西川桃樹という男
秋津 心
第1話
西川桃樹という、不思議な男がいた。彼の心には、ふたがついていない。
今週の三連休、仕事は残っていない。
私が育った地元に帰ることにした。まだ日の出ていない朝早くの時間に家を出る。寒い。体に刺さる冷たさだ。吐く息がいつの間にか白くなっていることが分かる。そんな寒さに億劫になってしまったせいで、すっかり遅れてしまった。走って駅に向かい、すでに止まってある急行の電車に飛び乗った。私が乗ってすぐに、電車の扉が閉まったので、走ってきた体の火照りを外の空気で癒すことが出来ない。寒いのに顔が熱い。ひどい風を引いた気分だ。
西川桃樹とは小学校の頃に出会った。小学三年生の春、父親の転勤で私たち家族はそこに引っ越してきた。小さい学校だったため、仲の良いグループはそこそこ出来上がってしまっているもので、積極的な性格ではない私はなかなか友達が出来ないでいた。
休み時間、他の同級生が外に出て遊ぶことをしていた中、やることのない私は、教室にもいられなくなり、学校の正門近くにある池にいる鯉を静かに眺めていた。いつまでもこれが続くかと思うと寂しかった。
そんなとき、声をかけてくれたのが西川桃樹だった。
まだ話したこともなかったのに、突然、
「友達になろうよ」と言ってくるものだから私はひどく驚いた。だから「なんで?」とも聞いてしまった。
すると西川桃樹は、
「発表するときの手の上げ方が綺麗だから」
というのだ。全くよく分からない。今思うと西川桃樹も一人だったのだろう。
そんなキッカケがあり、私は西川桃樹とよく遊ぶようになった。学校が終わると、小さな川に行き、ザリガニを釣りに行った。
「梨を餌にすると良く釣れる」そう言って、どこからか取ってきた梨で、釣りをし始める。そして私の倍以上のザリガニを釣ってしまうのだ。「俺の方が多く釣れた」それを口癖のように毎回言ってくる。
私と西川桃樹はますます仲良くなっていった。彼は良いやつだった。
しかし、彼に対するクラスの評価は私とは違うものだった。
いつも、西川桃樹と一緒に教室にいると、何人かの生徒が私たちを見て笑うのだ。そして私に向かって聞いてくる。
「どうして、あんな奴と仲良くできるのか」
と。
「人の話を聞かない」「自分勝手」「すぐに悪口を言う」「悪魔」
見渡してみると、西川桃樹の周りには敵しかいなかった。
誤解だと思った。嘘だと思った。いや、思いたかっただけかもしれない。彼は「実際に」その評価通りの人間だ。
「うるさい」
そう、言い放ち授業の途中に急に席を立ち、学校から帰ったことがあった。クラスの人とつまらないことでよく喧嘩をしていたこともあった。先生に向かって上履きを投げつけたこともあった。
西川桃樹は異常な人間だった。そのことを確認すると、何だか急に怖くなってきた。
「西川桃樹は異常だ」
でも、私に対しては、いつまでも親友だった。それが不思議に思った。
だから、聞いたことがある。親友として、「なんで、いつも、怒っているの?」
と。
すると、西川桃樹はいつも通りの声で言う。
「俺、心にふた、ついてないんよ。思ったこと、抑え込むことができないんよ」
西川桃樹は。極端な正直者だったのだ。何だか安心した私は、その日は夜遅くまで、ザリガニ釣りをした。初めて、私は西川桃樹にザリガニの数で勝つことが出来た。
次の日、教室に来ると西川桃樹はクラスに来なかった。不思議と寒気がしたことを覚えている。先生に聞くと、
「桃樹くんは特別学級のクラスに移りました」
とはっきり言われた。
「よっしゃー」
どこからか声が聞こえてくる。
見渡すと、クラスのみんなはなぜか気持ちの悪い安堵の表情を浮かべていた。
まだ朝食を食べていなかったので、鳥飯弁当を広げた。今着いた駅から、多くの人が乗り込んでくる。私の隣にはパーマをかけたおばちゃんが座ってきた。なんだか、少し濃い匂いがする。こうなると、鳥飯弁当がなんだか食べづらい。不自然に甘い匂いを口に含みながら食べる弁当は、少し残念だった。
中学に上がると、西川桃樹という文字を同じクラスで見つけた。私は興奮した。
