第5幕 広島カンナ花の段


     ( 1 )


 8月は、大阪公演だったが、実質研修生はお休みだった。

 正樹は、8月4日から8日まで休みを取り、広島に帰った。

 世間一般で云えば、8月は、15日の終戦記念日を思い浮かべるが、広島では、やはり6日の原爆投下の日だ。

 広島駅は、新幹線広島駅工事の真っ最中だった。

「昭和50年新幹線、広島へ」と書かれた看板があちこちにあった。

 3年後には、今は岡山止まりの山陽新幹線も一気に博多まで伸びる。

 東京へ行くようになって、その日が待ち遠しい。

 改札口抜けると、

「広島の星、文楽の星、坊屋正樹くん、お帰りなさい」

 と書かれた横断幕を持った婦人、総勢50人ばかしが出迎えてくれた。

 広島新聞の記者も来ていた。

「お帰り!」

 花束持って照子が歩み寄った。

「何これ」

 カメラフラッシュが焚かれた。

 新手のドッキリなのか。

「お母さん、今の気持ちを一言お願いします」

「はい。もう、言葉が出ません。よう帰って来たなあ」

 見るからに、下手な芝居しているのが丸見えだった。

 しかし、照子は本当に涙を流していた。

「いやいや、横井庄一さんじゃないんだから」

 今年25年ぶりにグアム島から帰還した元日本兵の事を云ったのだ。

「正樹さん、一言どうぞ」

「はあ、まあ、帰って来ました、わずか半年ぶりです」

「わずかはいらんがな。編集でカットしとってよ」

 照子が記者にかみついていた。

「お父さんは」

「恥ずかしいのか、あそこ」

 指さした柱の隙間から顔半分だけ見せていた。

 正樹は駈け寄った。

 その度に、横断幕婦人会集団も移動した。

「お父さん、只今帰りました」

「おう」

 短く三郎は答えて何度も顔を振った。

 文楽研修生になって初めての広島故郷帰り。

 広島新聞に戻って来た様子が、翌日の朝刊に載った。


「お帰りなさい、天才義太夫三味線弾き」

「第1期文楽研修生、坊屋正樹君、広島に帰って来た!」

「広島駅に、500人のファン殺到!」

 実は、婦人団体の後ろに、数多くの私設応援団がいたのだった。

 一番嬉しがったのは、本人ではなく、母親の照子だった。

 正樹の了解を取らずに、凱旋公演が決まっていた。

 最初凱旋公演は、「三玄」の店内で行う予定だったが、正樹の度重なるテレビワイドショー出演、特に銀座ホコ天での義太夫三味線演奏がテレビニュース、ワイドショーに取り上げられたので、人気は一気に高まった。

 数多くの未公認ファンクラブの乱立。

 「三玄」への聖地巡礼で人気が加速。

 急遽、「三瀧荘(みたきそう)」で凱旋公演が行われた。

 三瀧荘は木造日本家屋で料亭旅館だった。

 広島は、原爆投下で中心部に日本家屋は、ほとんど残っていなかった。

 その中で、三瀧荘は残った。

 昭和初期に建てられた貴重な建物だった。

「三玄」の常連の知り合いが、三瀧荘と懇意にしていて、トントン拍子に決まった。

 大広間、庭園にも臨時席を設けた。

 正樹は、どんな構成にしようかと迷った。

「皆、文楽研修生がどんな講義を受けたか聞きたがってると思う」

 ヒロコ猫がアドバイスしてくれた。

「そうか、それだ」

 貴重な助言者なので、今回はバスケット入れて一緒に戻って来た。

 三瀧荘にも連れて来た。

 女将、照子の挨拶が続く。

 そして正樹が出た。

 大きな拍手に迎えられた。

 最後尾にはテレビカメラ、記者も詰めかけた。

「お暑い中、有難うございます。すみませんねえ、こんなに暑くて」

 身体は17歳だが、頭は66歳の達者人間である。

 客も不思議がっていただろう。

(若干17歳なのに何でこんなに落ち着いているんだろう)と。

 特設舞台から、立派な松の木が顔を覗かせていた。

(自分は、年とっても、あんな立派なものにはならなかった)

