本編(未完)

第1話 亡命希望者(途中まで/仲間内でのみ公開)

 月の極点ポリュス近くに建造された大深度地下拠点都市「薔薇園ロザリィ」の入国管理局イミグラーツィヤに一人の撫子ナデシコが姿を現したのは、ちょうど、暇を持て余したアンナとミハイルが受像機モンドビジョンで芸能コンサートのリアルタイム中継を眺めているときだった。

 大画面に映し出されるのは、きらびやかな照明効果イルミネーションの輝きを纏い、「薔薇園ロザリィ」中心部の特設スタジアムで笑顔を振りまいて歌い踊る幾百人の「撫子ナデシコ」達の姿。だが、本来ならその中に顔を連ねているはずの一人の少女は今、スカートの裾をひらひらさせたステージ衣装姿のまま、息せき切った様子で、アンナとミハイルが駐在する入国管理局イミグラーツィヤのカウンターの前に立っている。

 アンナとそう変わらない年齢のはずなのに、東洋人である彼女の顔立ちは随分と幼く見えた。

「わたしは『ビリオン』のカスミ=ウメヤシキ。貴国への亡命を希望する」

 ここまで全力で走ってきたのだろう、白い頬をピンク色に上気させ、汗のたっぷり染み込んだ黒髪を乱れさせたままで少女が叫んだ言葉を、翻訳機インタープリターは正確なロシア語に変えてアンナ達の耳に届けた。


 実際のところ、アンナ達がその少女と顔を合わせるのは二度目だった。つい数時間前、彼女は多くの仲間の撫子ナデシコ達とともに航宙バスコズミチェスキで宙港に降り立ち、バイオメトリクス認証を済ませて「薔薇園ロザリィ」に入国したばかりだったのである。

 身長153cm、年齢17歳、ABO血液型グルッパ・クローヴィ第四AB型。第四型はアンナら西洋人にはほとんど発現しない形質だが、東洋人には1割ほど分布があるらしい。

 芸能査証ヴィーザに登録された情報によれば、生年月日は2995年12月29日。地球生まれの地球育ち。月世界への渡航は今回が初めてだった。

 アンナ達は彼女をバックオフィスに迎え入れ、蒸留酒ヴォトカを出して落ち着かせようとしたが、彼女はそれに口をつけようとはしなかった。人工重力プリチジェーニイの効いたこのエリアでは、地球育ちの人間も故郷と同じ感覚で飲み物に手を出せるはずなのだが。

「自由と平和の花園へようこそ、お嬢様」

 ミハイルが胡散臭い笑みを作って少女に語りかけ、彼女の前からヴォトカの瓶を取り上げて自分のグラスに注いだ。客人が飲まないなら自分が頂こうという単純な発想らしい。アンナはそんな同僚の行動に若干呆れた気持ちを覚えながらも、お調子者の同僚を叱りつけることよりも目の前の職務を全うすることを優先し、カスミ=ウメヤシキと名乗る亡命希望者に優しい口調で語りかけた。

「わが『薔薇園ロザリィ』は決して亡命希望者を拒みません。しかし、なぜ豊かな祖国と愛すべき地球の大地を捨てて月面人ルヌイになることを望むのか、詳しく聞かせてもらえませんか?」

 翻訳機インタープリターがアンナの言葉を敬語調の日本語に訳してカスミ=ウメヤシキに伝える。彼女はその説明の前段にほっとした表情を見せてから、後段の質問に対する答えを、白い喉から絞り出した。

「……あの国には、『自由』はない」

 機械越しでも伝わる悲愴な口調。


「わたし達は、マネキンだ」



(以下、執筆打ち切り)

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