ザリガニ釣りをするような年齢ではなくなってしまったけど、また、小学校の頃のように仲良くできる。直感的にそう感じた。
しかし、西川桃樹はいじめられていた。クラスのリーダー各のような存在に、目をつけられてしまったのだ。
いじめの内容はシンプルだった。
「西川桃樹を無視しろ」
ある日から、そんな命令がクラス全員に下された。
西川桃樹は反抗した。リーダー格を殴りかかろうとしていた。しかし、ダメだった。リーダー各には仲間がいた。西川桃樹には仲間がいなかった。
私は、そのとき、見て見ぬふりをしていたのだ。そして関わることをやめた。冷たい目を西川桃樹に送った。
その目に気づいた西川桃樹はどこに消えてしまった。
メールフォルダーの中を確認した。西川桃樹の文字を検索ボックスに入れる。すると、大量のメールが表示される。メールは一か月ごとに定期的に送られていた。そして半年前で、メールは途切れている。
「4月十日 真っ赤な花がパラパラ飛んでいて、カレーが食べたくなってきた」
「5月十日 めんどくさい雨、来る日も狂い続けるクモの顔」
メールの内容は、怪奇文章のようなものだった。意味がほとんど分からない。それでも私は、そのメールが来るたびに、興奮をしていた。そのメールの文章の中には間違えなく西川桃樹がいたからだ。
高校を卒業し、大学進学のため上京することになった。駅のホームで電車を待っているとき、背の高い、見知らぬ男が立っていた。西川桃樹だった。
中学以来会っていなかったので、どうしてここにいるのか、分からなかった。聞くと、風の噂で来たのだという。
就職する予定だったが、結局実家の農家で働くことになったのだと、そのとき言われた。
どんな顔をすればいいのか分からなくなってしまった。私は裏切り者だから。しかし、西川桃樹は、またいつも通りの声で言うのだ。
「毎月、メール送る」
その言葉通り、メールは毎月送られてきた。その日から休むことなく。意味の分からない怪奇文。それは、西川桃樹が、そのとき思い浮かんだ心の中身だった。
しかし半年前から、そのメールは届かなくなったのだ。なにかあったのではないか、と焦り始める。メールが来ない。それは心が無くなってしまったことを表している。
地元の駅に着いた。トタン造りの駅舎は案外、こんなにも感慨深いものだったとは。都会と違って耳がすーすーする、雑音がないからだろうか。
駅を出て左へ進む。
途中のキュウリの無人販売を過ぎた先、大きな平屋が見える。木々が生い茂っていて、農薬の香りが鼻につく。ここが、西川桃樹の家だった。
庭を超え、ふすま型の横開きのドアを前にする。心臓が高鳴る。呼び鈴を鳴らした。
「はーい」
なんと若い女性の声だった。
「どちらさま?」
そう聞かれたので、とっさに、
「西村桃樹さんいますか?」
と、答えた。予想外に女性が現れたことに驚いた。家を間違えたのかもしれない。
「お、おれか」
奥から、図太い男の声がした。
何だか嫌な予感がする。
数秒後、ガラガラと音を立てて、空いた扉の前には、西村桃樹が立っていた。
背の高く、ずぶといわりには、繊細な小さな顔がついている、不思議な形。それが、西川桃樹だった。
その風貌に少しためらいを見せながらも、顔を見ただけで満足をしてしまった。
私は聞いた。
「なぜ、メールをやめたの」
すると、西川桃樹は顔をうつむかせるわけでもなく、何食わぬ顔をして、
「何を書けばいいのか、分からなくなった」
と、平然と答えるのだ。
「結婚をしてから、何も思い浮かばなくなった」
と。
西川桃樹の後ろには、さっきの若い女性がいつのまにか立っていた。いや、西川桃樹の妻がそこに立っていた。小さな、小さな赤ん坊を抱き抱えながら。
「寝たの?」
「うん、寝たよ」
その光景は、ぬるま湯のように、不安を持ちながらも満たされているものだった。
その言葉、様子を目の当たりにして、私はひどい恐怖にかられ、すぐに彼を背にして走り出した。
あの頃のあいつはもういない。
西川桃樹という男 秋津 心 @Kaak931607
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