 一瞬自己嫌悪の波が立ったが慌てて打ち消した。

「今日は、銀座ホコ天でも共演しました、猫、名前をヒロコと云います。連れて来ました」

 持参したバスケットから取り出した。

 何人かが写真を撮ろうとした。

 正樹が手を離すと、ひょいと肩に飛び乗った。

 拍手が起きる。

 その拍手に気をよくしたヒロコは、次に正樹の頭の上に飛び乗った。

「このように、しつけが良く出来てます」

 ヒロコは、足を前へ出して頭の上で正面を向いた。

「これからは、私も丁寧な言葉で喋ります。これを猫かぶりと云います」

 客席から大きなどよめきと笑いが起きた。

 親父が、親父ギャグを云っても何も受けないが、17歳の少年が云うと、ドカンと笑い爆弾がさく裂するのだ。

 中には、顔を真っ赤にして自分の膝や、隣りにいる人の肩や、ほっぺまで叩いて笑う女性までいた。

 全て、

「17歳」

「史上最年少」

「第1期文楽研修生」

 の肩書がそうさせるのだ。

 ここでも正樹は、三味線の解体ショーをやった。

 やはり、三味線の棹が三つに分解されるのを知らない人が多かった。

 第一部は、研修生から見た講師陣の教え方、大阪で出会った藤川トンビの、実は努力の塊だった話は興味をひいた。

「(三業の人)のお芝居で、トンビさんとは共演させてもらいました。東京新宿の(くつ底)と云うライブハウスでも共演しました。あの人、喜劇役者なのに、義太夫三味線が上手い。実は楽屋でずっと練習していたんです」

 義太夫三味線を取り出す。

「さて、本日は私、世間で噂の、音符や光りを出すのかどうか、全く自信ありません」

「そんな事云わんと、出してえ」

 大広間の奥から声援が飛ぶ。

「出してって、手え出しまひょか」

 笑いながら答えた。

「キャー」

 嬉しい悲鳴が上がった。

 やはり親父ギャグも「17歳の身体」を持つ身は受けるのだ。

 親父ギャグも17歳の正樹にとっては、最強の飛び道具だった。

 正樹は、この半年不思議な体験の連続だった。

 2022年からいきなり、1972年(昭和47年)にタイムスリップした。

 身体は17歳に戻っていたが、頭の中は66歳のままだった。

 50年前の日本を旅行している気分だった。

 上条の「文楽再興」の任務でこうなったと聞いているが、これも半信半疑である。

 一度経験した私の歴史の中で、新宿「くつ底」ライブ、銀座ホコ天もなかったはずだ。

 そして今、三瀧荘に来ている。

 これもどうだったか?

 わからない。

 とにかく、今目の前にいるお客様に満足して聞いて貰おう。

 それだけであった。

 正樹は、一の糸をつま弾く。

 三瀧荘に独特の低音の響きがじわりと畳をはう。


 創作浄瑠璃「故郷(ふるさとに)帰行錦飾(もどりてにしきを)花(かざる) 」

 ♬

 文楽の城に   立つ自分

 文楽の扉を   押す皆

 力強く押す   けれどびくともせず

 何故開かない  何故入れない

 焦る自分と   気にしない皆

 けれども目指す 性根は皆同じ

 ふと振り返ると 民が押してくれた

 遠く広島から  母の葉書

 筆跡滲むインク 涙でぼやける

 子供を思う   母の気持ち

 手書きの文字に 切なさ募(つのる)

