第24話 僕
――それは去年の冬休みの出来事だった。
僕はその日まで何も知らずに過ごしていたんだ。
その日、母さんの使いで青葉病院へ行った帰り、町で献血をやっているのを見かけたんだ。よくあるでしょ、白い車体に赤い十字が入ったバス。あれが町で献血に協力してくれる人がいないかと呼びかけをやっていたんだ。
いつもなら素通りするはずの赤十字マークに、その時、僕は不思議と気を引かれた。
たまには献血でもしてみようかな。そんな気まぐれで献血をすることにしたんだ。
――もしもこの時、普段通りにまっすぐ家に帰っていれば、今頃、僕はこんなことで悩まなかったのかもしれない。
献血をするのは初めてだったから、担当の看護師さんが一から説明してくれた。その日はB型とAB型の血液型が他の型に比べて不足していたらしく、僕はB型だったのでとても感謝された。
まず受付で献血の目的や副作用などについての同意書を書き、健康状態などについての簡単な質問を受ける。その後、問診や血圧測定、ヘモグロビン濃度測定や血液型事前判定など、複数の測定を経て献血作業に移るらしい。
献血なんて注射で採血してそれで終わりだと思っていたけど、下準備というか色々と手続きがあるんだと初めて知った。
面倒そうだと思ったけど、献血をした人にカップラーメンをプレゼントしてくれるとの事だったので、僕は結局同意書を書くことにしたのだ。
手続きは順調に進んだ。
同意書を書き、問診や各種の測定なども特に問題なく進んだ。
事前の血液検査では担当の看護師さんの腕が確かだったようで採血は一発で成功した。
検査の結果を待つ間、僕は何味のカップラーメンをもらおうかと悩んでいた。
醤油味が無難か……。いや、塩もあっさりしておいしいし……そう考えると味噌も捨てがたい。いやいやここは敢えて、キワモノ狙いのチリトマト味ってのもいいかもな。
「あれ……?」
看護師さんのつぶやき。
「音羽くん、あなた本当にB型?」
「え? そうですけど……」
「おかしいわね……検査したらね、O型の判定結果が出たのよ」
なぜか無性に胸がざわつくのを感じた。
「でも、あまり気にしないで。よくあることだから」
「よくある……んですか?」
「そう。赤ん坊の頃に血液型を測ると、後で違う結果が出たりすることがあるの」
「そう、なんですか……」
その後は特に問題もなく、献血作業はスムーズに進んだ。
献血車を出ると、カップ麺を持ってきてくれた看護師さんにお礼を言われた。
どこかぼーっとした顔で袋を受け取ると、僕はそのまま献血バスを後にした。
家への帰り道、妙なもやもやが頭に張り付いて離れなかった。
僕は、O型だった。その事実がこれまでの人生をB型として生きてきた僕にはあまりに衝撃的だった。
けど、それ以上に僕の頭によぎったのは、とある日の理科の授業の風景。
ちょうど生物の遺伝の分野をやっていた時で、先生が雑談交じりに推理小説のトリックにも登場する、ヒトのABO式血液型について話をしていた。
僕は窓の外ばかり見ていたものだから、あまり授業の内容は頭に残っていない。
けれど、先生の言ったあるフレーズがどうしてだろう、この時不意に思い出される。O型の遺伝子は劣勢だかなんとかで、AやBの遺伝子よりも弱いらしい。要するに……
――AB型の親から、O型の子は生まれない。
心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。
先生が言っていたことを、聞き違えただけかもしれない。授業中ぼんやりしていたんだからそれは十分にあり得るはずだ。
けれど……もし、聞き違いじゃなかったら?
……確かめてみればいい。血液型の話なんてネットで検索すればすぐに出てくるはずだ。
足が自然と小走りになり、いつしか全力疾走に変わっていた。
汗だくの僕を玄関で迎えてくれたのは母だった。
「翔? どうしたのそんなに慌てて?」
母さんに頼まれていた薬をさっさと渡し、
「父さんは?」
「まだ帰ってないけど……どうしたの?」
「ちょっと……友だちから調べもん頼まれてさ! パソコン借りるから!」
背負ったリュックを手荒に部屋に放り投げ、父さんの書斎へと駆ける。
「あ、翔! ……もう、どうしたのかしらあの子?」
部屋に入るなりパソコンの電源ボタンに指を伸ばす。
デスクトップ画面が表示されるまでの待機時間がこれ程もどかしいと感じたことは初めてだった。カーソルをインターネットのアイコンへ持っていく。
検索ワードは「血液型 遺伝」。数秒後、検索結果が羅列される。
一番上のサイトにマウスのカーソルを合わせる。
マウスを動かす手が震えている。
気がつけば、額は汗でびっしょりになっていた。
――この先に進んでいいのか? ここで止めておくべきじゃないのか。
一瞬、心の中で自制の声がかかる。しかし……何を恐れる必要があるというのだ?
