片翼の鳥

@ryumei

第1話 対象関係論

 以下は、毎晩商店街の路上で、詩なんだかぼやきなんだかよくわからないものをつぶやく、左腕のない少女、中宮うたの物語である。


 今日、こんな夢を見た

 下顎の歯が全部抜ける夢

 歯が内向きに折れて抜ける夢

 わたしは自分の歯で むせこみそうになり

 慌てて起きて現実にかえる

 幼児期に祖母から聞いた夢解釈

 歯の抜ける夢は変化の兆し

 幸福な変化? 不幸への変化?

 わたしは なにかにつけ 後者を取りがち

 よぎるのは淡い 死の不安

 死に象徴される消滅の不安

 自分には何もないと思っても

 ちんけな魂はやっぱりあって

 そのちんけな魂が惜しいのだ

 けちで卑しい自分に慄いて

 しばらく布団からは出ない


 対象は何にも応じない

 対象はわたしの叫びに応じない

 対象はわたしの疲弊に応じない

 対象はわたしの繕いに応じない

 対象はわたしの無気力に応じない

 応じなさはしかたのないこと

 それが対象の処世のありかた

 対象は生理反応に従順だ

 対象は自分に正直だ

 だからわたしに応じない

 その無意識の生存戦略を

 当然のことと思いつつも

 怒りで内圧は高まっていく

 さながらマグマのように

 感情が醜くたぎっていく

 恨むのは嫌だ

 恨むのは嫌だ

 誰かを恨むのはほとほと疲れる

 誰かを恨みながら死にたくない

 どうすれば世間も他人も恨まずに済むのか

 内圧の暴発を避けるため

 今夜も右手にペンを握り走らせる

 わたしに残されたのは

 もうこの枯れ枝のような右腕しかないのだから

 

 深夜の路上の呟き 独語のライブを終えて

 家に帰るのは決まって一時

 かたんと背後に響くドアの音

 かちゃんと背後に響く鍵の音

 しんとした部屋で 冷蔵庫を開け

 その空白を確かめてから 棚を開け

 食パンをひとつ 手に取って

 小音のラジオに 耳を傾けながら 

 うす暗いリビングで食べる

 目の前の寝室 ふすまは開け放たれている

 そこに横たわる 砂浜に打ち上げられたアシカのような存在

 母

 わたしの母

 中宮冬子 四十歳

 寝息で背中を揺らしている

 わたしは母と二人暮らし

 この母がわたしの<対象>だ

 対象はわたしに興味がない

 対象は自分に興味がない

 対象は世界に興味がない

 対象は人生に興味がない

 その無関心さに憤怒を覚える

 その憤怒はいつか殺意に結びつくかもしれない

 母への憤怒は 自らへの憤怒として返ってくる

 憤怒の螺旋

 わたしは急に大きく聞こえた時計の音にはっとして

 浮上した憤怒を抑圧し

 舌先の乾いたパンの味に神経を集中させる

 抑圧につぐ抑圧

 わたしは毎晩 抑圧ダルマである

 そして ないはずの左腕がうずくのだ

 幻肢痛(ファントムペイン)

 

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