 文字の力は   言霊(ことだま)か

 多くの人に   支えられて

 短い休息    広島の土地

 皆さん本当に  有難うございます


 ヒロコがひょっこり顔を出した。

 静かに忍び寄り、正樹の背後からよじ登って、正樹の頭のところから顔をひょいと出した。

 大広間に、歓喜とざわめきが同居した。

「お父さん、しっかり見とるかえ」

 照子が三郎に小声で声を掛けた。

「ああ、見とる」

「これから始まるよ」

「ありゃあ、手品か」

「私は、正樹の超能力やと信じとる」

「どんな超能力なん」

「もちろん、全ての生き物を手玉に取るのよ」

「人間のおなごもか」

「もちろん」

「そんな能力より、競輪競馬予想的中させる能力がいいわあ」

 照子は黙って三郎の頭と額を叩いた。

「痛っ!」

 三郎はそれっきり黙っていた。

 演奏半ばで、ヒロコは、正樹の前に来た。

 肩からずるずる滑り落ちる恰好で、義太夫三味線と正樹のお腹の間に収まった。

 次の瞬間、正樹は義太夫三味線から両手を離した。

 太夫の語りに集中した。

 突然ヒロコが、義太夫三味線を弾き始めた。

 大広間に大きなどよめきの大波がすっぽりと覆われた。

 マスコミの記者が一斉にカメラのシャッターを押した。

 ビデオカメラがズームアップした。

 ヒロコが正面見据えて器用に二本の前足で義太夫三味線を弾く。

 正樹は、両手を出して腰に持って行った。

(何も私は、義太夫三味線を弾いてません)

 と云うアピールでもあった。

 ビデオカメラもそこを捉えて見逃さなかった。

 正樹は心中穏やかでない。

 これまでヒロコの行動は、正樹の頭、肩に乗ったり、周囲を走り回ったりしていた。

 自ら義太夫三味線を操って弾くなんてなかった。

 それに音色が違う。

 ヒロコの母は、今は義太夫三味線の皮となっている。

 それをわかったうえでヒロコは弾いていた。

 知っているのは正樹と照子だけだ。

 大広間にいる観客の反応は真っ二つに分かれた。

 この現象を現実と受け取る者。

 一方で、あくまでマジック、種があるケレンと取る者。

 青磁がいればどう反応するだろうか。

 やはり、しかめっ面を寄こすのだろう。

 正樹とヒロコとの間で、今回も何の打ち合わせもなかった。

 でも何か起きる予感はあった。

 新鮮な音色は、正樹をも興奮させたのだ。


 演奏が終わる。

 拍手がどこまでも続く。

 正樹はずっと頭を下げ続けた。

 ヒロコは、演奏が終わると、疲れたのか自らバスケットの中に入った。

「もうこのぐらいでおしまいじゃあ」

 照子が出て来て特設舞台から声を掛けた。

 照子と正樹が並んだ。

「本日は、仰山来てくれて、嬉しかです。ほんに有難うねえ。皆」

 照子は泣きながら、締めの挨拶をした。

 お開きになってもマスコミが正樹を離さなかった。

「新手のマジックでしたね」

 頭から猫が、義太夫三味線を弾いたのを信じていなかった。

「いえ、あれは手品じゃありません」

「じゃあ何ですか」

「見ての通りです」

「超魔術ですね」

「超魔術と義太夫三味線を合体させたきっかけを教えて下さい」

(こりゃあ、幾らここで云っても同じだ)

 もう頭から「手品」「超魔術」と思い込んでいる人に例え、目の前で真実を見せても、頭が刷り込まれているから無駄なのだ。

「種明かしは?」

「自身が考案されたんですか」

「今後、文楽公演に使うんですか」

 等の質問に対しても、

「わかりません」

「考え中です」

 等とあやふやな答えしか用意しなかった。

 マスコミ陣が引き揚げて、ようやく、打ち上げが始まった。


 その夜、正樹の実家の店「三玄」で二次会の打ち上げが行われた。

 店内では、小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」から、天地真理の「ひとりじゃないの」が流れ出した。

