悪鬼の親玉

 月下に妖しく笑うは、異形の錦馬超きんばちょう

 彼を守るように、黒い火の玉の群れが浮遊している。数匹のがその禍々しい光に吸い寄せられると、一瞬で燃え尽きた。この火球が、さっきの火事の元凶に違いない。いまの馬超は、三国志業界トップクラスの武力のみならず、恐るべき怪異の力もそなえているようだ。これでは、下手に近づくことすら、危険極まりない。


 思いもよらぬこの展開に、司馬懿たちは呆然と立ち尽くすことしかできなかった。落ち着き払っているのは曹丕だけである。



 ――おのれ、呂布……。何故なにゆえじゃ……。



 突如、馬超の裂けた口から、彼の者とは違うしゃがれた声が吐き出された。曹丕たちは知るよしもないが、悪鬼丁原ていげんの声である。



 ――我らの怨毒えんどくは、とっくにお前の体内に満ち溢れているというのに、何故、お前の心臓は動き続けておる。早く死なぬか。死ね、死ね。



 そう罵るのは、丁原一人だけではない。馬超の喉の奥から何十、何百という声が一斉に発せられ、それらは全て呂布に恨みを持つ亡者たちの怨嗟の叫声きょうせいだった。馬超の体内に巣食う彼らは「死ね、死ね、死ね」と呪罵じゅばを続ける。


 しかし――人体の穴という穴から黒い血を流しているというのに、馬超は不気味に笑っている。


 しばらくは悪鬼たちの好きにさせていたが、やがて、



「アーハッハッハッ‼」



 地鳴りのごとき哄笑こうしょう一つで、うるさい亡者どもを黙らせた。


「俺に死ねだと? 笑わせるな、路傍の石ころのごとき弱者どもめ。貴様らには、この世を生き抜くだけの力が無かったのだ。だから、暴力に抗えず、滅びた。力無き者が何を訴えても無駄、無駄。弱かったお前たちが悪いのだ。いつまでも未練たらしく現世にとどまらず、さっさと冥土に去れ。それが嫌ならば、大人しくこの俺に従属せよ」


 馬超の大きく裂けた口の奥からのぞく無数の「目」が、滂沱ぼうだとして黒い血を流している。馬超の唇は、口内から溢れ出た血で、よだれのようにべっとりと濡れていた。


 恨めしげにすすり泣く声も、かすかに聞こえてくる。恐らく「目」たちが嗚咽しているのだろう。


「……なるほどな。あの黒い血は、馬超に取り憑いた悪鬼たちの無念が宿った血の涙というわけか。祟り殺そうと思ったのに、逆に支配されてしまったのだから、そりゃ泣きたくもなるな」


 曹丕が馬超を睨みつつ、そう呟く。


 一騎の若武者が庭内に現れたのは、ちょうどそんな時だった。


 若武者の顔を見た龐徳ほうとくは「あっ! 馬休様! ご無事でしたか!」と叫んだ。


 兄とともに出撃した馬休だったが、悪鬼を倒すたびにだんだん人間離れした姿に変貌していく馬超に恐れをなし、離脱していたのである。しかし、屋敷に引き返す途中で、


(長子があんな変わり果てた怪物になったと知れば、家族思いの父上がお悲しみになる。傍若無人な兄だが、やはり見捨てるわけにはいかん……)


 と思い直し、再び馬首をめぐらして洛陽の政庁に駆けつけたのだった。


「心配しましたぞ、馬休様。馬鉄様の応急処置は拙者がしました。命に別条はありません。ところで、拙者よりも先に屋敷を出られたのに、なぜ後から参られたのです」


「お前はどうせ、大通りから堂々と走って来たのだろう。裏路地は悪鬼だらけで、こっちはとても恐ろしい目に遭ったのだ。……い、いやいや、いまはそんなことはどうでもよいのだ!」


 馬休は馬から飛び降りると、曹丕に駆け寄ってひざまずき、「こ……公子様! どうかお願いします! 我が兄をお救いくだされ!」と懇願した。


「兄はいま、呂布に恨みを抱く亡者たちに祟られているのです! それゆえ、あのようなおぞましい姿に……!」


「そんなこと、お前に説明されなくても承知しているさ。俺と鍾繇しょうようを襲撃するべくこちらに向かっている道中でそうなったということもな」


 曹丕は、馬休を一瞥いちべつもせず、突き放すような口調でそう言う。


 何もかも見抜かれてしまっている――そう悟った馬休は、「うっ……。そ、それは……」と気まずそうに言葉を詰まらせた。


「まあ、いいさ。……だが、本当にあの兄を救ってほしいのか? あのような暴悪の徒、生きていてもお前たち馬一族に災いをもたらすだけであろう。いっそのこと、ここで俺が始末してやってもいいぞ?」


