第三幕 青葉中学校美術部

第9話 悪霊


 ぎらぎらと太陽が照りつける。もう九月だというのに、日の強さは衰えを見せない。残暑といってもいささかやり過ぎだ。太陽にもうちょっと加減ってものを覚えてもらいたいものだ。


 そんなくそ暑い中、僕は四時間目の英語の授業を受けていた。

 英語科教員の矢口は教室を支配する熱気に負けずにチョークを動かしていたが、追おうとする者は誰もいない。

 現在完了進行形? そんなものはどうでもいい。時計の針よ、早く進行してくれ。

 まわりの皆も机に腹を押しつけ、時計の針をじっと見守っている。

 動け! 動け! 頼むからもっと早く動いてくれっ!

 しかし無情にも時計の針は一定のリズムで動き続けている。遅くもならないし、ましてや速くもならない。

 教室のだらけきった空気を作り出しているのは、夏の残した暑さだけではない。空腹という生物本来の欲望が皆の志気を下げていた。


 ぎゅるぎゅるりりぃぃ。


 また、鳴った。だが、これは僕の腹ではない。おそらくクラスの誰のものでもない。

 この空腹音の主は……僕の後ろにいる。


(りんご……いい加減にお腹がうるさいんだけど)


 隣のクラスメイトに聞こえないようにそっと耳打ちすると、空腹音の主が後ろからひょっこりと顔を出す。このくそ暑い教室にいながら、そいつは汗一つかいていなかった。


『だって仕方ないじゃないですか~。もうお昼ですしお腹だって空きますよ』


 そう。僕が授業に集中できない原因の多くはおそらく、いや絶対、こいつのせいに違いない。


 事件は今日の朝のこと。

 いつものようにリュックを背負って家を出た僕は肩から腰にかけて妙な違和感があることに気づく。肩にあんパンが五個のっているような感じがする。

 振り返ると三つ編みの女の子が、ニタリと笑っていた。


「りんご……重いんだけど」


『ふふ。背後霊ですからね。しょうがないですよ』


「くぬぅ~は・な・れ・ろ~っ!」


 腕をぶんぶん振り回す。その場でジャンプする。挙げ句の果てに反復横飛びも試してみたが、どれも徒労に終わった。

 りんごは僕の背中から離れず、ぴったりくっついたままだった。後に残ったのは額に浮かんだ大量の汗粒だけである。これ以上りんごを振り払おうとしても、不審者に間違われるリスクの方が高そうだったからやめた。

 ぜえぜえと息を吐く僕と対照的に、りんごはあっけらかんと軽い表情で笑っている。


『あはは、かけるくんったらおかしい』


「……君、どうしても学校についてくるつもり?」


『えっへへ。実はわたしも翔くんが通っている学校ってものに興味がありまして』


「……頼むから家で大人しくしててくれない? 一生のお願いだ。帰りにけっこうおいしいってうわさのコロッケ買ってくるから』


『しょうがないですよわたし、翔くんの背後霊ですもの。あっ、知ってます? 背後霊って、またの名を守護霊とも言うんですよ~。つまり、わたしは翔くんをあらゆる危険から守っているというわけです! あ、コロッケは買ってくださいね』


悪霊あくりょうの間違いでしょ」


 どんなに激しく動いてもりんごはぴったりくっついてくる。幽霊というよりかは寄生虫きせいちゅうの方が近いんじゃないかと思う。


『わたし、悪霊じゃないのに……しくしく……』


 線の細い華奢きゃしゃな体を震わせ、りんごは両手で顔を覆って泣き始める。しかしこれは、嘘泣きだ。彼女とは昨日出会ったばかりだが、たった一日でりんごがどんなやつなのかが少しわかった気がする。年は僕と同じくらいなのかもしれないが、考え方が良くも悪くも子どもっぽいところがある。悪戯いたずらが大好きで、その茶目っけはとどまるところを知らない。しかも、華奢な見た目に反してびっくりするほど大食らいなのだ。昨日も結局、夜中に僕を起こしては夜食を要求してきた始末だ。当然断ったが。


「だいたい今朝けさのやつ、もうしないでよ」



 ――朝起きたとき、体が動かなかった。


 確かに目は覚めていて、部屋の光景がはっきりそれとわかる。しかし起きあがろうとしても足や腰に力が入らない。形容し難いものが全身にぐるぐると巻き付いていて、血の巡りが逆流しそうだった。

 時計の針のチクタク動く音だけが聞こえてくる。あせりがどんどん加速して冷や汗がつー、と垂れ落ちる。

 その時枕元からひょいっと顔がのぞく。


『おはようございます翔くん』


 りんご……! 

