生者と死者の道

「き……消えた。公子様、女が消えましたぞ! やはり、幽鬼ゆうきだったのですな!」


「ぎゃあぎゃあ騒がなくても分かっている。お前はそれよりも鼻血を拭け。汚い顔で近寄るな」


 曹丕は、駆け寄って来た司馬懿を犬みたいにシッシッと手で遠ざけると、霊剣泰山環たいざんかん凝視みつめた。


 暗雲に覆われていた夜空は、いつの間にか晴れている。寝室の窓から漏れてきた玲瓏れいろうたる月光が、剣の切っ先に落ちた女の涙をキラリと輝かせていた。


「……気に食わんなぁ」


 曹丕はそう呟き、苦々しい顔をしている。彼がこういう表情をするのは珍しい。司馬懿は、鼻を手拭いでおさえながら、首を傾げた。


「何が気に食わないのです? 鍾繇しょうよう殿を惑わせていた女幽鬼を懲らしめることができたというのに。逃げられてしまったのは残念ですが、あれだけおびえていたのですから、捕まえて説教する必要も無いでしょう。きっと、もう二度と鍾繇殿の前には現れませんよ。

 ……あっ、そうか。怪異の取材か。女の身柄を確保して、あれこれ取材するつもりだったのに、取り逃したからイラついているのですな。なるへそ、なるへそ」


「仲達、顔がニヤついているぞ。俺が失敗したと思って、喜んでいるのだろう」


「ぎくっ! い……いえいえいえ! そんなわけないですにょ⁉ 俺も幽鬼に逃げられて残念がっていますにょ⁉」


「フン。分かりやすい奴め。……生憎あいにくだが、俺は何もしくじってはおらん。こうなることも計算済みだった。それに、後で本人の墓に行けば、十分な取材ができるだろうから問題無い」


 曹丕がしれっと驚くべきことを言ったため、司馬懿は「え⁉ さっきの幽鬼の墓ですって⁉」と叫んで目をしばたたかせた。


「あの女が何者なのか分かったのですか⁉ ならば、なぜそんな苦虫を噛み潰したような顔をしているのです。気に食わないことって何ですか」


「あの女……いや、皇室の関係者を『あの女』呼ばわりはさすがにまずいな。彼女が鍾繇に取りいた目的が分かったからだ」


「皇室の関係者ですと? そういえば、自分で帝の寵姫だと名乗っていたような……」


「高貴な身分であるということは、事前に推理していた通りだ。だが、俺は、彼女はある恨みから悪鬼化しているか、そうではなかったとしても年老いた男をもてあそんで楽しむ性悪の女幽鬼だとばかり考えていた。ところが……実際に見てみると、前もって抱いていた印象とは少々違っていた」


「たしかに、異様に妖艶ではあるものの、たちの悪い女という雰囲気ではありませんでしたな」


 司馬懿はうなずき、同意する。人間である曹丕に斬りつけられて、怯えてすらいたのだ。男の暴力に何らかのトラウマがあるようだし、か弱そうな女幽鬼に邪悪な目的があったとは考えづらい。


「彼女はこう言い残して消えた。そなたの子を産んでやろうと思ったのに――と。つまり、本気で鍾繇に恋慕し、二人の愛の結晶を身籠るために毎夜逢瀬を重ねていたのだ。あの艶めかしい女体には恐るべき魔性が潜んでいるが、本人の心は純一じゅんいつ無雑むざつ、ひたむきに恋をする乙女だったというわけだ。鍾繇を正気に戻すためとはいえ、俺はその純真を踏みにじってしまった。結果的に女をいじめたかたちになったのが、気に食わんと言っているのだ」


「子を……ち、ちょっと待ってください。たしかに、彼女はそんなことを口走っていました。されど、死女が生者との間に子を成すなんてさすがにあり得ないでしょう」


 司馬懿が困惑して眉をひそめると、曹丕はさっきからまんじりとも動かない鍾繇の鼻先に手をかざしつつ「それが有り得るんだな、これが」と言った。老人は、かすかだが、息をしている。どうやら、壮絶な快楽の果てに気絶してしまったようだ。


