竜の大陸の物語 -異世界人と亡国の姫君-

葉桜冷

第1話 畢生

 竜の形をした大陸があった。

 空から見下ろすその土地はまさに翼を広げた竜のようである。

 中央を背骨のように分かつ剱山。

 両翼のように広がる二つの大地。

 北東、南東、北西、南西。それぞれを治める国。

 それがこの大地のすべてである。


「きみ、名前は?」

「ないです」

「ない? 姓も? 名も?」

「分かりません。……その、本当にわからなくて……」

「……出身は?」

「分からないです」

「分からない? じゃあ家族は?」

「いない……と思います……」

「思いますって……」

「すみません……もしかしたらいたのかもしれないけれど、憶えていなくて……」

「……なにか、身分を証明できるものは?」

「ありません。服だけです」

「ああ、うん。実に変哲のない布地の服だね。安そうな素材だから、身分はたいしてだろうけど……それだけ? 着の身着のまま?」

「はい。気が付いたときからそうでした」

「……」

 憲兵の男は困ったように頭を掻いた。

 書類から目の前の青年に目をやる。

 背の高い青年だった。

 黒髪と白髪が混じった妙な髪色、黒い瞳。

 ぼんやりと、どこをみているのかわからない雰囲気。

 およそその身を証明するものが存在しない不思議な青年であった。

「ごめんなさい、オレ。記憶がなくて……」

 申し訳なさそうに青年は頭を下げた。

 その様子があんまりにも申し訳なさそうなものだから憲兵の男も困ったように頭を掻くことしかできないでいる。

 困ったように項垂れる男性二人の様子を見ながら、ポーラはなんでまたこんな面倒うなことになってしまったのかと、やはり困ったように微笑んでいた。


 時は数時間前に遡る。


 南東の国『ソラ』。

 まもなく30代になろうとしているポーラは今、この国を治めているシャロメット家からほど近い町の市に来ていた。

 まもなく夏が終わろうという季節。

 夏の間の収穫物で市は活気に満ちている。

 慣れた足取りでポーラは人込みを避けつつ、買い物を済ませていく。

 約一週間分の食材を買い込んで(割と結構な量である)さて、帰路に着こうかというときにふと彼女は約束を思い出した。

 それは幼い少女との約束であった。

「これ、ください」

 露店に並ぶ、可愛らしい人形を彼女は指さした。

「まいどあり! 奥さん、娘さんへのプレゼントかい?」

「私、奥さん何て年じゃないですし娘も旦那もいやしないですよ」

 老年の店主は愛想よい男で、こんな風に軽口をたたきつつ、人形を手渡してくれた。

 愛想笑いを浮かべながら、人形に目をやる。

 赤い髪の可愛らしい女の子。

 どこか、約束した少女を思い出すような。

 これで満足してくれると、嬉しいなと思う。

 少なくない額を払い、露店を後にしようとしたところで群集の中に悲鳴が広がった。

 馬の嘶きが響く。

 馬車が暴走したようだった。

 毛並みを逆立てて、その馬は暴走しポーラに迫る。

 ほとんど一瞬に間にその馬は

 ポーラの目の前に蹄が振りかざされて、

「―――え?」

 誰かに突き飛ばされた。

 尻もちをついたときに肉が潰れ、骨がひしゃげる音がした。


 その瞬間に、一瞬だけ青年と視線が交わった。

 空虚で、穏やかな。

 灰色の瞳だった。

 ―――――それほどに澄んだ瞳を初めて見た。


「……はっ⁉」

 呆けから醒めた時、ポーラの目の前にあったのは酷くひしゃげた男の躰だった。

 両手足はあらぬ方向へ曲がり、捩じれた胴体からは血肉が溢れており、首は曲がってはいけない角度で曲がっている。

「な、、ま、待って……そんな!」

 そんなまるで、自分をかばって轢き殺されたような、そんな状況。

 混乱する頭でポーラはその青年に駆け寄る。

「そ、そんな! いきなり出てきて庇われて死なれても困る……っ、困ります! あの、息! 息して!」

「お、おい。おくさん、そりゃどうみても死んで……」

 ごふ、と惹かれた青年が咳をした。

「よ、良かった。まだ生きてる! 生きて―――」

 ふりかえったらさっきまで愛想よく話していた店の老人は青ざめた顔のまま、信じられないものを見る目で後ずさった。

 ポーラもまた青年のほうを向き直って絶句した。

 馬車に轢かれた青年が、のっそりと立ち上がったのだ。

 確かに手足は折れていたはずなのに。

 そうでなくとも立ち上がれるような怪我ではないはずなのに。

「―――な、え?」

 青年の視線は虚ろに宙を舞った。

 と思ったら、頭をぐるりと回して、また倒れた。

「……え? え?」

 あたりを見渡しても皆、蜘蛛の子を散らすように暴走馬車から逃げているため誰もいない。

 そこにいた店主は呆然としていて、まともに動かなそうだった。

「も、もう! なんなのよ!」

 よいしょ! とポーラは青年を担ぎ上げる。

 背の高い、しっかりとした体躯からは想像もできないほどに青年の躰は軽かった。中身に何も詰まっていないみたいに。

「病院! 病院に行きます! こんなところで見ず知らずの人に借りなんて作りたくないですからね!」 

 ポーラはそういうと、半ば引きずるように青年を連れ出した。

 いくら軽いとは言え、女性が男一人を運ぶのはそれなりに必死だ。

 必死に運んでいるので、彼から零れ落ちる血液の量がどんどんと少なくなっていくことに気づかなった。

 

