03:設定変更を反映しつつ、読み込ませる文量は同じ(ふたたび)
「使う?」
彼女はそう言って、消毒用エタノールが詰まった小さなボトルを、私の手へ押し付けるように差し出した。
缶バッジで飾られた通学用鞄の中へ、紛れ込んだ異物。業務用の大きなタンクで買い求めたエタノールを、彼女は丁寧にボトルへと注いで、霧吹きの頭部分を取り付けて持ち歩いているのだ。
「いらない」
私がそう答えると、彼女はことさら哀しげな顔を作って、私に罪悪感を背負わせようとする。何度繰り返したかも分からない、ひとときの交愛だった。
彼女は決して潔癖症などではない。むしろ、同世代の少女達と比べるに、多分に奔放の性がある。
野山に混じりて竹を取りつつ――とは行かぬまでも、野草を積み、野の花を頭に飾り、蝶を手に留める。少年のように眩く笑って、疲れを知らぬかのようにどこまでも駆けていくのが、常であった。
私はいつも、のんびりと歩いて追いかけていくばかりだ。
目を閉じて彼女を想う度、まぶたの裏に浮かび上がるのは、彼女の笑みでも横顔でもない。たくましくもなんともない、彼女の、何も背負わない後ろ姿なのだ。
私達の関係性が捻じ曲がった理由を、私は克明に記憶している。
とある春の日のことだった。髪を逆立てる強風の中を、私達は肩を並べて――肩を寄せ合って歩いていた。風圧に負けて彼女がよろめくと、私がそれを支える。私がたたらを踏むと、彼女が受け止めて押し返す。他愛なく戯れながら、午後の陽光の中を歩いていた。
不意に、彼女が立ち止まった。つられて、私も足を止めた。
「どうしたの?」
「…………」
彼女は答えない。ただ黙って、じっと前方を見つめていた。
「あそこに、何かあるの?」
私は、彼女の視線を追いかけた。
そこには、一本の木が生えていた。
木は、幹から枝まで真っ赤に染まっていた。葉っぱ一枚ついていない。
「あれはね、桜っていうのよ」
彼女が教えてくれた。
「サクラ? ああ、これが」
「この木は、ずっと前に枯れちゃったんだって」
「どうして?」
「病気になったらしいわ」
「ふぅん…………」
私は花を一輪摘んで、匂いを嗅いだ。花の香りが鼻腔を満たした。
彼女は別の一輪を摘むと、手の中でくるくる回して弄んでいた。
「ねえ、覚えてる?」
彼女が唐突に言った。
「何を?」
「昔、ここで一緒に遊ばなかった?」
「覚えてない」
「そっか…………」
彼女は寂しそうな顔をしていた。そんな表情をされると、私が悪いことをしてしまったような気分になる。
「ごめんなさい」
「いいのよ。忘れてても仕方ないもの」
彼女はそう言って、笑顔を浮かべた。
それから二人は、しばらく花畑を眺めて過ごした。
「きれい」
「うん」
「こんなところがあったなんて知らなかったわ」
「私も」
「不思議よね。だってここは、もう何年も前から誰も来なくなってるのよ?」
「へぇ」
「噂によると、あの桜はここにあるんだって」
「桜?」
「そう。満開になると、すごく綺麗なんだって」
「へえ」
「でも、今は咲いてないみたいね」
「残念だった?」
「うーん…………」
彼女は少し考えて、「まぁ、いっか」と言った。
「ちょっと来て」
彼女は私の手を引いて、どんどん先へ進んでいく。私は足取りを合わせて、彼女の後を追う。
やがて、開けた場所にたどり着いた。
「すごいでしょ!」
彼女は得意げに言うと、私に背を向けてしゃがみ込んだ。
「ほら、見て。この花、全部同じ色に見えるでしょう?」
「うん」
「でも、よく見ると違うの。一つだけ、赤色じゃないのがあるでしょ?」
「どれ?」
「これ」
「本当だ。何が違うの?」
「茎の先に、白い毛がたくさんついてるでしょ? これは、花粉を運ぶためのものなのよ。だから、花が咲く前についたものなの」
「へぇ」
「他にも、ここを見て」
彼女はそう言って、一株のアネモネを指差す。
「根っこが土から出てるでしょう? でも、他のは出てないの」
「なんでだろう?」
「ここにね、水をあげるの。そうしたら、また土の中に戻っちゃうのよ」
「へぇ」
「不思議でしょ?」
「うん」
「でも、それだけじゃないのよ。もっと不思議なことがあるの」
「どんなこと?」
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