出たか」

「でも誰なの、犯人は」

 秀美も憤慨していた。

「きみが猫を飼っているなんて個人情報、知っている人は限られて来るだろう」

 指折り数えたが、正樹はわからなかった。


 日比谷野外音楽堂がある日比谷公園は、江戸時代は松平肥前守の大名屋敷、明治になって陸軍練兵場だった。

 日比谷公園は、明治36年開園。

 造園家、本多静六の設計で、日本初の洋風公園である。

 本多は、明治神宮の森を設計した事でも知られていた。

 公園内には、花壇、テニスコート、心字池、野外音楽堂もある。

 東京都心には、数多くの公園があるが、日比谷野外音楽堂がある日比谷公園もその一つ。

 まさに都会のオアシスである。

 野外音楽堂の歴史も古く大正12年(1923年)開設。

 東京都民にとっての集会場の役目も果たした。

 キャパは立ち見を含めて約3100人。

 ここで多くのコンサート、集会が開かれた。

 

 青山学院大学フォークソングコンサート。

 サプライズゲストが坊屋正樹だった。

 司会者が

「銀座ホコ天で義太夫三味線を披露した若干17歳の少年です」

 と紹介した。

 3000人ほぼフォークソング愛好家。

 恐らく、文楽なんてほとんど見てない、知らない連中である。

 完全なアウエーでの披露となった。

 だから、いつものように義太夫三味線を一つ鳴らしても静かにはならない。

 一層うるさくなる。

 ステージに出た人間が全く知らない人で、知らない楽器を持って知らない音律を披露するのだ。

 うるさくなるはずである。

 そもそも、実行委員会が何故要請したのか、それがわからなかった。

(完全に失敗したな)

 いつもの強気は消えて早く終わらないかと思った。

 ヒロコ誘拐犯は、どこかで見ているのだろうか。

 それが一番気になっていた。

 ステージから見ても全くわからない。

 

 創作浄瑠璃「音楽壁(おんがくのかべ)無木霊樹(なくすこだま)」

 ♬

 音楽の壁    聞き手の壁

 全て自ら    作ったのだ

 日比谷野音で  聞こえしは

 壁壊すもの   としている

 フォークソング 義太夫三味線

 他人の営み   写しもの

 足を運んでよ  文楽へ

 語り三味線に  人形

 三業務めし   異世界か

 奏でる音に   偽りも

 誤魔化し物は  ありませぬ

 見てよ聞いてよ 文楽世


 突然ヒロコがひょいとステージに登った。

 正樹は目があった。

 ヒロコは小さくうなづいた。

 義太夫三味線に合わせてヒロコが踊り出した。

 今まで私語の世界にどっぷりはまっていた観客が一斉にやめて、ステージに集中した。

「縫いぐるみ?」

「あんな小さな縫いぐるみないだろう」

「あれっ何だかどんどん大きくなる」

「私の目がおかしくなったの」

「いや確かに大きくなって来た」

 ヒロコが巨大化し始めた。

 正樹にとっても意外な展開だった。

(待てよ。本当にヒロコか?)