「無傷、ですね」

「……はい?」

 医者の言葉にポーラは耳を疑った。

 傍らには半裸になった青年。

 当の本人だというのに、どこかボンヤリとしている。

 青年の半裸を見やる。

 ものの見事に無傷だった。

 普通に引き締まった体があるだけであった。いやなんか普通に引き締まっている。

 出血はおろか、傷跡も、打撲痕も、内出血の跡も何もない。

 ごく普通の健康な肉体がそこにあるだけだった。

「その人、ほんとに轢かれたんですか?」

 医者はどうにも怪訝そうな顔でそう聞く。

 ええ、本当に轢かれたんですよ。という旨をポーラは説明して、説明しながら、なんだか自分でも何を言っているのかわからなくってきた。

 確かに目に前で、この青年が自分をかばって惹かれて瀕死の重傷を負ったところを見たはずなのに、実際のところ今はまあぴんぴんしているわけで。

「きみ、轢かれてたよね? なんで大丈夫なの」

「……オレ。傷の治りがはやいんです。たぶん……」

「いや、そんな、そういう問題では……」

「とにかく」

 青年は彼女の言葉は遮るように立ち上がると、ふらふらと頼りない足取りで入り口に歩きだして、

「あ、」

 同時に入ってきた憲兵にぶつかってふらふらと倒れてしまった。


 その後、青年が目を覚ましたのは憲兵の詰め所である。

 ひき逃げの件について、話を聞きたいという旨を優しそうな憲兵さんに聞かれ、まず彼自身のことを聞かれて、冒頭のようなやり取りになるわけである。

「ひき逃げした人物に心当たりは?」

「ないです」

「……そうかい」

 憲兵の男は力なく項垂れた。

 青年はその様子を困ったように見ている。

「……ポーラさんも見てないって言ってたし……、驚くほど手がかりがないな……」

 ボンヤリと憲兵は独り言ちる。

 かわいそうだと思うが、そんなこと当事者たちの前で言っていいのだろうか?

「まあ、幸いにも被害自体は甚大じゃないんだ。轢かれた当事者も、ひどい怪我だって言っていたけれど、全然大丈夫そうだし。その記憶喪失も事故以前からのモノなんだろう?」