 返事をしたくとも口に力が入らない。僕はこのまま死ぬのだろうか? こんなわけもわからぬ死に方なんて……。


 返事のない僕を見ているうち、りんごは突然はっとして、


『あ、縛っちゃってたか~』


 りんごは動かない僕のおでこにぴとりと指先を触れ、片目を閉じてウインクした。

 その瞬間全身をまとっていた不気味な感じはきれいさっぱり消えていた。

 手をぐっぱと握り、力が入ることを確かめる。りんごはごまかすように後髪をいじりながら短く舌を出しながらつぶやいた。


『てへへ……金縛かなしばりをかけてたの忘れてて』


「てへへじゃない!」


『いやぁ、目覚ましにいいかなっと思いまして』


「こんな目覚めは最悪だよっ!」



 りんごには二度と金縛りをしないようきつく言っておいたが……不安だ。彼女ならただの興味本位でその手の呪いじみたものを仕掛けかねない。ていうか、幽霊って金縛りとか本当に出来るんだね……。そういうのは作り物だと思ってたから、実際に自分が体験することになるなんて夢にも思わなかった。

 全身が硬くなって動かないあの感じ。思い出すだけで背筋がぶるりと震えた。

 そんなふざけた起こし方をされて今に至るというわけである。


 りんごは一見、幽霊のコスプレをしたふつーの少女のように見えなくもない。しかしその実、彼女は正真正銘しょうしんしょうめいの幽霊なのだ。少なくとも僕はそう思うほかなかった。それ以外に彼女が起こした不思議の数々を説明できるすべがなかったのだ。

 昨日病院で出会った瞬間から、僕とりんごは切っても切れない関係になった。背後霊となったりんごは、僕から離れることが出来ない、らしい。だからしぶしぶ、こうやって学校に連れて行くことになったのだが……。



「ねぇりんご。ちょっとでも離れられない?」


『ほ?』


「だって……近すぎない? 僕、君をずっとおんぶしてるから、息が耳に当たってくすぐったいんだけど」


『またまた~。実は結構嬉しいんでしょう? わたしとぴったり密着して、今もスケベな妄想が脳内を駆けめぐり……』


「誰がするか、んなこと! もういいよバカ!」 


 言葉の表面だけ聞くと、男子中学生にとってはこの上なくうらやましいシチュエーションかもしれない。りんごは黙っていれば悪くない容姿だし。というか美人だ。テレビに出てるアイドルと比べても遜色そんしょくない。幽霊のくせに見た目はそれほど普通の人と変わらないし。


 だが忘れてはいけない。りんごといると発生する弊害へいがいのことを。


 ひどい肩こりがずっと続いている。噂には聞いていたが、肩こりがこんなに嫌なものだとは思わなかった。あんパン五個分の重みが常時肩にのしかかっている。侮ることなかれ。常に肩が重苦しいというのは想像以上に辛いものだ。自然、体調もすぐれないし、いつもどこかが不調だ。今日はなんとなく食欲がなくて気だるい。若干の吐き気もする。ぶっちゃけ学校に行かないで家で休んでいたほうが良いくらいだ。


 これらの弊害をさしおいて彼女に憑依ひょういされたいという人はおそらく、彼女の大・大・大ファンに違いない。変態とも言う。僕はりんごファンではないし、まして変態でもなかった。

 傍若無人ぼうじゃくぶじんなふるまいのりんごに対し、僕は学校生活を平穏無事なものにするために彼女にいくつかのルールを課した。



 一、不用意に話しかけないこと。


 二、他人に迷惑をかけるような悪戯はしないこと。


 三、給食を勝手に食べないこと。



 ま、よーするに大人しくしててくれってことだ。しかし……。

 ホームルームの時点で、りんごにルールを守るなんて精神は微塵みじんもないことがわかる。

 肩こりに疲れて、机に突っ伏して休んでいたのがいけなかった。油断は命取りということを僕は身をもって知ることになる。


 チャイムが鳴って、出席簿をもって先生が教室へ入ってくる。

 扉を開けた瞬間、先生の頭の上に黒板消しがぽふりと落ちた。


 誰のせい? 