「し、始末……。それは困ります。あんな恐ろしい人でも兄は兄。助け合ってこその兄弟なのです。図々しい願いであることは百も承知ですが、なにとぞ我が兄を公子様の御力で……鬼物奇怪きぶつきっかいの知識で普通の人間にお戻しくださいませ。兄の暴挙を止められなかった罪は、後で必ず償いますゆえ」


「フン。兄は兄、助け合ってこその兄弟……か」


 馬休の言葉に何かしら思うところがあったのだろうか。曹丕は、ようやく馬休を流し目で見て、「そういうことなら、お前にも手伝ってもらうから覚悟しろ。あの化け物と戦えば、命を落とすかも知れんぞ」とおごそかな口調で告げた。


 馬休は泣き顔になって喜び、「ハハッ! 何なりとお命じくだされ! 必ずやお役に立ってみせます!」と誓った。


「……公子様。馬超のあの怪物じみた姿は、やはり公子様の罠にかかったからだったのですな。しかし、どうにも解せませぬ。悪鬼に取り憑かれているくせして、馬超は恐ろしく元気です。祟られているのに、なぜなのですか」


 司馬懿が、馬休に聞こえないように、そっと耳打ちした。馬超があんなふうになった原因が曹丕にあると知れば、馬休の態度が変わる可能性があると考えたからだ。


 曹丕は「そこが馬超の恐るべきところさ」と冷静な声で答える。


「普通の人間ならば、大量の悪鬼に祟られたら命が危うくなる。だが、どうやら馬超は、自らに取り憑いた悪鬼たちを逆に屈服させ、彼らの怨念を自分の新たな力の根源としたらしい。いまの奴は、生者でありながら、悪鬼の親玉と言っていい存在になっている。こいつはさすがに、ちょっと想定外だった。馬超に殺害された警備の兵たちには可哀想なことをしてしまった」


「想定外などと言いつつ、ずいぶんと余裕っぽく見えるのですが。……もちろん策はあるのですよね?」


 この冷静沈着な若者は、いつも二重三重の作戦を立てて行動している。メチャクチャやっているように見えて、誰よりも慎重な男なのだ。当然、想定外と言いながらも、馬超が怪物化した場合に備えて何らかの秘策を用意しているはずである。……たぶん。


 もしも曹丕が無策だった場合は、もちろん即ゲームオーバー。この場にいる全員がまとめて馬超に惨殺されて終了である。それは物凄く困る。嫁の春華しゅんかと再会するまでは、絶対に死にたくない。頼むから「ああ。策はあるさ」と自信満々に言い切って欲しい……。司馬懿はすがるような目で曹丕の美貌を凝視みつめた。


「ああ。策はあるさ。いまから全力で逃げる。洛陽中を走り回り、逃げて逃げて逃げまくる」


「おおっ! なるほど! みんなで全力で逃げて――って、それのどこが策やねぇーーーんッ‼」


 思わず、司馬懿は曹丕の肩にズビシッとチョップを入れていた。関西芸人に転生しても十分やっていけそうなキレッキレのノリツッコミである。


「……おい。なに男同士でイチャイチャしてやがる。この錦馬超が恐くないのか。俺の前でめた真似をしやがって。……名前は知らんが、アホそうなそこのお前。先に貴様から八つ裂きにしてやるから覚悟しろ」


 馬超が、亡者のように青白い顔を醜く歪ませ、司馬懿をめつけた。


 この暴逆の荒武者は、他人に見くびられるのが大嫌いなのである。だから、襲撃者である自分の前でツッコミ芸を披露されたことがかんさわったのだ。


「ひ、ひえっ……。何かメチャクチャ怒ってる。な、なんで?」


「お前のせいだ」


「おぬしのせいじゃな」


「貴殿のせいです」


「誰かは知らんが、貴方のせいだ」


 曹丕と鍾繇、龐徳、馬休がほぼ同時にツッコんだ。


 すると、とうとう馬超が「いい加減にしろ、くそどもがッ‼ 俺の前でふざけるなッ‼」と怒りを爆発させた。


「いつまでもグダグダと喋って、馬鹿か貴様ら! お前たちの死は眼前にあるのだぞ!」


 のこぎりのような歯を剥き出しにし、天地震わす大怒号を上げる。それと同時に馬の横腹を乱暴に蹴った。荒馬は猛々しいいななき声とともに駛走しそうし、曹丕たちめがけて突進してくる。弟の馬休や家来の龐徳も、曹丕側に奔ったと見て一緒に殺戮さつりくする気満々のようである。


「き……来ますぞ! 公子様、本当にただ逃げ回るだけなのですか⁉」


「ああ。楽しい楽しい夜の追いかけっこの始まりだ。とにかく全力で逃げるぞ。もたもたしていたら、奴の槍の餌食えじきになってしまう」

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