 青年は頷いた。

「うん。なら、もう帰っていいよ。ポーラさんも付き合わせて悪かったね」


 というわけで、詰所から解放された二人。

 既に日が暮れだしているところだった。

「あ、あの……」

 青年はポーラに向き直った。

「ごめんなさい、こんなに遅くまで付き合わせて……迷惑を……」

「いえいえ、そんなことないですって! そんな申し訳なさそうにしないでくださいよ。あなた私の恩人じゃないですか」

 そういうと、彼は全く困ったように、照れくさそうに微笑した。

 いかにも不器用な青年であるように見える。

 不意に腹の音が鳴った。目の前の青年かららしい。

「おなか、減ったね」

「うん」

「夕食、奢るよ。今日、助けてくれたお礼です」

「え、で、でも……」

 もう一度腹の虫が鳴った。

 彼は逡巡の後に、こくりと頷いた。


「記憶喪失って、大変ねソレは」

「むぐむぐ」

 二人が入ったのは町中の小さなレストランであった。

 暖かな照明が木造の店内を照らしている、静かな雰囲気の店だった。

 そんな店内の雰囲気とは裏腹に澪は貪るように出された料理を食べていた。

 何でも目を覚ましてから一週間近く、碌なものも食べないまま放浪していたらしい。

「目を覚ました時、記憶がなくて……自分が何者で、どこに行くべきかもわからずに、ただ、歩き出すことしかできなかった」

 出された大盛のパスタ類を胃に収めると、ぽつぽつと彼は語り始めた。

 目覚めた時、彼の周りには崩壊した集落があったらしい。

 生きている人間の気配はなく。ただ、傍らには死人がいたという。

 話を聞くに、賊の類に襲われたのだろう。

 記憶をなくし、頼れる人間もいないまま、当てもなく歩き出すしかなかったらしい。

 そうしてふらふらと歩いていたら今日、ポーラに出逢って馬車にひかれたのだとのこと。

 なんだか運命的なものを感じたりしなかったりしたポーラであった。

「ん? じゃああなた、帰るところとかないの?」

 こくりと彼は頷いた。

「今までどうしていたの?」

「道の端で……、盗られるようなものは、持ってないから……」

「……」

 確かに。

 いかにも着の身着のままというか、何も持っていない様子ではある。

 けれど本当に一文無しで浮浪者のような軌跡をたどっているとは思わなかった。

「……よし」

 食事を終えて、外に出た。

 夕暮れ、空は紫色に染まっている。そんな時間。

 ほう、とポーラは吐息を一つ吐いて。

「ねえ、きみ」

 くるりと、彼女は振り返る。

 青年と目が合った。

 彼女のグレイの瞳と彼の黒い瞳がかち合った。


 それから彼女は青年にある提案を持ち掛けた。 

 青年はずいぶんと驚いた顔をしたものだ。



 シャロメット家は町から外れ、小高い丘の上に立っている。

 近隣を林で囲われたかなり広い敷地の中に、当主一家及び彼らに限りなく近い位置にいる使用人たちが住む本家屋敷があり、きれいに整えられた庭から離れた本屋敷の裏手には、その他一般の使用人たちの住む宿舎がある。

 ポーラは本屋敷に住む使用人である。

 これはシャロメット家の中でも当主であるバラム・ロト伯爵から評価も信頼も篤いからこそであり、彼女はその中でも指折りの――

「ポーラ!」

 小さな女の子の声がした。

 ぱたぱたとした絨毯の上を走る足音が聞こえて、帰宅していたポーラは振り返る。

「ただいま帰りましたよ。ルヴィ」

「おかえりなさい!」

 赤い髪の少女だった。

 齢は12かそこらのように見える。

 小さな体を器用にぴょんと跳ねらせて、ポーラの胸元に飛び込んだ。

 少し癖の残る綺麗な赤い髪が揺れる。

 彼女の名前はルヴィ・アトレイデ・シャロメット。

 この大きな屋敷の主であり、東翼の南部を治めるバラム・ロト・シャロメットとその妻アトレイデとの一人娘である。

「ねぇ、ポーラ。わたしがお願いした、お人形のことだけれど! 買ってきていただけました⁉」

「申し訳ありません、ルヴィ。少々トラブルがあって、お人形は用意できなかったのです」

 馬車暴走の騒動で結局、手放してしまったのだった。

 申し訳なさそうにポーラが言うと、ルヴィは少しだけ、しゅん、とするも。

「そ、そう! トラブルがあったのなら仕方ありませんね! 大丈夫ですよポーラ! わたしはシャロメット家の跡取りのルヴィ。このくらいで気にするような器ではありません! だからポーラもそんな顔をしないで!」

「ルヴィ……」

 ポーラはちくりと心が痛むのを感じた。

 まだ12の少女であるのに、彼女という人は親愛する乳母を悲しませないように斯様な強がりを見せるのだ。

 母親を早くに亡くしてもなお、塞ぎ込むことなく気丈に振る舞い、シャロメット家の一人娘として文武に励む彼女のことをポーラは乳母として誇りに思う。

 思うと同時にもっと年相応に我儘な振る舞いをしてもいいのではと、甘えてくれてもいいのではと思ってしまう。

 自分に対しては、そうして欲しいのだと思う。

 それはきっと、彼女がまだ赤子の頃からずっとその手に抱いてきたからこそ……。

「ルヴィ様」

 不意に、低く野太い男の声がした。

 屋敷の警備長であるタルカスの声だ。

 屈強な大男であるところの彼はその実、実に人懐っこい気さくな笑顔を向けるものだ。

「お二人談笑の所、申し訳ありません。そろそろ武術の鍛錬の時間であります」

「タルカス……もう少し待てませんか? わたし、既に護身術に関しては貴方のお墨付きを得ている身、これ以上のものはゆっくりと身に着けていっても」

 ルヴィはちょっとおねだりするみたいな上目でタルカスにお願いするが、残念ながら警備長でもあり、ルヴィの武術の先生であるタルカスにそのようなおねだりは聴かないのだ。

「いいえ、残念ですがルヴィ様。鍛錬とは一日では手を抜けばあとは加速度的に堕落していくものです。御身のことは我ら警備隊が命を懸けてお守りいたしますが、万が一ということもあります。その時あなた自身を守れるのは貴方だけなのですよ」

「しかし、タルカス。斯様に強くなって何と戦うというのです。東の地はもう何十年も争うごとの起こらぬ平和な地なのでしょう?」

「確かにそうです。ですが一大事というものはそのように油断したときに舞い起こるものです。それに、最近は東翼北部の国、『カザリ』の動きがどうにもきな臭い、なんでもが内政に干渉しだしてから混乱が続いているとか……備えは必要ですぞ」