 犯人は決まってる。

 そいつは僕の机の横で笑いをこらえるのに必死だった。


 一時間目の数学では黒板にいつの間にか答えが書いてあったり、二時間目の体育のサッカーでは一人でにゴールが決まったりした。

 そのたびにクラスメイト達は大騒ぎだった。僕は騒ぎの元凶を見つめ、ため息をこぼすしかなかった。


 そして、四時間目の今に至るというわけだ。


 矢口が赤のチョークを手に取った瞬間、

 きーんこーんかーんこーん――

 チャイムの音が鳴り皆が顔を上げる。

 僕たちは夏の暑さと矢口のくそつまんない授業に勝ったのだ。


 給食当番が急ぎ給食を取りに行く。

 皆、空腹の限界だったのだろう、机を動かし、いそいそとお昼の支度したくを始める。


『おほーやっとお昼ですねー。わたし、もうおなかぺっこぺっこですよぅ』


「……あれだけ騒ぎを起こしといてよくそんな暢気なこと言えるね」


「ん? 音羽おとわ、何か言った?」


「え!? いいや、何も」


 危ない危ない。りんごの姿は僕以外には見えないのだから、不審に思われるのも当たり前。もっと気をつけないと。


 やがて当番の人たちがえっさほいさと給食を運んでくる。


『あれは……カレーですね!』


 すごい……。なんで献立こんだてを知らないのにふたを開けてない容器の中身がわかるのだろう。

 りんごが言い当てたとおり、今日の給食はごはんとカレー、牛乳、フルーツポンチ。大好きな献立の一つだった。


 しかし、今日に限ってちょっとした問題があった。このメニューでは、班の皆の目を盗んでりんごに給食を渡すことが難しい。パンならちぎって机の下に隠しておくとか出来るけど、米飯ではそうもいかない。


 りんごは今にもカレーにがっつく勢いだった。食欲に支配されたりんごの口からは、よだれが滝のように流れ落ちている。


 ……ばっちぃなぁ。でもどっかで洗うわけにも行かないし、はぁ。


 りんごのよだれは我慢することにしても、彼女の方がこの昼を乗り切れるとは思えない。りんごがこのまま僕の給食を指をくわえたまま黙って見ている。否。そんなことは空からやりが降ってきてもあり得ないだろう。

 残念だが……りんごには我慢してもらうしかない。そのかわり、今日の帰り道でたくさん食べさせてあげよう。


 ……ん? なんか皿に乗ってたフルーツポンチが減ったような……。


 ちらと横を見ると、りんごが満足気にフルーツ一摘つまみをしゃぶっていた。

 こいつ……つまみ食いかっ!

 そんな暴挙に出るとは……! まずい、このままでは僕の給食が……!

 急ぎスプーンを手に取りカレーを口に運ぶ。味わっている暇はない。りんごは僕のはしを使って器用にカレーを口に運んでいた。


 りんごが箸を持っていたら、まるで空中に箸がひとりでに浮いているような光景を想像するかもしれないが、そうではない。彼女が手にしたり触れた物体は、その間だけ周囲の人間の意識から消えるのだ。


 つまり、りんごの爆食いはすべて僕の所業に見えるわけで。もともとそんな早食いでもないから不信感が発生するわけで。それを埋め合わせるために僕も彼女の食事スピードに合わせる必要があるということだ。


 皿の上のおかずはみるみるうちに減っていく。

 負けじと僕もスプーンを口に運び続ける。班の皆は唖然あぜんとして僕を見ていたが、気にしている余裕はなかった。

 ものの数分とたたないうちにお盆の上の給食は空になった。


『翔くん、次! おかわりですよぅ!』


 りんごは腕を振り回しながら力いっぱい叫んでいた。僕は手を合わせ「ごちそうさま」の一言で彼女の力説に答えた。

 りんごはぐぬぬ……と納得出来ない様子だったが、しばらくしてあきらめがついたのか、がっくりと肩を項垂うなだれて後ろの床にぺたりと座り込んだ。


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