2-5 弥三郎婆との対面

「美咲様。猫に仕えるのがオオカミではイメージに合わぬ、とお思いですか?」


 狭い階段を上がり、薄暗い廊下を歩くさなか、タカラともヒカリとも分からないオオカミの美少年はにこりと振り向いて問いかけてくる。廊下の壁面には行灯あんどん風の灯りが揺らめき、彼と美咲、天宮の影をゆらりと不気味に映していた。


「い、いえ。でも、確かに、オオカミってあんまり執事とかしてるイメージないかも」

「ふふ、世間では一匹狼のイメージが先行していますからね。しかし、本来、オオカミとは群れる生き物でございます。我々あやかしもそれに同じ」


 そういえば、オオカミは実際は家族思いで仲間思いの生き物だと、どこかで聞いたことがあったっけ……。


「ですが、数を集めても烏合うごうの衆では仕方ありません。寄せ集めが群れとして機能するには何が必要でしょう」

「え? 仲の良さとか?」


 美咲が答えると、美少年は「ちっちっ」とマンガみたいな仕草で指を振った。

 この子、そういうことするんだ……と思った矢先、横から天宮の声。


「指揮官だ」

「さすが天宮様、その通りでございます」


 ぱちぱちと手元で小さく拍手して、タカラもしくはヒカリは続ける。


「古来、我々の先祖は、大妖おおあやかしかしらに率いられることであやかしとして生きてきました。よく、手下のことをイヌなどと言いますが……我々に関しては、一匹狼よりもそちらのイメージの方が正確でしょうね」

「へぇ……」


 そして彼は、行灯に照らされた引き戸の前で立ち止まり、すっ、と音にならない擬音までも聞こえるような仕草で扉を指し示した。


「その我々のかしらを代々務めて下さるのが、このあるじ弥三郎やさぶろうばば様というわけでございますよ」


 美少年執事が扉を開けた瞬間、ひやっと冷たい空気が駆け抜けたような気がして、美咲はごくりと息を呑む。

 美咲の視界に映ったもの――それは、一階と同じように和洋折衷の調度品がごちゃっと並ぶ部屋の奥、ビロードのソファの上で丸くなっている、熊ほどもある真っ黒な猫の姿だった。


(あれが……弥三郎婆……!)


 よく、猫又は尻尾が二本に分かれていると聞くが、このばばの尻尾は二つどころではなく何本にも分かれていた。あまりの威容に美咲が気圧けおされていると、巨大な猫は金色の瞳をきらりと光らせ、前足の片方をゆっくりと手招きのように動かしてきた。


「突っ立ってないで、お入りよ」


 しわがれた老婆そのものの声で弥三郎婆は言う。団三郎ムジナと同じように、猫の姿でじかに人の言葉を発していた。

 土足でどうぞ、とタカラかヒカリが言ってくる。美咲は「失礼します」と声を震わせ、同じく震える足で室内に踏み入った。

 軽く一礼して天宮も入ってくる。その涼しい横顔を見やりつつ、美咲はすうっと小さく深呼吸して心を落ち着けた。彼が隣に居てくれなければ、きっと不安と恐怖で押し潰されてしまっていたかもしれない……。


「フン、東京くさいニオイだね。……まあ、せっかく来たんだ、少しくつろいで行きなせよ」


 弥三郎婆は大きな前足をすいっと動かし、自分の向かいのソファを二人に勧めてきた。


「では、失礼して」


 天宮が先にソファに近付き、美咲に手で着席を促してくる。


(あ……レディファーストしてくれてる?)


 待たせるのも申し訳ないので、美咲は急いでソファに腰を下ろした。少しの間隔を開けて、隣が天宮の体重ですっと沈む。


「ヒカリ、お客人にコーヒーを入れておあげ」


 あるじに命じられて、美少年はにこりと微笑みを返していた。


ばば様、私はタカラでございますよ」

「おや。そうかい」

「ウソです」


 へ?と美咲は目を見開く。弥三郎婆はチッと舌打ちして、尻尾の一本で無造作に小銭をつまみ上げ、タカラもといヒカリに投げ渡していた。

 ちゃりんと鳴る硬貨を受け取って、彼は美咲達に笑いかける。


「騙せたらお駄賃を下さるのでございます」

「結構なことだな」


 コーヒーを淹れに向かうヒカリの背中で、ふさふさの尻尾が嬉しそうに揺れているのを見ていると、ふいに「お嬢ちゃん」と婆が美咲を呼んだ。


「あんた、つい最近死にかけたね」

「えっ」


 金色の目に見据えられ、反射的に背筋が伸びる。


「は……はい」


 昨夜のあれを「死にかけた」と言うならそうなのだろう。美咲が答えて頷くと、婆は「ふぅむ」と美咲の姿を上から下まで舐め回すように見て、ひひっと笑った。


「いかにも今時の娘って風情ふぜいだねえ。その歳で、この街に骨をうずめるつもりで来たんかい?」

「え……っ」


 美咲は言葉に詰まった。骨を埋めるだなんて、そんなこと、何も考えてはいなかったが……。


「ひっひっ、あたしゃ、あの物件の大家おおやだからね。居候いそうろうするのがどこの馬の骨か知っとく権利くらいあるだろうさ」

「あ……あの、わたし」


 とりあえず何か言わなければと口を開いてみたが、続く言葉は何も出てこなかった。

 何だか物凄い圧迫面接をされているような気がする。この妖怪ヒトに気に入られないと、あの店には住まわせてもらえない……?