「むむむ……仕方ありませんね」

 黙らされてしまうルヴィ。

 とはいえ、その顔に残念そうな色は見えない。

 もとより生真面目な性格のルヴィのことだ、本気で鍛錬を休む気などないのだ。

「ではポーラ。またね」

「ええ、ルヴィ。また明日」

 小さく手を振り、二人は別れる。

 ポーラは自室に戻り、眠りにつく。

「あ」

 と、その前に考えることを思い出した。



「ルトさん」

「あ、これはこれは。ポーラさんじゃあないですか。いかがしましたか? こんな辺鄙なところに」

「辺鄙ではありませんよ。使用人寮も屋敷の一つですからね。それに貴女は屋敷周りの整備を一任されている立派な最古参です。そのような言いようをするもんじゃないですよ」

「ははは……万年下級使用人の儂ですがね、お若いのに立派な方にそういわれちゃ、立つ瀬がないですよ。それで、あの若いのにようがあるので?」

「ええ、どうですか、彼?」

「あ~」

 ルトと呼ばれた老人は顎に手を置き、何事か考え込むようにして。

「……真面目な奴、だな」

 と、どこか絞り出すように言った。

「真面目ですか?」

「ああ、まじめだよ。真面目だ。儂や先達のいうことはちゃんと聞くし、熱意もある。ただまあ、どんくさい奴でな。物覚えもあんまりよくはないな」

「……そうですか。私が連れてきて頼んだ手前、それは何というか……」

 申し訳なさそうにするポーラ。

 その『彼』というのはさきほどでポーラの代わりに馬車にひかれた記憶も身寄りもない青年のことである。

 あまり器用なタイプには見えなかったが、やはりそうだったか。

 そう考えていたところで老人は言葉をつづけた。

「いやでもよ。悪くはねえんだ。ああ。なんてったって真面目な奴だし、熱意もある。なんていうかよ、あんたへの恩に答えたいんじゃねえかな? それに安心しな。ほっぽり出したりはしねえよ。あれくらいどんくさい若いの何ていくらでもいるし、きちんと鍛えてやればいっぱしになるさ。なにより、あいつ真面目だからな。儂は気に入ったよ」