 義太夫三味線を弾きながら、正樹は近づいた。

「ヒロコ・・・じゃないなあ!」

「ばれたか!約束を破りやがったなあ」

「お前は誰だ?」

「うるせえ!」

 正樹より大きくなった。

 化け猫は口から火花を吐く。

 正樹は、義太夫三味線で跳ね返した。

 炎がくの字となって、自分に跳ね返って来た。

 燃え出す「化け猫」

 と、炎の中からヒロコが出て来た。

「ヒロコ!」

 正樹の叫び声に、ヒロコが鳴く。

 しかし今の正樹には、鳴き声しか耳に入らない。

 今までなら、きちんと解読出来ていたのに。

 化け猫は、ヒロコを抱え、炎吐いて、天上へ向かった。

 大空から一つ何か落ちて来た。

 手のひらに乗る招き猫だった。

 3000人の聴衆は、正樹のマジック義太夫三味線を認めた。

 決して、化け猫との対決下りは、現実と捉えていなかった。

 世間一般向けとしては、大成功だったと云える。

 つまり「つかみ」はオッケイだったのだ。

 しかし、正樹としては、ヒロコを誘拐した犯人の手掛かりの掴みは全くなかった。

 打ち上げに出る元気もなく、正樹は下宿先に戻った。

 大家の小町がいた。

「お帰り」

「只今戻りました」

「あらっ元気ないじゃないの。日比谷野音上手くいかなかったの」

「実はそうじゃなくて」

 正樹は、小町に知恵を借りようと正直に話した。

「まあ信じて貰えないと思いますけど」

「いいえ、私は信じますよ」

「有難うございます」

「それが、天から降って来たのね」

 正樹が手に持つ「招き猫」を見た。

「そうです。これです」

 小町に渡した。

「これ、豪徳寺のものね」

「豪徳寺?」

「東京都内では幾つか招き猫のお寺があるけど、その中でも歴史もあって有名よ。あれっ何かある」

 小町は招き猫のお尻の所から小さな紙片を取り出した。


「豪徳寺で800円の招き猫を買え。

 その時、社務所の人に合言葉

(ヒロコ猫下さい)と云え  」


 正樹と小町は顔を見合わせた。


     ( 2 )


 豪徳寺へは、秀美がついて来た。

 上条は、9月公演が国立劇場があるので来れなかった。

 もちろん、同時進行で授業もあった。

 正樹は、この頃他の研修生よりも破格の待遇だった。

 授業に出なくてもよかった。

 ようやく講師陣も正樹の飛びぬけた才能を評価し始めた。

 もちろん、50年先の未来から来て、その積み重ねがあるとは信じていなかった。

 知識、テクニック全て師匠クラスだった。

 何らかの方法で会得したのだと云う見解だった。

 その具体的方法は掴めてなかった。

「そんな事はどうでもええがな」

 長老の会の梅太夫の一言で決まった。

 正樹は授業は「自由参加」

 但し、抜ける場合は事務局へ報告がいる。

 今回の豪徳寺行きも原田頭取には事前報告した。

「わかった。無事にヒロコ戻って来たらいいな」

 と一言添えてくれた。

「何が狙いなんでしょうか」

「わからない。でも手掛かりはあるはずよ」

 秀美も張り切っていた。

 東急世田谷線「豪徳寺」下車。

 閑静な住宅街に突如現る小寺。

 正樹は初めてだった。

 社務所で指示通り

「800円の招き猫、ヒロコ猫下さい」

「坊屋正樹さんですね」

「そうです」

「これお預かりしてます」

 社務所の人は招き猫と一通の手紙も添えた。

 すぐに手紙を開く。


「対決!