「仲達よ。お前、冥婚めいこんという言葉を知っているか」


「そういう風習があるとは聞いたことがありますが……。夭逝ようせいした若者の魂を慰めるため、未婚で亡くなった女性と死後結婚をさせることですよね」


「それも冥婚の一種ではある。しかし、俺がいま言っている冥婚は、生者と死者が夫婦めおとになることだ。こういった冥婚譚では、たいてい夫婦の間に子ができる」


「は……はぁぁぁ~? 生者と死者が夫婦めおとぉぉぉ~⁉ ち、ちょっとちょっと! いくら何でもそれは無いですって! どこで仕入れた情報か知りませんが、絶対に作り話ですやん! そんなデタラメを信じているなんて、あんたアホですか⁉」


 幽鬼や精魅もののけの存在は普通に受け入れられるようになってきたが、今回はいままで以上に話がぶっ飛んでいる。さすがに驚いてしまい、反射的に真っ向から否定してしまっていた。すぐに(あっ、やべ。殺される)と自分の失言に後悔したが、時すでに遅し。次の瞬間、曹丕の強烈なデコピンを喰らっていた。


「あっ……痛ぅぅ」


「顔が鼻血まみれのアホに、アホ呼ばわりはされたくないなぁ」


「すみません。口が過ぎました……」


「フン。まあ、いい。だが、次は鼻っ柱をへし折るからな」


「こ、心得ておきます」


「……ったく、しょうがない奴め。お前と喋っていると話がなかなか前へ進まぬゆえ困る。それで話を元に戻すが――断言してやってもいい。生者と死者の両親から生まれた人間は実在する」


 曹丕は真顔でそう言った。怪異方面でこの男がここまで言い切るということは、すでに徹底調査済みということである。そのことを司馬懿もよく分かっているので、「ま……マジですか?」と問うた。


「マジだ。以前、盧毓ろいくという男と知り合ってな。いまは亡き盧植ろしょくの息子なのだが……彼から盧家の秘密を聞き出したことがある」


 そう言うと、曹丕は冥婚にまつわる逸話を語りだした。




            *   *   *




 ワンス・アポン・ア・タイム――。


 范陽はんよう(現在の河北省)の盧充ろじゅうは、ある日、狩りに出かけて道に迷った。


 困り果て、あてどもなく歩いている内に、立派な門構えの屋敷を見つけた。おとなうと、ここはさい少府しょうふという役人の家だという。


 崔氏は、盧充を酒と料理で歓迎してくれた。

 しばらく雑談が続いた後。屋敷の主は微笑みながら「実はですな――」と急に思わぬことを言い出した。


「先日、貴方のお父上が『私の息子と貴殿の娘を夫婦にしてはどうか』と縁談の手紙を下さいましてな。それゆえ、こうやって貴方を我が屋敷にお招きしたわけです」


 実に奇異なことだ。崔氏は「先日」と言ったが、盧充の父はずいぶん昔に亡くなっている。父の葬儀があったのは、盧充がまだ成人前のことなのだ。


 何だかおかしいと思いはしたが、崔氏が持っていた手紙を見ると、まぎれもなく亡き父の筆跡であった。懐かしさのあまり涙があふれてきて、盧充は最前まで抱いていた違和感を忘れた。そして、父の提案だという縁談を受けることにした。


「おおっ。縁談を承知してくれますか。これはめでたい。早速、祝言を始めましょう」


 崔氏は大喜びすると、盧充と娘を引き合わせ、華燭かしょくてんは三日に渡って行われた。


 縁談がまとまって、その日の夕刻には挙式である。急すぎる展開に盧充はやや戸惑ったが、崔氏の娘はとても愛らしく賢い。若い夫婦は三日三晩、情熱的な夜を過ごした。しかし、四日目の朝を迎えると――。


婿むこ殿。娘は身籠りました。名残惜しいが……貴殿はもう家に帰ったほうがいいでしょう。もしも男子が生まれたら、貴方に子供を必ず返します。女子ならば、こちらで引き取って大事に育てましょう。おさらばでござる」