「そ、そうですか!」

 ポーラは嬉しくなった。

 どうしてかわからないが、彼が褒められていると嬉しくなる。

「お、噂をすれば、いるぜあいつ。おーい!」

 ルト老人が件の青年のいるほうに声をかけた。

 昼下がりの太陽の下で何やら重たい荷物を運びながら彼は汗を流していた。

 ふと、こちらに気が付いたようで、ものを置くとこっちに歩いてきた。

 言われれば確かにどんくさい歩みである。

「なに……あ、いや、なんですか?」

「おう。ポーラさんがお前にはなしがあるってよ」

 青年はポーラに振り向くと、恭しく、けれどたどたどしく頭を下げた。

 そんな青年にポーラは言葉をかける。

「今日はね、あなたに名前を付けようと思っているの」

「名前?」

「ええ、だってないと困るでしょう? 確かまだなかったわよね。名前」

 そういやそうだったなとルト老人は頭を掻く。

 いやそこは気付いていてほしい。

「ええ。だから私、頑張って考えました。それをお伝えしようと思います!」

 ポーラは青年の目をまっすぐに見た。

 嗚呼―――本当に綺麗な瞳をしている。

 一寸、見惚れそうになるのをどうにか振り切って。

「ミオ――、あなたの名前はミオよ。どう?」

「みお……」

 ミオと名のついた青年はその単語を口の中で転がすように何度もつぶやく。

 何度も何度も。素敵な味の飴玉を大事に味わうように。

 ……なんだか、少し恥ずかしい。

 やがて、彼は口のなかで名前をやめると、心から嬉しそうな顔をした。

 表情の変わらない青年だったので思わずビックリしてしまった。

「みお。うん。いい名前だ、ありがとう。ポーラ」



 その日の晩。

 件の青年は天井に空いた穴から蒼い月を見ていた。

 耳を澄ますと、他の使用人たちの寝息が聞こえる。

 ここは住み込みの使用人の中でもあんまり地位が高くない人間の宿舎らしい。

 二階建ての木造、随分と歴史を感じる建築であった。

 開いてる部屋が天井に穴が開いているところしかなく、ポーラには随分と頭を下げられたけれど、それこそもったいない話だと思う。

 青年からしてみれば、ちゃんと横になれる場所と寝泊りできる環境を用意してくれてるだけでもありがたくて仕方がない。

 どうしてこんなに良くしてくれるのかと聞いたら。

「なんていうか、あなた似てるのよ。私の母に」

 と応えられた。

 そんな理由で? と思ったりもしたが、彼には何も言うことが出来なかった。

 それにしたって自分のたいして重たくもない傷に見合った報いではないと思う。

 まして金銭はおろか身元も名前すらもない男に対して。

 けれど、あまりにもありがたい話だから。断ることもできず居座っている自分に居心地の悪いものを感じる。

 そんなことを思いながら、ぼんやりと宙を見る。

 月は、満月に見えて、少しだけ欠けていた。



「ポーラ!」

 ルヴィの声がして振り返るとピョンピョンと可愛らしく跳ねる赤髪が見える。

「ルヴィ。勉強は終わったのね」

「ええ! 頑張ったら今日の分は思いのほか早く終わりました! とっても頑張ったんですよ!」

「偉いですよ。ルヴィ」

 少女の労をねぎらいポーラはルヴィの頭を撫でる。

 嬉しそうにルヴィは頬を緩ませた。

「もちろんです! お父様が不在でも、わたしは頑張りますから!」

「ええ、偉いですよルヴィ」

 そう言いつつ、やはりポーラの胸にはどうにもチクリと痛みが走る。

 ルヴィの父であるバラム・ロト・シャロメット伯爵はしばらく屋敷を留守にしている。

 氏の行先は(少なくとも屋敷の人間は)誰も知らない。

 もともと多忙な人ではあったし、ポーラにとっても恩義のある人ではあるけれど、一人娘であるルヴィを放り出して一人にしている点についてはやはり思うところがある。

 母であるアトレイデ夫人は既に他界してしまっているからこそ、父親の存在が必要なのに。

 ルヴィが気丈にふるまっているからこそ、そう思う。

「ポーラ? どうかしたの? なんだか元気がないですよ?」

「ううん。何でもありませんよルヴィ。……そうね、ルヴィ。この前あなたに買ってこれなかったお人形。今度はちゃんと買ってきてあげましょうね」

「本当! あ、でも、無理しないでポーラ。わたし、あんまりポーラに……」

「いいのよ。私、あなたにそれぐらいはしてあげたいの。伯爵も長らく留守にされて、寂しい思いをしているあなたに、ご褒美を上げたいの」

「ううん! 寂しく何てないよ! だって、わたし‼ ポーラがいてくれたら寂しくないの!」

 すこしだけムキになって、ルヴィはそんなことをいう。

 なんだかそれがいじましくて、嬉しい。



「付き合ってもらってありがとう。ミオ」

「いい。ポーラの頼みなら、オレにできることならオレはなんだってするよ」

「……ありがとう。荷物持ち何て頼めるの、ミオくらいだから」

「? ほかにも頼んだら引き受けてくれそうな人は屋敷に大勢いると思うが」

「うーん。そうなんだけど……警備兵たちはタルカスさんのもと忙しいし、その他あなた以外の使用人は忙しいでしょう? 荷物持ち何てさせられないし、ましてやルトさんには頼めないわ」

「? そうなのか? ルトさんは自分が行こうかといっていたけれど」

「ダメよ。あの人、ああ見えてこの屋敷では最古参なの。ずっと若い頃から、ずっとこの屋敷で仕事をしていたね。本当はもっと高い地位と待遇を受けてもいいのに、若い時に大きな失敗をしてしまったみたいでずっとあの待遇なの。それでも、みんな彼を信頼しているし尊敬しているわ。ご高齢で無理はさせられないし、ましてや荷物持ち何て任せられないの」

「そうなのか」

「ええ。でもあなたはまだ一番の新入りで重要な仕事も任されてないし、もともと私が連れてきた人だから私が勝手に付き合わせても誰も文句はないでしょう?」

「なるほど」

 納得したミオである。

 ミオが屋敷で働いてからひと月ほど時が経っていた。

 不器用でどんくさいといわれる彼ではあるけれど、性根の真面目さと何より体の強さもあって、使用人の中でも知られるようになっていた。

 警備長のタルカスなどは彼を見て、「この青年には戦いの才がある。磨けば一端の戦士になるぞ」などといっていたけれど、本当だろうか。

 まあもとより、ミオは穏やかで戦いを好む性質ではないようなので戦士の道には行かないのではあろう。本人もそう望んでいたし。

「これと、これと、あとこれもください」

 屋敷の傍の市は今日も活気に満ちている。

 石畳の道の傍らに所狭しと露店が並んでいる。

 先の馬車暴走の件からすぐに市が再開したという話で彼らのたくましさには舌を巻く。

 一通り大きな買いものを終えると、ほう、と息を吐いた。

 ポーラとミオの吐息が白く染まり、空に消えた。

 まもなく、この竜の大地全土に長い長い冬が来る。そんな予兆を感じさせる寒さだ。

 最後に一つ、大事な買い物を済ませるとポーラとミオは早くもくれ始める帰路についた。



 屋敷に帰宅して、ひとしきりの仕事と挨拶を済ませると随分遅い時間になっていた。

 ポーラは今日、市で買ってきた人形を見下ろす。

 いつかと同じ人形。

 ルヴィにプレゼントするつもりだった人形だ。

 けれどもうずいぶんと夜も更けてしまったから。

「明日にしましょうか」

 独り言ちて床に着いた。


 夢を視た。

 夢という名の、過去の記憶を視た。

 まだ幼い日の記憶だ。

 ひどい時代のおはなし。

 かつて小さな村に住んでいた幼少の頃。

 娼婦の母と、みすぼらしい娘。

 

 いつか、路傍に咲く花を、母に送ったような日のこと。


 

