第十二幕 見えるはずのない景色

第47話 千羽鶴


 翌日、僕は学校を終えるとすぐに青葉病院へ向かった。

 母さんに軽く挨拶してまっすぐ304号室へ行く。

 昨日と同様、凪原さんは病室で静かに本を読んでいた。


「あ、あの! こんにちは!」


 声が若干うわずりながらも声をかけると、凪原さんは僕に気づいて顔を上げた。ずれた眼鏡を直しながらつぶやく。


「あなた、昨日の……?」


「あのう、今、時間ありますか?」


 僕が尋ねると、凪原さんは目をぱちくりさせながら、


「え? ま、まぁ……時間は、あるけど……」


「良かった。実は話し相手がいなくて困ってたもので。少しの間、ここにいてもいいですか?」


 半分は嘘で、もう半分は本当だ。話し相手の母さんは今、リハビリ室で運動中だ。しかし、暇だから立ち寄ったというわけではない。凪原さんの話を聞くためにここへ来たのだ。

 凪原さんはしばし、きょとんとしていたが、おすおずとベッド脇の椅子を引っ張ってきて、座るように言ってくれた。

 僕は一言お礼を言って椅子に座った。

 シン、とした静寂。僕はなんとか話題を見つけようとして、ふと、テーブルの上の本に目が止まる。


「……そういえば、凪原さんって読書好きなんですか?」


「え? あ、うん。キミも本、好きなの?」


「えっと、僕はどっちかって言うと、苦手かも。字をずっと追っているとすごく疲れるし」


 ふふっ、と凪原さんが笑う。


「私も最初はそうだった。結構慣れるものよ」


「ふ~ん。今はどんな本を読んでいるんですか?」


「これ? これはね……」


 凪原さんはテーブルの上の本を手に取ると、小さく嘆息する。


「あの、さ。キミって、たぶん私と同い年くらいでしょ?」


 凪原さんの不意の質問に変に緊張しながらも答える。


「そう、かな。僕は中三だけど。凪原さんは高校生くらいに見えるかも」


「それ、お世辞でしょ」


「あ……バレちゃった?」


 一瞬の沈黙の後、小さなくすくす笑いが起こった。


「私、入院してるから学校は行ってないけど、院内学級では中学三年生。同い年なんだから、敬語とかナシにしない? なんか息苦しくって。私のことも凪原とか光とか呼び捨てでいいからさ」


「急にだと、なんか緊張するな。僕のことは翔でいい。友達もそう呼んでるし」


「翔、ね。自分で言っといてなんだけど、なんか照れるわね。ま、じきに慣れるでしょう」


 人間、敬語じゃないだけでくだけた雰囲気に変わるから不思議なもので、先程まで感じていた気まずさはどこかへ行ってしまったみたいだ。


「そういえばさ、翔はどうしてこの病院に?」


「……………」


 凪原の問いにすぐに答えられなかった。

 もしも凪原がりんごの生き写し的存在なら、彼女にりんごとしての記憶はあるのだろうか? りんごの記憶があるのなら、凪原が僕の名前を知っていても不思議ではない。そして、もしそうだとしたら、母さんが入院していることも知っている、はずだ。

 だが、凪原は僕が病院に来る理由を尋ねた。本当に知らなくて興味本位で聞いたのか、それとも全てを知った上での演技なのか、僕には判断がつかない。


「ごめんなさい。答えにくいことなら、別に……」


 あくまで平常を装い、僕はつぶやく。


「……いいや、大丈夫。実は、先日母さんが急に倒れて緊急搬送されてね。手術は成功して、なんとか一命は取り留めたから良かったけど」


「そう……それは大変だったね」


「まあね。凪原は?」


「私……?」


 凪原はうつむいて掛け布団の端っこを頼りなげに握りしめていた。やがて、彼女は小さな声でぽつりぽつりと話し始めた。


「小学校の頃まではね、私も普通だったんだよ。クラスのみんなと同じように遊び回っていた。そのころの私は、かけっこだって一番だったんだから。運動会ではいつも大活躍だった。反対に本や勉強が嫌いで嫌いで。図書室へ行くのも嫌だったなぁ」


 凪原の話を聞きながら、僕はこの部屋の異様さを感じ始めていた。

 ふと、彼女の枕の方に目をやったとき、それを見つけた。

 病院では寝ながらゴミを捨てられるよう、ゴミ箱は大抵手を伸ばして届く位置に置いてある。この部屋でも同様で、ベッド脇の棚の近くに丸筒型のゴミ箱があった。


 それを見て、僕は胸がぎょっとした。

 ゴミ箱から折り鶴の首がいくつも飛び出していた。

 赤やピンク、青、緑など色とりどりの折り鶴はもともと千羽鶴として纏まっていたものなのだろうが、それらは一つ一つ切り離されたのち、揉みくちゃにされてゴミ箱に捨てられていた。本来、しゃなりと折られたはずの鶴の首は、ひしゃげてしまってもはや千羽鶴としての面影はない不気味な代物と化していた。


 凪原の声音が変わった。


「……小四の時だった。ある時、足に痛みを感じて、お母さんに連れられて病院へ行ったの。そしたらなんだかよくわからない病名を宣告されてね。はっきり覚えているのは『もう歩けない』と言われたこと」