 この曲は8週連続オリコン1位の曲だった。

「大したもんじゃあ」

「照子さん、いつ正樹くんに手品教えてた?」

「うちは知らん。この子が勝手に学んだんよ」

「やっぱり東京、大阪で腕上がったなあ」

「これで文楽協会も嬉しいし、再来年の卒業が待ち遠しいなあ」

 口々に常連は、賞賛の声を上げた。

 そして乾杯、返杯の嵐だった。

 照子は、上条酒造の銀座ホコ天で配っていた、次に売り出す吟醸酒を振る舞う。

「もう店頭販売しとるの」

 正樹は聞いた。

「これは上条酒造さんから、直送してくれた」

 照子は、上条光蔵から直筆で届いた手紙を見せてくれた。


「拝啓(三玄)さま

 先日は、ご子息の正樹君の多大なる活躍で、我が、上条酒造の宣伝に多大な貢献をしてくれました。

 銀座ホコ天で配っていた「ワンコップ上条」の吟醸酒の名前を急遽変更する事に決めました。

 (銀座)(正樹)のそれぞれの頭文字をとって、

(銀正)に決定致しました。

 これからも上条酒造をよろしくお願いいたします


 三玄 坊屋照子様

    坊屋三郎様    

           上条酒造 代表取締役 上条光蔵 」


「(銀正)かあ。ええ名前じゃあ。わしは一生呑み続ける」

 三郎は顔を赤くして笑っていた。

「お父さん、呑み過ぎ」

「お礼の電話してくる」

 正樹はそう云って、店から中の部屋に入る。

 電話を使わずに、スマホ取り出した。

 上条から、充電器を貰った時、

「我々だけの連絡はこれ、使えるから」

 とスマホメールが有効だと云われた。

 しかし、俄かに信用出来なくて、今まで一度も使って来なかった。


「今、広島に帰ってます。(銀正)有難う。

 お店の常連客が飲んでます

 有難う 坊屋正樹より」


 送信ボタン押す。

 電波の強弱現わす表示はゼロなのに、何故か送信完了した。

 すぐに上条から返信来た。


「どういたしまして。

 親父は喜んでた。

 また家に来てくれ

 秀美とデートもしてやってくれ

           上条誠也より 」


(本当に届いた!)

 嬉しくなった。

 やはり上条は同志だった。

 照子が来た。

「電話終わったの」

「うん終わった」

「何か云ってた」

「親父さんも喜んでたって」

「そりゃあ、上条酒造にあんた、多大な貢献しとるよ」

「そうかな」

「だって、テレビ全国放送で銀座での上条酒造の事云うてた。あれ、金額に換算したら、物凄いよ」

 確かにそうだろう。

「母ちゃん、一つ聞いてええか」

「何よ」

「ヒロコ猫は、昔からあんな芸当出来てたの」

「ううん、出来てなかった」

「じゃあ何で出来るようになったん」

「あんたの力、パワーを受けたからよ」

「僕にそんなパワーあったかなあ」

「あるよ」

 正樹は正直に、新宿「くつ底」での失敗を話した。

「人生山あり谷あり」

「そうか」

「あの呑気父さん、ギャンブル父さんもそうじゃったから」

「三郎父さんも」

「そうじゃあ。特に谷は、深い闇の谷じゃあ」

 それがどんな谷なのか、怖くて聞けなかった。 

 スマホ通信が上条だけに行けたので、少し元気が出た。

 照子が店に戻ったので、押し入れの壁を何度も押していた。

 微かな、現代への帰還の希望を抱いていた。

 しかし、押し入れの壁は開かなかった。

 一度、押し入れの戸を閉めて念じる。

(令和の時代に戻った)

 何度も念じた。

 そおっと開ける。

 部屋の様子はそのままだった。

 店内のざわめきが聞こえる。

「三玄」である。

 壁の日めくりカレンダーを見る。

 1972年(昭和47年)8月5日は変わらなかった。


   ( 2 )