 暗い夜だ。

 寒い夜だ。 

 皆が寝静まるような夜だ。

 シャロメット屋敷の中を独り、小さな明かりのついたランタンの明かりを持ちながら、警備兵の青年が歩いている。

 暗い屋敷の中に彼自身の足音が一つだけ。

 さっさと見回りを終えて、寝ようと青年は考える。

 ほう、と吐息が漏れる。

 それは白く染まった。

 ああ――それにしても今夜は

「よく冷えるよな」

 驚き振り返った時、青年には声が出なかった。

 喉笛を貫かれていた。

 力なく、警備兵の青年は倒れる。

 毀れ行く意識で自身を穿った男を見上げる。

 薄暗い月光が窓辺から入る。

 黒い髪の、細いまなざしをした男だった。

 男は口元に細く卑しい月のような笑みを浮かべていた。

 その手には刺突武器を持ち――否、その腕が刺突武器なのだ。

「……、……、―――。」

 叫ばなければ、いけない。

 侵入者がいることを。

 警備兵は立ち上がろうとして。

 次の瞬間には全身をずたずたに貫かれて絶命した。

 その間際に、鈍色にうねるドロドロとした何かを警備兵は見た。



「よう、今日もおつかれさん」

 ルト老人のねぎらいに、ぺこりとミオは頭を下げた。

 その時、老人の手のひらに治りかけの傷跡を見つけた。

「それ……いつの間に?」

「ん? ああ、この傷かい? いやなに昼間に鎌でちょいとざっくりやっちまったんだよ」

 ざっくりやった、というには傷が深くないがといおうとしたらルト老人はすぐに続きの答えを語った。

「いや参ったなーって思ってたらよ、ルヴィお嬢様が来てくれてな、魔法で治してくれたんだよ。いや驚いたね、お嬢様は火の魔法を得意としているっているのは知ってたけど治癒魔法も使えたんだなぁ~」

「まほう……?」

 怪訝な顔をミオはした。

 なんだか聞きなれない。なぜかやたら耳に引っかかる言葉だったからだ。

「おう。お前、魔法って見たことねえだろう? 儂も昔ちょいと見たくらいでな。そもそも高貴な血が流れてねえとつかえねえ代物なんだって話だし、詳しいことは儂もしらんのだ。――けれどまあ嬉しい話だよな。お嬢様が儂みたいな使用人風情によぉ、ここまでしてくれるなんてなぁ。仕える甲斐があるってもんよなぁ」

 ルト老人は本当に心から嬉しそうに、そのしわくちゃの手で傷跡を撫でた。

 もう何十年も、この仕事を誠実にしてきた誠実で勤勉な人間の手だった。

 ミオは、この屋敷の主の顔を知らない。

 当然、その娘の顏も知らないのだが、ルト老人の様子を見ているとどうやら良い人らしいのは察せられる。

 なにより、その老人の嬉しそうな様子にミオも自然と心が温かくなるのを感じていた。

 不意に木枯らしが吹いた。

「うぅ、寒いな。今夜も遅い。お前もとっとと寝ろよ。また明日がんばろうな」

 ルト老人に言われ、頷く。

 踵を返し、寝室に戻ろうとするその時だった。

 カンカンと、甲高い金のような音が響いた。

「う、うお。敵襲の鐘じゃあねえか、一体何が⁉」

 ぱちぱちと爆ぜる音。

 屋敷が燃えている。

「お、おお、ルヴィお嬢様!」

「⁉ 待つんだルトさん」

 老人が飛び出そうとした、その瞬間だった。

 ばごん。と大きな音がして寮の扉が壊された。

 破壊とともに吹き飛ばされる老人をミオは何とか受け止める。

 よろけた体制を持ちなおそうとしたつかのま、扉を破壊して武装した集団が一気に寮の中になだれ込んできた。

 それは瞬く間の出来事であった。

「ミオ!」

 ルト老人が自分を突き飛ばした。

 その刹那、いやに鋭いような、鈍いような、そんな音がして。

 老人の胸元がぱっくりと斬られ、眩いほどの鮮血が舞った。



「ポーラ! ポーラ! 私だ! 警備長のタルカスだ! 開けてくれ!」

 厭な夢を視ていたところでタルカスが扉を叩いていることに気が付いて、ポーラは起き上がる。

「どうしました?」

「侵入者です。今夜の見回りを担当していたものの報告が遅く、様子を見に行ったところ殺害されていたのです」

「殺害?」

「ええ、全身を穴だらけにされた惨たらしいモノでした。物見から確認したところ、集団の武装勢力が此処に向かっていることが確認できました。今すぐにルヴィさまを連れて支度を」