 崔氏はそう言うと、涙ながらに盧充の手を取って別れを告げ、「牛車で婿殿をお送りするように」と家来に命じた。


 盧充は何が何だか分からない。車に乗せられたと思ったら、その牛車は驚異的な速さで走り出し、またたく間に盧家に帰りついていた。


「いったい何が起きたというのだ。私は夢でも見ていたのか? 崔殿と我が妻は何者だったのだ……?」


 盧充は狐につままれたような気分になり、崔少府という人物が実在するのか調べてみた。すると、自分の家からわずか五里歩いたところに崔少府の墓を発見したのである。


「私が道に迷ったのは、たしかこのあたりだった。ということは、私はこの墓の中に入って、崔殿の娘と結婚したということか。崔殿も我が妻も死人しびとだったのだ……」


 盧充は墓の前で呆然と立ち尽くすことしかできなかった。


 これは想像に過ぎないが――恐らく、盧充の父と崔氏の間で子供同士を結婚させようという約束があったのだろう。だが、崔氏の娘は夭逝してしまい、愛娘を失った崔氏も失意の内にやがて亡くなった。それから歳月が流れ、盧充が二人の墓の近くを偶然通ったのだ。


(私は、崔親子の魂に引き寄せられたのかも知れない。だが、これで全てが終わってしまったのだろうか? 妻にもう一度逢いたい……)


 彼が妻と再会したのは、それから四年後のことである。


 盧充が川辺でみそぎをしていたところ、向かいの岸に牛車が突如現れ、川の上を走ってこちらの岸にやって来たのだ。


「あっ。そなたは――」


 牛車から出て来た女の顔を見た盧充は、思わず声を上げていた。たった三日間だけ夫婦であった崔氏の娘が、小さな男の子を連れて、盧充の前に現れたのである。


 愛おしさが込み上げ、盧充は駆け寄って妻の手を握ろうとした。


 だが、死人しびとの妻は哀しそうに首を振り、抱いていた男の子を盧充に渡した。


 男の子は、母親に託された黄金こがねの椀を小さな手で持っている。その椀には、以下のような意味の歌が一首、記されていた。


 ――つぼみが開く前に枯れた私ですが、貴方と巡り会えて嬉しかったです。はかない出会いと別れでしたが、全ては神の思し召し……。この黄金の椀を貴方に贈りましょう。これを売って、あなたと私の子供を育ててください。いよいよ迫った本当の別れに、私の心はかき乱れています。


 盧充が子供と黄金の椀を受け取った時には、妻の姿は牛車とともに眼前から消えていた。


 その後、盧充が死女との間にもうけた男子は立派に成人し、郡の太守をつとめるほどの人物になった。劉備の学問の師である盧植は、その子孫にあたる。




            *   *   *




黄巾賊こうきんぞく討伐の将軍の一人だった盧植殿の先祖に、そんな怪異があったとは……」


「似たような冥婚譚は他にもある。

 ……昔、ある所に談生という男がいた。談生は、四十になっても結婚できず、『詩経』の恋愛の歌を読んで妄想にふけるキモイ童貞だった。

 だが、ある夜のこと、十五、六歳の美女が談生の家に押しかけてきた。彼女は『私を妻にして欲しいのです。ただし、三年経つまでは私の体を火で照らしてはいけません』と不思議な条件をつけて、求婚してきた。喜んだ談生は、その美女と夫婦になり、一人の子供をもうけた。

 しばらく幸せな日々が続いたが、談生はある時、結婚時の約束を破って寝ている妻の体を灯火で照らしてしまった。すると――なんと、妻の腰から下には肉が無く、枯れた骨だったのだ。

 夫に自分が幽鬼であることを知られてしまった妻は泣き崩れ、『あともう少しで生き返ることができたのに……。私たちの縁はこれで断ち切られました。子供のためにこの衣を残して行くので、これを売って生活の足しにしてください』と真珠で作ったうわぎを談生に与えて消えてしまった……ということだ」


