悪鬼の親玉
月下に妖しく笑うは、異形の
彼を守るように、黒い火の玉の群れが浮遊している。数匹の
思いもよらぬこの展開に、司馬懿たちは呆然と立ち尽くすことしかできなかった。落ち着き払っているのは曹丕だけである。
――おのれ、呂布……。
突如、馬超の裂けた口から、彼の者とは違う
――我らの
そう罵るのは、丁原一人だけではない。馬超の喉の奥から何十、何百という声が一斉に発せられ、それらは全て呂布に恨みを持つ亡者たちの怨嗟の
しかし――人体の穴という穴から黒い血を流しているというのに、馬超は不気味に笑っている。
しばらくは悪鬼たちの好きにさせていたが、やがて、
「アーハッハッハッ‼」
地鳴りのごとき
「俺に死ねだと? 笑わせるな、路傍の石ころのごとき弱者どもめ。貴様らには、この世を生き抜くだけの力が無かったのだ。だから、暴力に抗えず、滅びた。力無き者が何を訴えても無駄、無駄。弱かったお前たちが悪いのだ。いつまでも未練たらしく現世にとどまらず、さっさと冥土に去れ。それが嫌ならば、大人しくこの俺に従属せよ」
馬超の大きく裂けた口の奥からのぞく無数の「目」が、
恨めしげにすすり泣く声も、かすかに聞こえてくる。恐らく「目」たちが嗚咽しているのだろう。
「……なるほどな。あの黒い血は、馬超に取り憑いた悪鬼たちの無念が宿った血の涙というわけか。祟り殺そうと思ったのに、逆に支配されてしまったのだから、そりゃ泣きたくもなるな」
曹丕が馬超を睨みつつ、そう呟く。
一騎の若武者が庭内に現れたのは、ちょうどそんな時だった。
若武者の顔を見た
兄とともに出撃した馬休だったが、悪鬼を倒すたびにだんだん人間離れした姿に変貌していく馬超に恐れをなし、離脱していたのである。しかし、屋敷に引き返す途中で、
(長子があんな変わり果てた怪物になったと知れば、家族思いの父上がお悲しみになる。傍若無人な兄だが、やはり見捨てるわけにはいかん……)
と思い直し、再び馬首をめぐらして洛陽の政庁に駆けつけたのだった。
「心配しましたぞ、馬休様。馬鉄様の応急処置は拙者がしました。命に別条はありません。ところで、拙者よりも先に屋敷を出られたのに、なぜ後から参られたのです」
「お前はどうせ、大通りから堂々と走って来たのだろう。裏路地は悪鬼だらけで、こっちはとても恐ろしい目に遭ったのだ。……い、いやいや、いまはそんなことはどうでもよいのだ!」
馬休は馬から飛び降りると、曹丕に駆け寄って
「兄はいま、呂布に恨みを抱く亡者たちに祟られているのです! それゆえ、あのようなおぞましい姿に……!」
「そんなこと、お前に説明されなくても承知しているさ。俺と
曹丕は、馬休を
何もかも見抜かれてしまっている――そう悟った馬休は、「うっ……。そ、それは……」と気まずそうに言葉を詰まらせた。
「まあ、いいさ。……だが、本当にあの兄を救ってほしいのか? あのような暴悪の徒、生きていてもお前たち馬一族に災いをもたらすだけであろう。いっそのこと、ここで俺が始末してやってもいいぞ?」
「し、始末……。それは困ります。あんな恐ろしい人でも兄は兄。助け合ってこその兄弟なのです。図々しい願いであることは百も承知ですが、なにとぞ我が兄を公子様の御力で……
「フン。兄は兄、助け合ってこその兄弟……か」
馬休の言葉に何かしら思うところがあったのだろうか。曹丕は、ようやく馬休を流し目で見て、「そういうことなら、お前にも手伝ってもらうから覚悟しろ。あの化け物と戦えば、命を落とすかも知れんぞ」と
馬休は泣き顔になって喜び、「ハハッ! 何なりとお命じくだされ! 必ずやお役に立ってみせます!」と誓った。
「……公子様。馬超のあの怪物じみた姿は、やはり公子様の罠にかかったからだったのですな。しかし、どうにも解せませぬ。悪鬼に取り憑かれているくせして、馬超は恐ろしく元気です。祟られているのに、なぜなのですか」
司馬懿が、馬休に聞こえないように、そっと耳打ちした。馬超があんなふうになった原因が曹丕にあると知れば、馬休の態度が変わる可能性があると考えたからだ。
曹丕は「そこが馬超の恐るべきところさ」と冷静な声で答える。
「普通の人間ならば、大量の悪鬼に祟られたら命が危うくなる。だが、どうやら馬超は、自らに取り憑いた悪鬼たちを逆に屈服させ、彼らの怨念を自分の新たな力の根源としたらしい。いまの奴は、生者でありながら、悪鬼の親玉と言っていい存在になっている。こいつはさすがに、ちょっと想定外だった。馬超に殺害された警備の兵たちには可哀想なことをしてしまった」
「想定外などと言いつつ、ずいぶんと余裕っぽく見えるのですが。……もちろん策はあるのですよね?」
この冷静沈着な若者は、いつも二重三重の作戦を立てて行動している。メチャクチャやっているように見えて、誰よりも慎重な男なのだ。当然、想定外と言いながらも、馬超が怪物化した場合に備えて何らかの秘策を用意しているはずである。……たぶん。
もしも曹丕が無策だった場合は、もちろん即ゲームオーバー。この場にいる全員がまとめて馬超に惨殺されて終了である。それは物凄く困る。嫁の
「ああ。策はあるさ。いまから全力で逃げる。洛陽中を走り回り、逃げて逃げて逃げまくる」
「おおっ! なるほど! みんなで全力で逃げて――って、それのどこが策やねぇーーーんッ‼」
思わず、司馬懿は曹丕の肩にズビシッとチョップを入れていた。関西芸人に転生しても十分やっていけそうなキレッキレのノリツッコミである。
「……おい。なに男同士でイチャイチャしてやがる。この錦馬超が恐くないのか。俺の前で
馬超が、亡者のように青白い顔を醜く歪ませ、司馬懿を
この暴逆の荒武者は、他人に見くびられるのが大嫌いなのである。だから、襲撃者である自分の前でツッコミ芸を披露されたことが
「ひ、ひえっ……。何かメチャクチャ怒ってる。な、なんで?」
「お前のせいだ」
「おぬしのせいじゃな」
「貴殿のせいです」
「誰かは知らんが、貴方のせいだ」
曹丕と鍾繇、龐徳、馬休がほぼ同時にツッコんだ。
すると、とうとう馬超が「いい加減にしろ、
「いつまでもグダグダと喋って、馬鹿か貴様ら! お前たちの死は眼前にあるのだぞ!」
「き……来ますぞ! 公子様、本当にただ逃げ回るだけなのですか⁉」
「ああ。楽しい楽しい夜の追いかけっこの始まりだ。とにかく全力で逃げるぞ。もたもたしていたら、奴の槍の
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