(わたし、他に行くとこないのにっ)


 それに、あの店で住み込みで働く話が無くなってしまったら、天宮とももう……。

 無意識に彼の膝あたりに視線をやって、美咲がぎゅっと拳を握ったとき、横から美少年の声がマイペースに滑り込んできた。


「皆様方、コーヒーが入りましたよ」


 オオカミ執事の白い手が、婆と美咲達の前に音も立てずカップを置く。

 白地に金縁の高価そうなソーサーとコーヒーカップ。「まあ、飲みなせ」と弥三郎婆の声。


(怖いだけじゃない……のかな?)


 距離感を測るのが難しいなあと思いながら、美咲は恐る恐るカップを手に取った。緊張した空気をふわりとほどくように、コーヒーのかぐわしい香りが鼻腔をくすぐる。

 そう、心の紐を解かれるようなこの感覚は、昨夜カフェ・ムジーナで味わったのと同じ――。


「団三郎のヤツ、ムジナの分際で美味いコーヒーをくからねえ」


 えっ、と顔を上げると、弥三郎婆は前足で器用にカップをつかみ、熱いコーヒーをちろちろと舐めていた。……猫舌ではないらしい。


「貸してる金の利子がわりに時々届けさせてるんさ。そこの軍人の坊やが来る前は、ホラ、雪女の小娘が届けに来てたよ」

「あ……。さっき言ってた粉って、コーヒーのこと……」


 何やら怪しげな粉じゃないかと思ってびくっとしていたが、団三郎ムジナの挽いたコーヒーを届けていたということらしい。

 なんだ、そういうの早く言ってくれたらいいのに、と思いながら、美咲はそっとコーヒーに口をつける。

 深い苦みの中に爽やかさも感じさせる味わい。昨夜はお酒だけだったので、カフェ・ムジーナのコーヒーを賞味するのはこれが初めてだった。もっとも、店で出すのと、ここでヒカリが淹れたのとでは、また味が違うのかもしれないけれど……。


「この街で商売をやるなら喫茶店をやれっていうのも、あたしが助言してやったのさ。あんた知ってるかい、あの団三郎ムジナっての、先々代までは佐渡ヶ島さどがしまでお山の大将やってたんだよ」

「さどがしま……って、あっ、火縄銃の?」


 少しでもポイント稼ぎをしようと思って美咲が言うと、さぁっと皆の空気が一変した。


「それは種子島たねがしまだな……」

「え、あ、そうでした! あれ、じゃあ佐渡ヶ島って……あ、ホラ、サギでしたっけ、なんか珍しい鳥がいるとこですよね!」

「トキでございますね」


 天宮とヒカリから交互に突っ込まれ、美咲は顔から火が出るような思いでうつむいた。

 せっかくコーヒーが緊張を和らげてくれたのが、たちまちリセットされる。もう、迂闊に何も言わないほうがよさそう……。


「まあ、知らないなりに何か言おうとする姿勢は大したもんさ」


 弥三郎婆が呆れて嫌味を言っているのか、それとも少しは褒めてくれているのか、なんとも分からないのが美咲には怖い。

 びくびくしながら上目遣いに顔色をうかがっていると、婆はカップをソーサーに戻し、ゆらっと尻尾を宙に泳がせてから言った。


「あたしの若かった頃と比べたら、この街は様変わりしたよ」


 美咲も震えの残る手でカップを置き、マジメに話を聞こうと身を乗り出した。


「あんたの歳じゃ知らんだろうが、角栄とかいう政治家が、道やら新幹線やら作ってね。よそ者は入ってくるわ、若い者は出ていくわ……。越後の者が江戸へ出稼ぎに行くのは、そりゃ昔からあったけどね。それにしたって最近はやり過ぎさ。今の新潟の若者にとって一番の望みは何か、あんた分かるかい」

「え……。東京に出ることですか?」

「ご明察だよ。あやかしだって例外じゃない。若いあやかしで土地に縛られてないヤツは、みーんなこの街を捨てて出てっちまうのさ」


 ひっひっと笑って、婆は金色の目をまっすぐ美咲に向けてくる。


「それで、さっきの話さ。あんた、この街に骨を埋める気はあるのかい」

「……それ、は、」


 美咲は無理にでも何か言おうとしたが、金縛りに遭ったように声が出なかった。……いや、これはあやかしの妖力によるものではなく、自分がちゃんとした答えを持っていないからか……。


(……こういうのって、マンガとかでよくある展開だと思うけどっ)


 月並みな物語の筋書きを思い返し、美咲はあぐあぐと口を動かそうとする。

 憧れを抱いてこの街に来たとか、この街で過ごす中で人の温もりに気付いていったとか。そういう話の主人公達は、みんなそれなりのことを答えて相手を納得させるものだと思うけど……。

 ――わたしには、何もない。行き当たりばったりだし、来たばっかりだし!


(……どうしよ。わたし、食べられる!?)


 巨大な化け猫が、ぺろりと舌なめずりしながら美咲を睨んでいる――。

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