星捨て場は、宙
ぼたすけ
第1話
美しさは毒薬だ。万物に爪痕を残し、受け手に乾きを呼び覚ます。体内に取り込んでも、目が眩むほど見つめても、まだ足りないと飢餓感に苛まれる。何の変哲もない空き教室で、俺は制服の裾を握りしめた。拭っても拭っても、手汗が滲む。肺いっぱいに吸い込んだ、埃っぽい空気すら、緊張を和らげてはくれない。立て付けの悪い窓から吹く隙間風からは、うっすらと雨の匂いがした。約束の時間まで、後数分。教卓に背中を預け、鈍間だが食欲旺盛な蛇のように、前方の出入口をじっと見つめる。ごくりと喉を鳴らし、酸素を緊張で縮こまった肺胞に取り込んだ時だった。
ガラ、と音を立てて、後方の引き戸が開いた。視線を慌てて移動させ、途端に心臓が跳ね上がる。顕になる乳白色の長髪は、蛍光灯を反射し、煌めいていた。下品さの欠けらも無い制服に身を包んだ彼女が、黄金色をゆっくりと細める。
「相変わらず、早いな。君は」
「真白は今日も時間ぴったりだな」
「早すぎても、遅すぎても興が冷めるだろう」
耳に心地よい低音が、雨音に混ざり部屋を満たしていく。焦った様子もなく、鴉羽真白は夢見る足取りで俺に近付いてきた。すっと通った鼻梁に、薄い唇。長いまつ毛も陶器のように滑らかな肌も、湖面に揺らぐ三日月と同じ色をしていた。嫋やかな肢体は百合の花を想起させる。何度対面しても、真白の美貌には慣れない。クラスから浮いてしまうのも、仕方あるまい。
俺は小さく深呼吸を繰り返し、ワイシャツのボタンを上から、ひとつ、ふたつ、みっつと外した。鼓動にあわせて上下する首筋を目にするなり、真白は口端をつり上げた。もったいぶった素振りで、頸動脈を指でなぞられる。肌と肌の確かな触れ合いに、思わず背骨が粟立った。びりびりとした熱が、身体中に弾けていく。
「いいから、さっさとしろ。人が来たらどうすんだ」
「すまない。.......頂くよ」
真白が、小さな口を開けた。てらてらと光る口内に、一際異彩を放つ鋭い牙がふたつ、鎮座している。見惚れる間もなく、真白は濡れた舌を這わせ、尖った犬歯で俺の首筋を貫いた。
「っ.......!」
薄い肌が裂かれ、太い血管が異物に驚き、収縮を繰り返す。溢れ出た血が、真白の体内に取り込まれていく。痛みは、いつも通りなかった。ただ奇妙な疼きが現実を遠ざけていく。じゅる、といのち啜る音が、静かな教室と骨に響いて、頭がおかしくなりそうだ。
真白の両手は当然、俺の身体に添えられている。俺は真白を抱きしめる訳にもいかず、行き場のない両手を開いたり、閉じたりして、疼きに抗った。至近距離から漂う花に似た体臭に、かつての記憶を重ねてしまうのは、もう何度目だろう。真白の細い背中には、当然両翼はない。真っ白な翼を宙に伸ばして、凜然と微笑んでいた彼と、真白は違うのか、同じなのか。顔つきも声の響きも変わらないのに、愛しい純白の羽根だけが失われていた。鼻の奥がツン、と痛む。
「巳月。考え事か?随分と余裕だな」
気づけば、口元を朱に染めた真白が此方を見ていた。どこかぼんやりとした、酔ったような表情に、落胆すら覚えてしまう。彼奴と同じかんばせで、魂で、そんな顔をするな。彼は聡明で、無欲で、高潔だった。血になんて溺れたりはしなかった。いつも穏やかに微笑んで、たくさんの書物を読み解いては、俺に知恵を授けてくれた。
「なにも、考えてなんかねーよ」
俺は、自嘲気味に真白の瞳を覗き込む。蜜色の双眸にまた見つめて欲しくて、禁忌を犯した。願いは成就し、再び視線が交差しているにも関わらず、俺の胸には鉛雲に似た暗澹たる感情が広がっていた。天使でも、人間でもない、目の前の化け物を作り出したのは、他ならぬ俺自身なのだ。
「ごめんな」
小さく呟くと、真白は不思議そうに瞬きを繰り返した。知性も足りない、血に飢えた美しいだけの異形。神を殺した天使の成れの果て。真白が彼の出来損ないだとしても、真白が傍にいなければ、最早呼吸も儘ならない。
俺は豊かな銀髪をひと房掬い取り、血液の滲んだ首筋を拭った。穢れをしらないキャンパスに、力なく赤が走る。俺から血液を吸わなければ生命を維持できない真白に腹が立った。同時に愛おしさも覚える自分はなんて浅ましいのだろう。天界から追い出されて、当然だ。翼の出し方すら忘れた自分は、宙に帰れないまま、真白の糧として死ぬのだろう。真白も怪物として生涯を閉じるのだろう。
俺はただ、彼に恋して、愛していただけなのに、いつから道を違ってしまったのか。黙りこくって俺を見つめる真白は、唇を拭おうともしない。
「ハンカチで血くらい拭いとけ。授業はじまるから、行こうぜ」
「そうだな。ご馳走様」
シワひとつないハンカチをポケットから取り出し、真白が満足そうに頷く。
俺は、次の授業は何だったかとぼんやり考えていた。俺も、もう天使でも、人間でもなかった。半端者同士、肩を寄せあって俺たちは空き教室を出た。
真白は、かつては偉大な星天使だった。からす座を司り、皆からはゴーバスと呼ばれ、慕われていた。しかし、ゴーバスはある日突然、俺たちの女神を矢で射って殺してしまったのだ。何があったのかは分からない。ただ、倒れる女神の胸に咲いた赤黒い血痕と、青ざめたゴーバスの顔だけはよく覚えている。神の怒りに触れた彼は、女神と同じように胸を貫かれて死んだ。自業自得だった。天罰だった。頭では理解していた。
しかし、ゴーバスの優しい声や柔らかな笑顔の喪失に、俺は耐えきれなかった。俺は医術に長けていたから、死者を甦らせる薬草の存在も知っていた。凍てついて固まった死体に、煎じ薬を与え、力を注いで、泣きながら祈った。還ってこいと喉が裂けるほど叫んだ。.......得たものは、人間界への追放という罰と、ゴーバスと同じ顔をした化け物だけだった。ゴーバスと過ごした穏やかな宙での日々は、永久に戻らない。何故、ゴーバスは女神を射殺したのか、検討もつかない。 俺は、数学教師が教科書を読み上げる声をぼんやりと聞いていた。先程真白が残した吸血痕を指で圧迫しながら、窓の外を眺める。相も変わらず、重苦しい曇天が横たわっていた。
「.......ゴーバス」
愛しい天使の名前をひっそりと口に出す。当然、前の席の真白は振り向きもしない。惨めさが頭蓋骨に響いて、消えた。
星捨て場は、宙 ぼたすけ @botan_1z
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