 遠くで轟音が鳴り響いた。

「下級使用人寮の方向です。お早く! 私は部下の集合、支持だしを行いすぐにポーラとルヴィお嬢様に合流します! では!」

 簡潔にそれだけ告げるとタルカスは即座にその場を離れた。

 ポーラは寝間着から普段着に着替えると、室内で繋がっているルヴィの部屋を開けた。

「ルヴィ! 起きて!」

「んぅ……ポーラ……どうしましたか? こんな時間に」

「屋敷が襲撃を受けています。今すぐ逃げる支度を――」

「ポーラ?」

 ぱちぱち、と木が爆ぜる音がした。

 屋敷の周辺の林が燃えている音ではない。

 屋敷に火の手が回っているのだ。



 ミオの目の前で、ルト老人は倒れた。

 武装した勢力の一人に無残にも剣で切られて。

 武装したその一人は斬り倒した老人に見向きもせず、次のターゲット――ミオに視線を向けた。

 目元以外、完全に武装で覆われた鎖帷子の鎧。

 蛇腹にうねる剣には今しがた斬ったルト老人のモノ以外の血も滴っている。

 襲撃者は無言のまま、剣を振りかぶりミオに迫る。

 間一髪でミオはそれを躱すが、襲撃者はその行動を見越していたのだろう、滑らかな動きで剣の軌道が変わり、ミオの胴は斬り裂かれる。

 襲撃者は慣れた様子ですぐさまその場を後にしようとして、

 今しがた斬り倒した男がその直後に立ち上がったことに気づかない。


「――――――――――」


 ミオは後ろから襲撃者につかみかかり、首を絞めた。

 驚愕の声を襲撃者は上げるが、さすがにすぐに対応し、振りほどこうとする。

 だがなかなか離れない。

「なぜだ」

 ミオが聞いた。

 その声は怒りよりも悲しみのほうが強く含まれる言葉だった。

「そこの老人は、なんの罪もない善い人だった。どうして傷つけられなくちゃいけないんだ」

 襲撃者は壁にミオを叩きつけて打ち据える。

 何度も何度も高速で、本来ならば重傷を負うほどの勢いと強さで。

 そうしてなんとか振りほどき、振り返り、その青年がまだ立っていることに驚愕した。

 内臓も骨も重傷を負わせるように振りほどいたはずだった。

 硬い鎧のまま壁に叩きつけたというのに。

「教えてくれ」

 青年は再度問う。

「どうして、ルトさんがこんな目に合わなくちゃいけないんだ……」

 襲撃者は叫ぶ。

 うねる剣は青年を突き刺す。 

 だが青年は動じない。

 きっ、と襲撃者を睨みつけた。

 剣が抜けない。

 この瞬間、襲撃者は自身の生の終わりを悟った。

 別れた妻と故郷に置いた母の顏が襲撃者の脳裏によぎる瞬間。

 ミオは眼球を指で突き刺した。

 圧迫された眼球は脳に突き破り、出血を起こす。

 一瞬のこと、

 襲撃者は一瞬だけ奇声を上げるとすぐに倒れ、動かなくなった。

「……っ!」

 ミオは一瞬よぎった痛みを振りほどき、自分の胸に深々と刺さった剣を引き抜いて、ルト老人の傍に駆け寄った。

「ルトさん。いま、今助けるから、傷を、傷を塞がないと!」

 ミオはルト老人の傷口を塞ごうと手を当てる。

 だがその傷は深く、広く。とても覆いきれるものではない。

「……なぁ、みお」

「! 喋らないでくれ、傷が、開いて……」

「……儂は、妻も子もいない。もとより後も長くはなかった」

 老人は語る。

 それは自分の死を識る人間の声だった。

「ろくな、……碌な人生じゃねえかもなって思ってたんだぜ、けど、報いはあったと、そう、思ったんだけどなぁ」

 老人はミオを見ていない。

 自身の肩から胴にかけての、取り返しのつかない傷もまた見ていない。

 指先に残る、治りかけの傷跡を見ていた。

 ずっと、年若い頃からここの使用人だった。

 碌な出世が出来るような男ではなかった。

 随分と多くの人に迷惑をかけてきた。

 勤勉に働いた。人には言えないようなろくでもないこともしてきた。

 ずっと仕えてきた一族は、きっと自分の名など誰も知らないだろう。

 それでも、それでも、初めて、初めて。

 同僚でも上司でもなく。仕えてきた方々の一人に優しくされて。

 こういう方のために死ぬまで働くのなら、まあ、それもいいだろうと思ったのに。


「………………………………ままならねえな。人生ってのは」


 最期に老人は誰かの名前を口にした。

 それはあまりにもか細い声で、誰に届くこともなかった。

 ミオは、老人の傍らで彼を悼むことしかできなかった。



 あの日も、こんな感じがした。

 ポーラはいつかの日を思い出している。

 それは、彼女の母が焼け死んだときだった。

 娼館が彼女の家だった。

 母と二人、なんとも惨めな暮らしで、それが実に厭だった。

 自分よりもよっぽど頭の弱い母は、自分が不幸だなんて気づきもしない。

 どこかの男が八つ当たり的に火を放った時もずいぶんともたもたしていた。

 その時、相手していたのがバラム・ロト・シャロメットで、母親はポーラを彼に押し付けてこういったのだ。

「私の――――――」

 その後、母は炎の中から出てこなかった。


「いやあ。こんばんは、今宵は月が醜くていい夜だね」

 軽薄な男の声がした。