 ヒロコ猫を返して欲しかったら、先の場所に義太夫三味線を持って来い。

 お前が勝てば、ヒロコは返してやる

 9月✖日午前10時

 場所・・・国会議事堂

 この手紙を必ず持参の事  」


「今度は国会議事堂か!」

 一番驚いたのは梅太夫、竹之輔をはじめとする幹部連中だった。

「国会議員の前で演奏か!」

「師匠、国会は今は閉会してます」

「そうです。秋の通常国会は10月からです」

「けど何で国会議事堂なんや!」

「いやそれ、僕も一番聞きたいです」

「犯人に心当たりは」

「ないです」

 国会議員は一人も知らない。

「肝心のルールが書いてませんね」

 手紙を、食い入るように見つめていた原田はつぶやく。

「ほんまや。勝ち負けどうやって決めるんや」

「さあ、わかりません」 

 暖簾をかき分けて青磁が顔を出した。

「ついに国会議事堂進出!おめでとう!次は皇居での天皇様との謁見と創作浄瑠璃披露だな」

 呑気に青磁が笑った。

「これ悪戯やないだろうな」

 原田は云う。

「その根拠は」

「国会閉会でも国会議事堂見学ツアーやってます」

 東京駅出発のはとバス「国会議事堂・靖国神社参拝コース」はお年寄りに根強い人気があった。

 すぐに原田は、はとバスに問い合わせた。

 その日は、一日ツアー休止だった。

 国会議事堂改修工事のためだそうだ。

「ますます、悪戯くさい」

 けれど、行くしかなかった。


 正門は閉ざされていた。

「やっぱり悪戯か!」

 梅太夫はうなった。

「師匠まだ早いですがな」

 竹之輔は笑った。

「そうです」

 原田も笑う。

 この三人もついて来た。

 さらに上条、秀美も一緒だった。

 そして、車椅子を押す竹之輔。

 美奈子もいた。

 あれから少し歩けるようになったが、しばらく正樹の義太夫三味線を聞いてない。

 再び麻痺が始まり、足手まとい避けるために車椅子に座っていた。

「あのう、これなんですけど」

 正樹は門衛に手紙を見せた。

 門衛の表情があっと云う間に変わった。

「お待ちしてました!」

 最敬礼で迎えられた。

 まず控室に案内される。

 定刻時刻を五分ほど過ぎた。

 正樹と他の人とは二手に分かれた。

 正樹は両脇に門衛がついていた。

 持参した義太夫三味線は予め、エックス線撮影されていた。

 さらに厳重な身体検査を受けた。

 ドアを開ける。

 ガヤガヤが大きくなる。

 議事場に入る。

 休会中なのに、国会議員与野党全員いた。

 中田首相が近づいた。

「坊屋正樹くん。ご苦労!」

 想定外の展開に戸惑う正樹だった。

「えっ今日は、国会お休みだったのでは」

「そうだ。休みだ。けどお前さんの義太夫三味線を聴かすために、集めたんだ。見たまえ、あれを!」

 中田首相は指を指す。

 いつもテレビの国会中継で見る、壇上はなくなり、その代わり、特設の舞台が拵えてあった。

 松羽目の背景画もあった。

「歌舞伎座の長谷川大道具に云って作って貰ったんだ」

「総理は、とことん凝りますから」

 背後で秘書官はそう云って、苦笑いした。

「有難うございます」

 これは夢か?

 夢ならもう少し続きが見たい。

 醒めないでくれよ。

「総理は、あなた様の評判をえらく高く気に入っておられます」

 横にいた総理秘書官が云う。

「あのう、今日は決戦だとか」

 正樹は例の手紙を見せた。

「もちろんです。さあどうぞ」

 正樹は、中田首相と進み出る。

 多くの記者が近寄ってフラッシュ焚かれる。

「握手お願いします!」

 リクエストに応える中田首相。

 力強いものだった。

 噴き出る汗を拭かずに、笑顔で応えていた。

 万雷の拍手。

 さらには後方にはテレビカメラもスタンバイしていた。

(本当に現実なのか)

 もう一度頬をつねる。

 痛かった。

 後方の扉が開く。

 着物を着た女性が義太夫三味線を持って近づいた。

 さらに後ろには大きなバスケットを持つ人。

 その中にヒロコはいた。

 女性と目が合った。

「春葉さん!」

「お久しぶりです」

 深くお辞儀をして来た。

(一体どうなっているんだ)

 想定外の連続で頭が混乱を極める。


 国会議事堂、春葉!