僕はただ事実を確認するだけ。今夜の夕飯で話のタネになるかもしれない。ねぇ、母さん、僕……実はO型だったらしいよ。けどね、看護師さんが言うには間違いはよくあることなんだってさ。ほんと……びっくりするから検査はしっかりやってもらいたいよね――って。
すぅーはぁー、と大きく深呼吸をする。
指の震えが止まらない。
マウスをクリックした。
ほんの一瞬の読み込み時間。きっとそれは一秒にも満たない時間だっただろうけど、この時の僕には一時間でも、二時間でも、それよりもっと長い時間のように感じられた。
瞬きする時間も惜しく、目を皿のようにしてパソコンの画面を見つめ画面をスクロールさせていく。そして、とうとう見つけた。
血液型の組み合わせまとめ。
A型×A型、A型×B型……B型×AB型。
A型(22%)B型(50%)AB型(28%)
――O型(0%)
頭の中が真っ白になった。
人はこんなふうに心を虚無に出来るんだと知った。
人生で初めて経験した放心状態。
瞬きもせず、ぼーっとディスプレイを見やる。
0。
目をこすってもう一度画面を見る。
0。
数字は決して変わらない。どこまでも冷徹に、現実に起こっているありのままの事実を表している。
0。何度見ても同じ数字。
ふと、手汗が引いているのに気がついた。額の汗もいつの間にかに引いている。
クリックする直前に僕の身体を包んでいた熱気は消えていた。
僕の頭は自分でも驚くほどに冷めていた。真っ白とはつまり、何も考えていない、ということ。現実を認識することを、本能が避けたのだ。それはこれまでの人生をひっくり返すには十分なくらい、危険な真実だったから。
僕の脳は思考を停止していた。
――母さんの血液型はAB型だった。
以前、使いで薬を貰いに行く時、医者が母さんのカルテを書いているのを見たことがある。カルテには確かにAB型と記載されていた。その時出した保険証にもそう記載されていた。それに……僕は母さんから母子手帳を一度も見せてもらったことがない。考えれば考えるほど、これが間違いなんかではない、ホントのことに思えてくる。
ふと、幼い頃の記憶が走馬灯のごとく蘇る。
これが、フラッシュバックというやつなのだろう。
幼稚園のころ、雨が降りしきる中、傘を持って迎えに来てくれた母さん。誕生日に欲しかったラジコンを行列に並んでまで買ってきてくれた父さん。初めて自転車に乗った時、背中を押してくれた父さん。空になった僕の弁当箱を見て、優しげに笑った母さん。デパートで迷子になった僕を、涙をうっすら浮かべながら必死に探してくれた母さん。父の日のプレゼントに贈った手作りの肩たたき券を、号泣しながら受け取った父さん。運動会で一位をとれず落ち込んでいた時、優しく頭を撫でてくれた母さん。四年生の時のポスターコンテストで入賞した時は、まるで自分のことのように喜んでくれた。その時もらった賞状は今も居間に額縁に入れて飾ってある。小学校の卒業式では二人共、ハンカチ持って泣いてたっけな。
これまでの十四年の人生で、二人は紛れも無く僕の「親」だった。
僕はそれを疑いもしなかったし、二人が僕の親であることを当たり前のように享受して生きてきた。
だがそれは幻想だった。当たり前だと思っていた現実は、積み木の城が崩れ落ちるようにして一瞬で
胸に灯った
知ってしまった事実。僕はO型だった。そして父さんはB型、母さんはAB型。
二人の血液型の組み合わせでは、決してO型は生まれない。
「僕」という現象は起こりえない。
ならば……「僕」は一体何だ?
養子として引き取られた? 何故? 本当の両親は?
音羽翔――。この名前だってひょっとしたら本当の名前じゃないかもしれない。僕には音羽の別に、本当の名乗るべき苗字があって、そこには僕の知らない本当の両親がいて……。
今考えてもそれは、わからない。
ただひとつ確かなこと。それは――
――僕は二人の子どもではないということ。
こういう時ドラマやなんかだと、真実を目の当たりにした登場人物は
そんなことはなかった。むしろ、涙は一欠片も出てこない。心はどこまでも無感情で、波紋一つ無い湖面のように静寂に満ちていた。ただただ無心にパソコンの画面を見つめていた。
それからどのくらい時間が経っただろう。
トントンと戸を叩く音で、僕ははっと我に返る。
「翔、ご飯よー」
母さんの声だ。
……と同時に、この人はもう僕の母さんではないのだという考えが頭をよぎる。けどそんなに早くスイッチを切り替えられるわけがない。僕の頭は、ドアの向こうから聞こえた声を未だ「母さん」の声と認識していた。
しかし、行動は冷静だった。
マウスを握る右手は慌てずにウィンドウを閉じ、シャットダウンを選択する。
母さんが戸を開けて入ってくる。
「あら? 調べもの終わったの?」
母さんの顔をじっと見る。いつもと変わらない顔だ。
けれど、どうしてだろう。何かが微妙に違う。まるで人の顔に精密に似せた仮面をかぶっているような、偽りの表情のように思えた。
「うん。終わ……ったところです」
「……そう? じゃ、冷めちゃうから早くね」
それだけ言うと母さんは戸を閉めて、居間の方に戻っていった。
母さんがぎこちなく動くアンドロイドみたいに思えた。表情がひどく機械じみて映った。もちろんそれは僕の目の錯覚だったのかもしれない。
だけどこの瞬間から僕は両親への接し方が変わった。二人は僕の本当の両親ではない……偽りの存在なのだから。
食卓についても、食欲なんて無い。それより気になることで頭がいっぱいで、空腹を気にする余裕はなかった。母さんが心配そうになにやらつぶやいていたが、全く耳に入ってこなかった。
部屋に戻ると、乱暴に投げたはずのリュックがきちんと机の横に立てかけてあった。母さんがそうしてくれたのだろう。
開いたリュックの口から、献血会場でもらったカップラーメンの袋が
こんなもののせいで……僕は……。
僕はカップラーメンの袋を手に取ると、無造作にゴミ箱に投げ捨てた。
見慣れたはずの部屋の風景。それが今日はひどく
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