きょうを読むひと

押田桧凪

第1話

 最初はポツポツと、不規則な間隔で。十分にしまりきっていない蛇口から零れるように雨滴は落ちて、平らなアスファルトにしみをつくる。そしてパラパラと。行き交う人が傘を開きはじめ、そこに雨音が反響する。


 駅の改札を出て、すぐの所。庇の下で私は三宅さんを待っていた。きょうは夜から雨が降るという。


「何か待ってるんですか?」


 ゆっくりと振り返ると、かっちりとしたスーツ姿の男性が、ふくよかな笑顔をたたえている。その見知った顔に安心し、私はすこし間を置いてから答えた。


「雨がのを待ってたんです」


「え? 雨が止む前に帰ったほうが……いいんじゃなくてっ?」


 三宅さんは大袈裟に、口に手を当てて驚いたような表情を浮かべ、いかにも唖然としている、といった様子を見せた。わざとらしい、マンガのようなリアクション。


「もう……三宅さんったら。『何か』っていいましたよね? 普通、誰、じゃないですか。駅前で待つとしたら。そんな訊き方するのはずるい」


 予め答えを知っていて、かつその答えへとスムーズに誘導するような問い方。これは小学生向けのなぞなぞと同じだ。


 ──お金を持っていない中、ケーキ屋さんの前でずっと待っていたら何くれる?


 ──答えは、日が暮れる。この場合、『ケーキ屋さんは何くれる』ではなく、『何くれる』という含みのある誘導になっている。


 三宅さんはキザな人だ。そして、私も。


「カナさん、遅れてごめんなさい。でも、僕を待っていてくれたというより……僕より、傘目当てなんですね。雨が降るのを待ってる、なんて言っちゃって」


 少し拗ねたような言い方。私は段々と饒舌になる。


「だって。三宅さんは私に、『傘を待ってる』って言わせたかったんでしょ? だから、私ちょっとばかし、ひねったの」


「さすが、カナさん。なんだか、きつねとたぬきの化かし合いみたいだ」


 おどけたようにそう言って、うまいことを言ったとでも思っているのか、三宅さんは空気を吸いこみ、ふんと小鼻を膨らませる。そして、寒さのせいか下を向いて肩を震わせた。

 私はその肩にそっと頬を近づけ、体温を探す。スーツの上から、骨ばった身体に顔を埋めようと試みる。ちくちくするような、冷たい夜の空気を肺にいっぱい吸い込みながら。


 三宅さんの固さ。やわらかさ、脆さ、危うさが、不思議と嫌いじゃなかった。そして、それら全てが、三宅さんを構成するだいじな要素なんだろうと。それが一つでも欠けたら、もう私の知っている三宅さんでないような気がして、帰路を辿るほんの数分の間であっても、これからもずっと、この平穏を噛み締めておきたいと、私は願う。


 ひとつ傘の下、二人で夜道を歩く。


 ◇



「あーあ、さすがに星は見えないよねぇ」


 八畳間の隅。窓枠から身を乗り出し、三宅さんは深くため息をついた。


 しし座流星群。ニュースでは、きょう十八日がピークだと言われている。星好きの三宅さんは今日の夜を、先週から楽しみにしていた。


「仕方ないよ。まぁ去年見れたからいいじゃん。はい、これ」


 カップ麺を三宅さんの前にゆっくりと置く。折りこんだ蓋は少しずつ剥がれはじめ、その合間からは既に湯気が漏れはじめている。二人して残業の終えた後、私たちはいつも決まってこれを食べるのだ。


「ありがと。でも、見えなくてもあるんだけどね。空には星が」


 自らを鼓舞するようにそう呟く。が、その悲しそうな表情が三宅さんの心の内を雄弁に物語っていた。私は暗い雰囲気を振り払おうと、口を開く。


「そういえば、さ」


 〈きょうの夜は雨が降るかも 傘もってるから待ってて〉

 帰り際に来た、三宅さんからのメッセージを思い返し、私は尋ねる。


「さっきはなんで雨が降るって分かったの? 天気予報でも言われてなかったのに……」


 三宅さんは虚ろな目で私を見てから、顔つきを改め、ふふんと鼻を鳴らした。まるで未来を読むことができるかのように得意げに、当然とうぜんだよと言った。


「エッ、予知したの?」


「ちがう、ちがう。えっと───ひがしに、ようやくって書いて。東漸とうぜん。天気東漸の法則っていうのがあって……天気は西から東に移るからさ。例えば、関西が雨なら、その翌日の関東は雨が降ったり。大まかな予想ができる。それに、今は雨雲レーダーっていうのもあるし」