 喉に何かがつっかえた。これ以上、彼女の話を聞いてはいけない気がした。昨日、今日知り合ったばかりの僕が立ち入って良い領域ではないと感じた。


「――L.P.S。私の病名。すごく珍しい病気らしくってね、十万人に一人くらいしか発症しないんだって」


 重い言葉だった。凪原の体が小さく震えていた。


「じゃあ、入院はそれからずっと……なの?」


 僕の言葉に凪原が首肯する。

 僕なんかのお粗末な想像力ではとても、彼女の苦悩を全て理解することなんてできない。ある日突然、もう足が動かないなんて言われたら、自分ならどうなるだろう。


「私の足は、もう動かない。ずっと車椅子のまま。もう、かけっこはできない。そう思ったら、色々なことがどうでもよくなって。一時期、自暴自棄になっていた時もあったわ。病室は暇で仕方無いし、いつの間にか本を読んでいた。他にすることがなかったから」


 ふぅ、と息をついてから、また凪原が話を続ける。


「本は良かった。あんなに毛嫌いしていたのが嘘みたい。本の中でなら、私は走り回れるし、ほうきに乗って空だって飛べる。本を読んでいる間だけ、この足から解放されて自由になれる。だから私は読書が好きなの」


 凪原はテーブルの上の本を手に取ると、小さく笑って、本の表紙を優しく撫でた。その時の彼女の姿が、表情が、仕草が、彼女がまとう空気の全てが、なぜだろう……無性に僕の胸を締め付けた。


 しばしの間、二人は沈黙していた。

 凪原は本の表紙をこともなげに眺めていたし、僕はといえば、彼女にかける言葉を探して、天井の線をぼんやり見つめていた。


「あの、さ」


 ぽつり、と言葉が僕の口から漏れ出た。


「辛い話をさせちゃってごめん」


 すると凪原は目元をそっと拭きながら、へへ、と笑う。


「……キミが謝ることないよ。私の方こそ、重い話きかせちゃってごめん」


 少しの沈黙をおいて、僕はつぶやいた。


「いいよべつに。それよりさ。その……一つ提案があるんだけど」


「提案?」


 凪原は顔を上げて僕をじっと見た。


 よく見ると、確かにりんごに似た容貌だ。髪型は三つ編みじゃなく下ろした後髪だし、分厚い眼鏡だってかけている。頬には小さなそばかすがある。けれど、雪のように綺麗な白い肌や、おでこの広さ、透明感のある声色、そして何と言っても、すぐに赤くなる頬。そうした一つ一つの特徴が、凪原はまさしくりんごであると告げているように僕には思えた。


 りんごに頼まれたからというのもある。でも、それだけじゃない。かつて、僕の背後霊だったりんごとそっくりな少女。彼女の苦悩を知った上で放っておくなんて、もはや僕にはできなかった。いつの間にやら、誰かさんのおせっかいが伝染したのかもしれない。


「凪原の話は聞かせてもらった。そこで提案なんだけど、僕にも何かできることはない?」


「は? どういうこと?」


「話を聞いたからには、凪原をこのまま放っておけないよ。話友達としての提案。なんでも良いよ。僕にできること、ない?」


 偽りのない本心だった。なんでもいい。彼女に少しでも、笑っていて欲しかった。

 凪原はしばし僕の顔をじっと見つめていたが、やがて、ぷっくく……と腹を抱えて吹き出した。思わず呆気にとられて、ぽかんとする。

 ひとしきり笑ってから、凪原は息つきながら言う。


「ごめんごめん。そんな台詞、ドラマの中だけだと思ってたから」


 凪原は短くすーはーと息を整えてからつぶやいた。


「なにもないよ。翔にできることは、な~んにもない」


「な、なんだよそれ!?」


「だってそうでしょ。キミが何をしようと、私の足はもう治らない。仕方のないことなのよ。気持ちは嬉しいよ。ありがとう。でも、もういいの。もう、終わったことなんだから。……だからさ、もう人の心を穿り回すのはやめてくれる?」


「ぼ、僕はそんなつもりじゃ――!」


「ありがとう――なんて言うとでも思った? 提案って言うから何かと思ったけど、 赤の他人のキミに同情されるなんて迷惑なだけよ。他人の事情に首突っ込まないでくれる?」


 声を荒げた凪原に気圧されて僕は黙り込む。


「……畳一つぶんくらいかしら」


 小さくぽつりとつぶやく。だが、不思議と周りの音は聞こえなくて、凪原の言葉だけがはっきりと耳に伝わってくる。


「――私はベッドの上で一生を終える。前からそう決めてたの。だからもう……帰って」


「いや……でも!」


 彼女がそれでよくとも、それじゃあ僕の気持ちはどうすればいいのか。やり場のない気持ちを僕はどこに向ければいい?


「帰って!」


 凪原は取り付く島もないといった様子で、これ以上何を言っても無駄だと思った僕は、黙って病室を出た。


 去り際に凪原を見た。

 彼女は窓の向こうを見つめて、細い肩を小刻みに揺らしていた。

 声もなく凪原は泣いていた。

 彼女の後ろ姿が、ふいに白い着物のりんごと重なって、言いようのない切なさがこみ上げてきて、気づけば僕も目の縁が濡れていた。




 凪原の病室を出た後、僕の足は売店へ向かった。

 母さんのリハビリはまだかかるだろうし、今は少し散歩でもして気分を変えたかった。エレベータの下りボタンを押して待っていると、むき出しの棘のような凪原の言葉が思い出されて胸を締め付ける。僕は間違っていたんだろうか。彼女のためを思って提案したつもりだったが……変なおせっかいなんて焼くんじゃなかった。彼女の気持ちを勝手に理解したつもりでいて、自分はなんて傲慢なんだろうと思った。だけど、去り際に見た凪原は泣いていた。彼女が泣くほどのことを僕はしてしまったんだろうか。自分の勝手で人の気持ちに土足で踏み込んで……自分の浅はかさをまざまざと見せつけられたようだ。

 気持ちがずん、と沈み込んでいく中、不意に肩を掴まれた。


「よう、少年」


「千石先生――!?」

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