 毎年8月6日午前5時。

 照子、三郎、正樹は広島原爆慰霊碑の前に佇む。

 他の人も、慰霊碑に向かい、首を垂れる。

 正樹ら三人が、他の人と違うのは、三人とも義太夫三味線を持っていた事だった。

 毎年、ここに来て義太夫三味線を弾いていて不思議な事がある。

 それは、演奏始まる前は、蝉の大合唱が鳴り響いているのに、義太夫三味線の音色が聞こえ出すと、ピタリと鳴きやむ。

 参列には「三玄」の常連客もいた。

 東京マスコミには報道されないが、地元広島では有名だった。

 広島新聞には、次の様な見出しがやどった。


「聞いて下され、義太夫三味線の鎮魂演奏」

「今年も(三玄)坊屋照子さんが奏でる義太夫三味線」

「慰霊碑前で今年も、義太夫三味線演奏」

 

 一同慰霊碑前で一礼。

 照子の義太夫三味線の音が始まる。

 正樹、三郎のツレ弾きが続く。

 三郎が義太夫三味線を弾くのは、この8月6日のこの慰霊碑前だけである。

 以前正樹は聞いた事があった。

「何で、他の日もやらんの」

 三郎はじっくりと熟慮した答えが

「他の日もやると、特別感がなくなる」

「で?」

「亡くなった人に何か申し訳なくてな」

 三郎は、昭和20年8月6日、どこで何をしていたか決して云わない。

「云えない位、怖い目に酷い目に会うたのよ」

 照子はそうつぶやく。

 照子は追及しなかった。

 三郎は、原爆手帳を持っていた。

 だから8月6日どこかで被爆したはずだ。

 しかし詳細は正樹には決して話さなかった。

 三人は一列に並ぶ。

 その両脇を脚立に登ったマスコミ、カメラマンが陣取る。

 東京からも来ているはずだ。

 しかし、全国主要紙には報道されない。


 広島原爆慰霊碑奉納

 創作浄瑠璃「原爆後(げんばくのあと)カンナ(かんな)咲(さく)花(はな)希望印(きぼうのしるし)」       

 ♬

 一つの光りが    突き刺さる

 一つの閃光が    未来を踏み潰す

 光りの中で     死にたえる人

 阿鼻叫喚の     地獄絵図

 多くの命を     奪いやった原爆

 原爆よ何故     広島に落ちた

 原爆よ何故     逆らわなかった

 人の血と涙     人の顔から笑み消える

 父よ母よ兄よ    姉弟妹たちよ

 語り継いでよ    いつまでも

 無念涙に濡れた   大地から芽生える

 廃墟の隙間から   カンナ花顔を出す

 カンナカンナよ   それは希望の花

 カンナカンナよ   それは生きる花

 カンナの花言葉   それは堅実な未来

 来年また咲きますか カンナ

 未来でも咲きますか カンナ

 きっと咲かせてよ  カンナ

 きっと生き延びて  下さいね

 カンナ花握りしめ  歩んで下さい

 人々立ち上がり   再び歩き出す

 カンナ花それは   未来の道しるべ

 原爆投下後、科学者が現地入りした。

「広島は、今後八〇年は草花は生えない」

 衝撃の声明を出した。

 主要新聞は一斉に報じた。

 しかし、すぐにそれは嘘だとわかる。

 それを証明したのは、他の科学者でも論文でもなかった。

 一本のカンナ花だった。

 廃墟に咲く花、希望の花でもあったのだ。

 途中から正樹も歌い出した。

 照子は目元から汗と涙が入り混じる水滴を頬から首筋に向けてゆっくりと滴り落ちる。


 演奏が終わり、公園のベンチに座る。

 蝉の声が再び、公園を覆う。

 広島の鎮魂の一日の始まりを告げているようだ。

 誰も何も喋らない。

「あれは地獄やったよ」

 珍しく三郎がつぶやく。

「原爆投下の日の事なんか?」正樹は聞いた。

「そうよ」

 静かに三郎は語り出した。

 初めての事だった。

 昭和20年8月6日。

 三郎は、結核で徴兵を逃れて、この日、爆心地から460メートルの園町小学校にいた。

 夏休みだったが、この日催し物があり、その手伝いをしていた。