「対決って云うのは」

「もちろん、私とです」

「何で対決なんですか」

「あらっ中田首相から知らされてなかったの?」

 中田が秘書官に何やら言葉を交わす。

「演奏を聴いてどちらがよかったか。与野党議員全員の投票で決めます」

「もし僕が勝ったら」

「文楽の予算倍増!いや三倍増しだ」

 中田が叫ぶ。

「そして私が勝ったら、竹松新喜劇への援助と道頓堀中座の立て替え費用全額負担してもらえます」

 これまた意外な条件だった。

「きみは、ここで喜劇をやるのか」

「今まで私の言葉聴いてたの?私も創作浄瑠璃を演奏、語ります」

「でもそれじゃあ、喜劇にならないだろう」

「さあどうかしらん」

 春葉は悪戯っぽい眼差しを送る。

「それはわかった。で、ヒロコの誘拐とどう結びつくんだ」

「ヒロコ踊り封印のためです」

 高々と籠を見せた。

 南京錠が四方八方かかっていて、抜け出せないようになっていた。

 中田首相は、その後梅太夫らと会って一人ずつ握手していた。

 特設舞台の上手側に3人の人がいた。

「あの方たちは?」

「国会速記者の人達。あなたと私が語る創作浄瑠璃を速記して、あちらのスクリーンに映し出すのよ」

 前もって稽古したものなら、リーフレット配れるが、その場で勝負のものは作れない。

 赤坂の料亭「春葉」は、政財界の人が集まる。

 今回の仕掛け人は、春葉だろう。

「どうなんだ」

「半分当たってるかな」

「そろそろいいでしょうか」

 秘書官が近づいた。

 中田首相は最前列に座る。

「わかりました」

「どちらからやるの」

「お先にどうぞ」

「じゃあ春葉やります」

 春葉が、義太夫三味線を鳴らす。

「待ってました!」

「春葉ちゃん、頑張って!」

 日頃野次を飛ばすので、大声は慣れたものだった。

 どっと議員席から笑いが飛んだ。

 荒れた国会ではなくて、リラックスした議員たちだった。


 春葉の創作浄瑠璃「赤坂笑(あかさのわらう)女神(めがみ)目標(めざします) 」作 春葉陽子

 ♬

 生まれ育ちも  東京江戸っ子

 赤坂のネオン  見て育つ

 大人の世界   垣間見る

 おませな子供  手のひらで

 動かすものは  お金です

 にこっと笑う  御駄賃は

 ガラガラガラと 引き出すよ

 ある日劇場(しばいごや)で  見た喜劇

 トンビ操る   人のこころ

 喜劇王の    笑い見た

 東京から    大阪へ

 役者稼業の   春葉です

 東京おなごの  意地かけて

 修行の日々は  負けませぬ

 一つ笑って   見せましょう

 あはあはあはは いひひひひ

 うへうへうへへ えええええ

 おほおほおほほ かかかかか


 目に涙浮かべて春葉は笑い出す。

 それを見た議員も釣られて笑い出す。

 お互い顔を見合わせて、身体を二つに折って笑い出した。

 いつもは、与野党の議論が起きる神聖な場所。

 時には辛辣な野次が飛び、こだまする。

 議会政治が始まって今日まで。

 こんなに大勢の国会議員が一斉に笑うのは恐らく初めてだろう。

 日頃、演説で鍛えた声なので、笑い声も大きかった。

 見ると、ドアの前に立っている門衛まで顔をにやつかせて、歯をむき出しにしていた。

 それを見て正樹もついに笑い出した。

 ふと見ると梅太夫、竹之輔まで、笑いの菌が伝播していた。

 上条、秀美まで口を開けて、顔はにやついていた。

 議事堂内を笑いの台風が通り抜けた。

 その余韻を残したままで、続いて正樹の創作浄瑠璃が始まった。


 創作浄瑠璃「国会(こっかいの)狐(きつねと)狸化(たぬきとのばかし)合戦(あいいくさ)」      

 ♬

 国会議事堂   動物園か

 きつねとたぬき 寄せ集め

 能ある鷹も   いるぞよな

 上から見守る  フクロウは

 誰かと云えば  中田首相

 多くのキジ犬  従えて

 突入せよと   大号令

 味方ふりして  ご注進

 誰が敵味方   判別す

 手探り探し   五里霧中

 背中押されて  谷底へ

 負けてたまるか  よじ登り

 這い上がりしは  先見えし

 後光の守り    観音様

 有難き幸     手を合わす