 そういえば、三宅さんは現在の仕事に就く前までは、気象予報士を目指していたという。滑舌が悪いとかでキャスターになるのを断念したそうだが、それも星に興味を持ってから始まった夢だった。


「そろそろ閉めよ? 明日の月食に期待しようよ」


「いや、雨上がりに見れることもあるから。まだ待つ」


 そう言って三宅さんはなかなか窓を閉めようとしない。乾いた風がやわらかく、けれど包み込むとは言い難いが、この肌寒さが、丁度よかった。


 空を見上げる。散らばった星は、撒菱のようにちくちくと刺すような輝きを放ち、そして忍者のように闇に溶け込む。


「きつねとたぬきって、さっき言ったけどさ。じゃあ、クイズね。きつねにはあって、たぬきにはないものって何だ?」


 ────また、星のはなしだ。


 私はふと、思い出す。去年の冬だったか、あの雪が降っていた日もそうだった。ひとひら、ひとひら。その雪の白さに紛う断片が、ぼんやりと空に浮かんでいた。たしかに光るひとつの星を指差して、三宅さんは言った。


「カナさんは、シリウスです」


 耳を疑った。そんなことを言う人が本当にいるのかという思いと、歯の浮くようなキザなセリフ、その滑稽さ。全てがおかしかった。これを狐につままれたような感覚というのだろうか。ただただ、茫然とした。その言葉を聞いて、きょとんとした私を見るや否や、三宅さんは矢継ぎ早に解説を始める。


「シリウスっていうのは、おおいぬ座の恒星の中で───」


 それは知っている。私はただ、気になっただけだ。

 三宅さんの、その言葉が果たしてどこまで真意なのかを。三宅さんにとって、星はともだちで、そんな星好きの三宅さんが、私を一等星と評することが、どれほどの価値を持っていて、どれくらい特別なのか。それとも、単におどけて言っただけなのだろうか。私には全く分からなかったけれど、それを訊くことはできなかった。答えを知るのが、怖かった。


「あのシリウスと、地球はどれくらい離れてるのかな?」


 私にできたのは、話題の矛先をずらすことぐらい。なんにも知らないふりをして。なんにも思っていないふりをして。


「えーと、どれぐらいかな。2.6パーセク。つまり、8.6光年だから──約3.08×10¹⁶ m とかかな」


「じゅうのじゅうろく、じょう? それって、億とか兆?」


「いや、さらにその上。きょうもしくは『けい』って言ったりするんだけど。ものすごく、学術的がくずつてきに大きな数字だね」


「あっ噛んだ」


「いいよ、そんなの」


 三宅さんは気だるそうに応じる。この様子だと手術や呪術なんかも言えないのだろう。それもまた、私にはいとおしく思える。


 京、か。天文学的数字────普段めったに使うことがない桁数でさえも、宇宙は簡単に超えてくるんだなあと、どこか他人事のように頭の片隅で回想しながら、私は三宅さんの横顔を見つめる。



 ──きつねにはあって、たぬきにはないもの。答えは簡単だ。


「どうせまた、星座でしょう?」


「正解。さすがカナさん。こぎつね座っていう比較的新しい星座なんだけど」


 それは私も知っている。こぎつね座の恒星の中でも、一番明るい──赤く輝く星α。


 そう。まさに、赤いきつね。

 今、私たちが食べているもの。


 紅潮した頬。ほんのりと香るかつおだし。三宅さんは満足そうに目を細めて、麺をすする。スープの上に添えられた油揚げと卵。もしかしたらこの黄色い卵は、星を模しているのではないないだろうか、とふと考える。


 赤いきつねの熱が全身に染み渡るのを感じながら、私は三宅さんの手を握る。手に届くぬくもりだけが、本物だった。

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