「その時、父ちゃん幾つなん」

「23歳じゃった」

 小学校には、地下室があった。

 催し物の備品を取りに、地下室に行った。

「丁度、朝の8時過ぎじゃった。わしともう一人手伝う者がいた。

 それが終わったのが8時14分。

 階段を登りかけてドアを開けようとした。

『忘れ物しました』

 と手伝い人が下に引き返した。

 わしもドアを閉めて再び下に降りた。

 次の瞬間、物凄い揺れと地響きが襲って来たんや」

 三郎は、広島に地震が来たと思った。

 地下室の本棚が倒れて来て、手伝い人が挟まってしまった。

 それを助けた。

 日頃、階段上り下りには、金剛杖を持っていた。

 その金剛杖を使って、床と本棚の隙間を作って助け出した。

「その助けた人って誰なん」

「このわしじゃ」

 正樹は声をした方に顔を上げた。

「梅太夫師匠!」

 思わず正樹は飛び上がった。


 暑いので、「三玄」で話の続きをした。

 園町小学校では、課外授業で、文楽公演を行う事になっていた。

 その公演で、梅太夫らは来ていた。

 地下室には、文楽の床本、図書関係があった。

「何で地下室にあったん」

「大阪、東京大空襲で焼け野原、瀬戸内海挟んだ、伊予の松山、今治も大空襲で焼けてた。軍港ある呉も、7月25日に空襲があって、多くの軍艦が沈み、市民も100人以上なくなった。

 こりゃあ、広島も空襲が近いと思うて、本、資料を地下室に移していたんじゃ」

「前乗りしたわしら技芸員も、人形や床本を地下室に置いていたんや。もし空襲で校舎が焼けても大丈夫なようにな」

 それが結果的に梅太夫、三郎の命を救った。

「それで、その日、文楽は何の演目やろうとしたん」

「何やと思う?」梅太夫が聞いて来た。

「さあ、戦局の時、小学生相手やから、心中ものはあかんしなあ」

 わざと、正樹は声を出して考えるふりをした。

 答えはわかっていたが、ここは梅太夫師匠に花を持たす必要があると咄嗟に考えた。

「わかりません。教えて下さい」

 正樹は深々と頭を下げた。

「楠(くすのき)昔(むかし)噺(ばなし)やがな」

 並木川柳、三好松洛、竹田小出雲合作の全五段の時代物である。

 三段目「どんぶりこ」を上演する予定だった。

 爺の徳太夫は、山へ芝刈りに、婆は川へ洗濯に行くと云う場面が出て来る。

 これなら、童話「ももたろう」と関係があり子供にもわかると思ったそうだ。

 これ以降、梅太夫はこの演目を自分の中で封印したと云う。

「何でなんですか」

 わかっていて、あえて正樹は尋ねた。

「そらあ、やったら、この広島の小学校の地下室が脳裏を占めよる。出来るわけないやろ!」

 語尾は半分怒っていた。

 確かにそうだろう。

 戦後何回か、文楽協会から上演の打診があったが、頑なに断って来た。

 事情を知っていた協会も、それ以上強く求めなかった。

 他の者がやった時は、同じ舞台を踏まなかった。

 もし昼公演で、上演されるのなら、自分は夜公演だけに出た。

 徹底されていた。

 三郎は、軍部の命令で遺体の焼却作業を手伝わされた。

「もう焼き場で焼くのを待っとったら腐敗が進むけん、河原で焼いたんよ」

「酷いなあ」

「ああ酷い。地獄よ。効率よく焼くために、遺体を井桁に組んでな」

 正樹は、顔を覆う。

 凄まじい地獄絵図の中に三郎はいたのだ。

 多くの遺体が、炭化していた。

 黒焦げで全く人間とわからない。

 三郎の涙を誘ったのは、恐らく母親だろう。幼い子を守るために、頭を両手で覆い身体を「く」の字に曲げていた。

 その場で三郎は泣き崩れた。

「井桁に組むのはキャンプファイヤーで木材じゃろがあ」

「ああ、それで父さん、キャンプとか嫌なんだ」

「そう。トラウマじゃ」

 静かに迎える原爆投下の一日だった。

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