 振り向く先に   きつねとたぬき

 やれやれやれと  風見鶏

 魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)の    世界かな

 今日も話すは   赤坂春葉

 袖の下には    幾つもの手

 赤子はミルク   欲しがりし

 家来は金を    欲しがるか

 そんな日々なら  疲れるぞ

 今宵は金ぬき   出し抜きなし

 聞いてみましょう 語ってもらいましょう

 文楽世界     たっぷりと

 よろしくお願い  申します


 春葉とはちょっと笑いの質が違うものだった。

 正樹の笑い台風も負けてなかった。

 一番受けていたのが、中田首相だった。

 大汗拭きながら、口を大きく開けて笑っていた。

 隣の秘書官の肩を叩いて腹を抱えていた。

 誰も自分の事をきつね、たぬきとは思っていない。

「野党の○○はきつね」とか

「与党、自由党の○○はたぬき」とか

「中田内閣には、たぬきが〇匹、きつねが〇匹」

 等と指折り数えている輩もいた。

 皆、自分の事は、過大評価していた。

 世間より数倍自分を美化して、ほくそ笑む。

 これぐらい、厚かましくないと政治家は務まらないのだ。

 笑いは継続したまま、小休憩に入る。


 第二部で、春葉は創作舞踊を披露した。

 生まれついて、赤坂の一流料亭で育っていたので、基礎が出来ていた。

 途中一人芝居となり、政財界の物まねを取り入れていた。

 これも大喝采だった。

 元々、「春葉」へ行った事がある政治家が多く、小さい頃から春葉を知っている国会議員が多かった。

 東京地元贔屓ってやつだ。

 その点、正樹はアウエイだった。

 一人敵の陣地へ切り込む。

 そんな心境だった。

 正樹は第二部は古典で勝負した。


 古典 義経千本桜 四段目 「道行初音旅の段」


 義経の妾、静御前

 義経の家臣 佐藤忠信

 義経は、朝廷から狐の皮で出来た初音の鼓を賜っていた。

 実は佐藤忠信は、その狐の皮の子供だった。

 人間に化けていたのだ。

 正樹が一礼して義太夫三味線を弾こうとした。

 突然、春葉が隣りに座る。

「えっ何?」

「お供させて頂きます」

 俗に云うツレ弾きを勝手に始めようとしていた。

 正樹は、春葉にも頭を下げた。

 ここで、戸惑う、又は口論は、見ている中田首相を始めとする議員さんらに申し訳ないと判断した。

 義太夫三味線が響く。

 特設舞台に大きな桜の大木が出て来た。

 よく見ると本物だった。

「あれ、本物みたいやな」

 早速梅太夫がつぶやく。

「吉野から運びました。桜の葉っぱは、長谷川大道具さん担当です」

 秘書官が嬉しそうに囁く。

 中田首相は終始扇子で首筋を仰ぎご満悦だった。

 中田の地元新潟は、農村歌舞伎が江戸時代から有名だった。

 佐渡の「片野尾歌舞伎」

 旧下田村(三条市)「中浦歌舞伎」

 松之山(十日町市)「上川手歌舞伎」

 魚沼「千溝歌舞伎」

 南魚沼「五十澤歌舞伎」「塩沢歌舞伎」

 など数多くの地歌舞伎が開催されて来た。

 雪深い街なので、屋内での娯楽が発達したのだろう。

 義経千本桜は、歌舞伎版としても上演されていたので、中田にとってもなじみ深いものだった。

 議員の膝には、パンフレットもあった。

 今日の演目は前もって云ってないはずだ。

 どうして準備出来たんだ。

 義太夫三味線を弾きながら、正樹は迷った。

「迷いの手さばきは駄目」

 春葉がきつめに囁く。


 今回は素浄瑠璃。

 人形は登場しない。

 演奏始まると、議員一同はイヤホンをし出す。

(うへっ同時通訳も導入してるのか)

 この時代、まだ歌舞伎・文楽などの同時解説イヤホンガイドは登場していない。

 今、国会議事堂内で聞いているのは、英語で要人が演説したら、それを日本語で聞けるものだった。

 つまり、解説ではなくて、ほぼ現代語通訳に近かった。

 それでも反応は上々だった。

 義太夫三味線の音色が議会をくまなく覆う。

 よく見ると、ドアの所に立つ門衛、中田首相そばに待機するSPは両耳にイヤホンしていた。

 一つは仲間内連絡のもの。

 もう一つは、同時解説だった。

 