「どの物語でも死女は男とひと時のえにしを結び、子を残して去ってしまうのですな。何とも物悲しい。最後まで添い遂げることは難しいのでしょうか」


「生者と死者は別の道をゆくのが定め。どんなに愛し合っていても、いずれは破綻の時が来る。それを知っていたから、崔少府は娘が妊娠したらすぐに二人を引き離したのだろう。そして、談生の妻は、夫から精気を吸って生き返ろうとしていたようだが、正体が露見したため身を引いた……」


 曹丕は、弱々しい呼吸をしている鍾繇を見下ろしながら、そう語る。


 生者の体力は有限。霊魂となった死者は無限。死女と情熱的にまぐわい続ければ、男はやがて精力をしぼり取られ、命尽きる。

 盧充は、崔氏の娘とすぐに離別したため、命を縮めずに済んだ。

 談生の場合は、彼がよほどの絶倫だったのか、妻が夫を死なせないように少しずつ精力を奪っていたのか、それは不明である。しかし、蘇生するだけの生命力を妻が獲得するまで夫婦関係が続いていたら、談生の命はどうなっていたか分からない。別の道をゆくはずの生者と死者が愛し合うというのは、それほど危険な行為なのだ。


 一方、盧充や談生とは違い、鍾繇は五十七歳の老人である。三か月間、一日も欠かさず死女と同衾どうきんして死ななかったのは、奇跡的と言っていい。好色ジジイの鍾繇ではなかったら、わずか数日で腹上死ふくじょうししていたに違いない。


「彼女は、愛する鍾繇のために子を産んでやりたかったのだろうな。だが、崔氏の娘のようにあっさり身籠ることができず――」


「鍾繇殿を夜這う日々が三か月も続いた、というわけですな」


「うむ。しかし……たとえ子供を授かったとしても、だ。死人しびとである母親は、いずれその子と離ればなれになる。盧充の妻や談生の妻のように、生者である夫に我が子を託し、冥界に去る時が必ず訪れる。残される子は哀れなものよ」


「う、うう~む。それはそうですが……。たとえそんな哀しい別れが待っていたとしても、あの女人をこのまま鍾繇殿から引き離すのは少し可哀想に思えてきました。俺も愛妻と共に暮らすことができぬ日々が続き、独り寝の寂しさはよく分かるのです。公子様、何とかしてあげられないのでしょうか。生者と死者の二人がどういう馴れ初めで恋に落ちたのかは知りませんが、彼女の魂が浮かばれる方法があるのなら助けてあげたいのです」


「……とりあえず、朝になるのを待って墓に行ってみよう。彼女が俺の考えている人物で間違いないか確認する必要があるからな」


 曹丕はそう言い、泰山環を鞘にしまおうとした。


 突如、剣が強烈な光を放ち始めたのは、ちょうどそんな時だった。


 司馬懿は驚き、「す、凄まじい光! 何事だ⁉」と声を上げた。


 しかし、曹丕は相変わらず冷静で、ホホウ……と不敵な笑みを浮かべている。


「こいつはちょっと想定外だな。まさか、これほど速くここにたどり着くとは」


「な、何者がこの屋敷に迫っているのです⁉ 目が潰れんばかりのまばゆさで輝いているということは、恐ろしく邪悪な何かが近くにいるのですよね⁉ 精魅ですか⁉ 幽鬼ですか⁉」


 司馬懿はそうわめきながら首を一八〇度高速回転させ、「邪悪な何か」の襲来にビビりまくっている。


「お前は本当、緊急事態になったら見っともないぐらい慌てふためく奴だなぁ。ちょっとは落ち着け。ほら、上から来るぞ」


 曹丕が天井を指差す。その直後、夜の静寂を粉々に破壊する轟音が頭上で響き渡った。


 こういうシチュエーション、ついこの間もあったような――と思いっきり嫌な予感がして、司馬懿は見上げた。


 天井を突き破って室内に侵入してきたのは、体躯たいくたくましい荒馬にまたがった馬超だった。


「ぎょえぇぇぇーーーッ⁉ お、親方ーッ‼ 空から騎馬武者がーーーッ‼」


「誰が親方だ。とち狂ったことを言っていないで、鍾繇を背負ってさっさと庭へ逃げろ。さっきの衝撃、建物の崩落が起きるぞ」

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