 燃え広がる炎の隙間から、その男は何でもないように現れたのだ。

 黒い髪の細いまなざしをした男。

 口元には細く卑しい月のような笑みを浮かべて。

 その手にはタルカスの首をぶら下げている。

「タルカス……!」

 悲痛な声を上げるルヴィをかばうようにポーラは立った。

「へぇえ、いいね。いいよ、二人ってどんな関係なの? 姉妹って感じはしないけど。母娘ってところかい?」

「……貴方が、タルカスの言っていた侵入者ですか? 見回りの警備兵を穴だらけにして殺した」

「ん? どいつのことだい? 穴だらけ、穴だらけか……あの若い彼かな? まあいいや。どうせ屋敷の中にいたやつは皆殺したし」

 実に気楽に、今朝の献立を思い出そうとして思い出せなかったみたいな感じで男は言った。

「何が目的でこんなことを……?」

「え? いや別に頼まれただけだよ。知り合いによろしくーっていわれてさ。僕も殺しはすきだし。いいよーって」

「……」

「ま、そんなわけ、でっ⁉」

 その手をポーラとルヴィに向ける前に男は横合いから突き飛ばされた。

「ミオ!」

「いこう」

 体のところどころを燃やしながら、その青年は現れた。

 ミオに促されて、ポーラはルヴィを担ぎあげて、走り出した。



「驚いたな」

 燃え盛る屋敷の中で寝転がりながら、男はぽつりとつぶやく。

 手に持ってた警備長の首は焼けてしまったのでそこら辺に捨てた。

 のっそりと起き上がる。

 屋敷は全焼寸前ではある、早く抜け出さねば。

 黒髪の細い目をした男は、変わらず三日月のような笑みを浮かべながら、炎の中を歩き出した。


 

 まもなく出口というところ。

 ポーラと、ポーラからルヴィを預かり抱えたミオが走っている。

 その時、ざくりと音がした。

「あ」と反応する間もなく。ポーラが倒れた。

 鈍色に光る、鉛のような液体が彼女の足首を蛇のように這い、切り裂いたのだ。

 鉛のような液体金属は蛇のようにうねり、先ほどの男のもとに戻る。

 男はさっきと同じような笑みを浮かべながらこちらへ歩いてくる。

「ポーラ!」

 ルヴィの悲痛な声が響いた。

 幼い少女は必死になって乳母に手を伸ばそうとする。

「行って! ミオ‼ 走って!」

 ポーラは叫んだ。

 それは咄嗟の言葉であり心からの言葉だった。

「けれど!」

「お願い、ミオ!」

「いやだ! 恩人を見殺しになんて」

「ミオ!」

 ポーラはミオを見据えた。

 あまりにもまっすぐで毅然とした眼差しだった。

 そんな風に強く気高いまなざしをミオは初めて見た。

「お願い」

 炎が燃え盛る。

 敵が迫っている。

 迷う余地はなかった。

「私の―――――私のルヴィを守って!」

「待って、待って! やだ! やだ! ポーラ!」

 青年は走り出した。

 わき目を振ることはしなかった。

 少女の悲痛な叫びが響いた。

 二人が屋敷から出るのを見て、ポーラは燃える柱に手をかけた。

 手のひらが焼けた。痛みが、走る。気が狂いそうに熱い。

 燃え尽きようとしているその柱はいとも簡単に倒壊した。

「……きみ」

 襲撃者は立ち止まる。

 目の前の女の行動に困惑していた。

 ポーラは男を見ていない。

 どこか、遠くを見ていた。

 それは燃える、かつての日々。


 足を挟まれて、あとはもう燃えていくしかない母。

 母はわたしを男に託した。

 その時のことは今でも覚えている。

 それからバラム・ロト・シャロメットのもとで必死に働いた。

 生きていくために、母も、誰もいない世界で。

 頑張って働いてのし上がって、乳母の地位になった。

 ずっと、ぴりぴりと張りつめていた。

 けれど、ルヴィを、赤ん坊だった彼女を胸に抱いたとき――、


  焼け跡から見つかった母の手は固く握られていた路傍の花を思いだした。


 まさか、自分がかつての母と同じような台詞を吐くことになるとは思わなったなと、そんなことを思う。

 あれから、長い時間様々な面でシャロメット家に仕えてきた。

 乳母として、初めてルヴィを抱いたとき、自分が何を思ったのか、もう思い出せない。

 けれど

「あ―――」

 ふと、忘れ物を思い出した。

 ポーラは持ち出してきた少ない荷物の中からそれを取り出した。

 可愛らしい人形だった。

 赤い髪をした、大好きで大切な少女に送りたかったプレゼント。

「結局、あげられなかったな……」

 そんな後悔を一つ、溢した。

 それを最後に、屋敷は完全に崩壊した。



 大きな屋敷が燃え、倒れていった。

 少女は泣き叫ぶことしかできなかった。

 青年は、ただ走ることしかできなかった。

 雪が、ただしんしんと降っていた。

 そうして、深く冷たい闇の中をふたりが駆ける。

 

 斯くて物語が始まる。

 それはやがて、破滅の冠を戴く少女の運命の旅路であり。

 それは、なんでもない、ただの男の生涯の物語でもある。


 

 


 

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