 ♬

 恋と忠義は   いづれが重い

 かけて思へば  はかりなや

 忠と信(まこと)の武士(もののふ)に

 君が情けと   預けられ

 静かに忍ぶ   都をば

 後に見捨てて  旅立ちて

 作らぬ形(なり)も   義経の

 御行末は   難波津(なにわづ)の

 浪に揺られて 漂ひて

 今は吉野と  人伝(づ)ての

 噂を道の   しほりにて

 大和路

 さして

 慕ひ行く


 義経の妾、静御前が途中で、鼓を取り出して叩く。

 本来ならここできつねが出て来る。

 実は、きつねの親が、鼓の皮だったのだ。

 きつねは、佐藤常信の人間に化けて近づく。

 さて、議事堂内では・・・

 いきなり、猫ヒロコが飛び出して来た。

 ヒロコは、鍵のかかったバスケットの中に保管されていたのだ。

 これには正樹も春葉も驚いた。

「ヒロコ、どうして抜け出したの!」

 一瞬春葉の手が休む。

「迷いの手さばきは駄目」

 さっき云われた言葉を正樹はそっくりそのまま返した。

 文楽ならここで、一人で縫いぐるみを持って出て来る。

 手先を器用に扱って、両耳を動かす、半身ぐねっと曲げて、後ろ足で身体を擦るなどの仕草をする。

 ヒロコは、ひょいと春葉の背中に飛び乗った。

 今までなら、まず正樹の肩に飛び乗るのに、今日は春葉だった。

 右肩、左肩交互に顔を出す。

 これに気づいた正樹は、即興で義太夫三味線で音色を合わせる。

 議員席から笑い声と大きな拍手が鳴り響く。

 これに気をよくしたヒロコはずるっと春葉のお膝に落ちる。

 そして器用に義太夫三味線を弾き出す。

 春葉が、大きく目と口を開けたままだった。

 放心状態となる。

 義太夫三味線が落ちないように必死で持つだけだった。

 議員のどよめきが大きくなった。

 次の瞬間、ヒロコは春葉の義太夫三味線を持ったまま舞台中央で踊り出した。

 天井から無数の桜の花びらが舞い降りて来た。

 時折、ヒロコは顔を義太夫三味線の皮の部分に擦りつけていた。

 目から涙が出ていた。

 正樹は初めて、猫の涙を見た。

 そしてその涙で全てを悟った。

 大盛況のうちに終わった。

 大きな拍手が鳴りやまぬ。

 中田首相が特設舞台に上がる。

 正樹、春葉と大きな拍手。

 中田を真ん中にして正樹、春葉が両端に立ちそれぞれ中田と握手した。

 報道陣がどっと駈け寄りフラッシュの光りの束が三人を包囲していた。

「坊屋正樹さん、感想を一言」

「名誉ある国会議事堂での公演を実現下さいました中田首相に感謝です」

「今後の目標は」

「人間国宝のような優れた義太夫三味線弾きになる事です」

 になる事です」

 記者団からどよめきが起こる。

「若い時は、これぐらい大きな目標を云う。おおいに結構だ」

「中田首相、今回の勝負の行方は?」

 代表質問で一人のインタビュアーが聞く。

「今回の勝負の結果は」

 拍手の音が消えて、一同が次の中田首相の言葉を待つ。

「竹松新喜劇の春葉さん、文楽研修生の坊屋正樹くん。二人ともよかった!優劣なんかつけられません!」

 中田は、春葉、正樹の手を掴んで、高々と挙げた。

「つまり・・・」

「お二人優勝」

「ご褒美は」

「竹松新喜劇のホームグランドの道頓堀中座の全面建て替え工事費用、大阪に国立文楽劇場を建てる。この二つであります!」

 議員席から大きなどよめきの空気が支配された。

(あれっ)と正樹は思った。

 正樹が過ごして来た歴史の中では、中座は古いまま売却されて解体される。

 国立文楽劇場にしても、この年からまだ12年もかかるのだ。

 明らかに矛盾する。

 急に不安になった。


 春葉は、ヒロコを返してくれた。

「有難う」

「どういたしまして」

「でもどうして、盗んだの」

「この国会議事堂公演を実現するため」

 わけのわからない弁明だった。

「トンビ師匠は」

「地方巡業です」

 本当に喜劇対文楽なら、自ら出て来るはずだ。

 まして国会議事堂での対決である。

 絶対に目立つはずだ。

 それなのに出て来なかった。

 腑に落ちなかった。

「でもよかった事がある」

「何?」

「ヒロコの父親が無事に見つかった」

「えっどう云う事?」

「春葉さんの持ってる義太夫三味線の皮。それがヒロコのお父さんだった」

「まさか」

「信じられないなら信じてくれなくていいよ」

「この三味線、トンビ師匠から預かって来ました」

「大切にお願いします」

 ヒロコはニャーと鳴く。

「ヒロコさんもそう云ってるのね」

「そうだ」

 二人は笑った。

 春葉と別れた。


 帰り道、上条に云った。

「今回の国会議事堂での演奏。一回目の人生でなかったと思う」

「確かに。きみは、ちょっとずつ違う事を起こして来た」

「そうです」

「それが、どんどん積み重なり波及していって、本当に第2の歴史では、中座は売却されずに立て直しされるかもしれない」

「やはりそうでしたか」

 急に正樹は再び不安の沼底がこころの中央にぽっかりと開いた。

(このままでは、もう現代に戻れないかもしれない)

「現代に戻れないか心配してるんだろう」

 図星だった。

「そうです」

「君の役目は忘れてはいけない」

「文楽の再興とそれを阻害する敵との闘い」

「良く出来ました」

 わざとらしく、上条は手を叩いた。

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