第32話 初めてのことしようよ、新妻くん
二、三〇代の男性ばかりがカウンター席に並んで座っている中に現れた夢月さんは、掃き溜めに鶴なんて言葉では言い表せないくらいに目立っていた。
ただでさえ目立つ銀髪長身の美少女。今日はデートということもあって、メイクもしっかり服だってシンプルだけど整っている。それがキラキラした目で店内を見回しているんだから誰だって気になる。
自動ドアが開いた瞬間からお客さんはもちろんのこと店員さんまで夢月さんに見惚れていて、僕なんて存在が気付かれているかも怪しい。
「これが牛丼屋さんなのね」
「間違ってないと思いますよ」
だからキョロキョロするのはやめてほしい。そういえば読んだマンガで世間知らずのお嬢様を初めて牛丼屋に連れていったシーンがあった気がする。ちょうどこんな感じだった。
「とりあえず落ち着いて座りましょう」
「初めての牛丼。私も晶くんに初めてをあげちゃった」
隣に座っていた男性客が咳き込む。またそういうことを言っちゃうんだから、と思ったけど、僕が気付いていないだけで夢月さんって最初からこうだったんだっけ。それでも以前はもう少し恥じらいがあったような。
もしかして僕と付き合っていることでちょっと自制心が緩んでいるんじゃないかな。
「晶くん、どうしよう!?」
「何があったんですか?」
「噂に聞く『つゆだく』ってどうすればいいの?」
「……今日は初めてですから普通にしておきましょう」
もう何事かと思ってしまった。やっぱり今日の夢月さんはどこかぽやぽやしていて生徒会長の威厳とか信頼感とかがどこかに消えてしまっている。こういうのを幸せボケって言うんだろうか。自分で言うと恥ずかしいけど。
周囲の無言の圧に押されて、あまり話もできないまま先に食べ終わってしまった。なるほど、中山さんがオススメしない理由の一つがまた分かった気がする。こういうところは一人で来るものだということだ。
「牛丼っておいしいのね。簡単に作れるのかな?」
そんな僕の心配にもかかわらず、夢月さんはゆっくりと初めての牛丼を楽しんでいる。嫌がってるわけじゃないしいいのかな。
お店を出て、最初に周囲を探す。中山さんらしい人影は見えない。今度はうまく隠れただけかな。特に振り切るようなことはしていないし、飽きて帰ってくれればいいのに。
「次はどこに行きましょうか?」
ここから先はノープランだ。新宿なんて初めて行くから、興味の出る場所なんていくらでもあるだろうと思っている。それにあの天稜高校の中ではデートに向いている場所を探すことが難しかったっていうのもある。
「私、いいことを思いついたの」
「なんですか?」
ちょっと身構える。今日の夢月さんは危ない。
「初めてだと思うこと、全部しましょう」
そのワードが気に入ったのかな。身構えていたよりはまともな意見で助かった。自慢にはならないけど、どこに行っても僕にとっては初めてのことだ。行ったことがある場所だったとしても夢月さんと一緒ならそれはきっと初めての経験になるだろう。
一時間だけのカラオケ、大きな通りを避けて見つけた小さな雑貨店、コーヒーショップで今日のオススメケーキを交換しながら食べるのだって、初めての経験だ。
時間は飛ぶように消えるように過ぎていく。辺りが薄暗くなってくる。寮の門限なら今からでもギリギリ間に合わないくらい。それでもまだ月曜日までは生徒会役員の僕たちは帰らなくてもいい。
「ねぇ、晶くん。私、お城みたいなところ、行きたいなぁ」
ふいに、夢月さんが僕の腕に絡みついてくる。心地よい重さが腕にかかる。夢月さんが言っている意味が今ならはっきりわかってしまう。
以前の僕だったら、今から遊園地に行くのは無理ですよ、なんて言って話題をスルーしていただろう。成長するってことは知らないことを盾にして困ったことから逃げられなくなることでもあるのだ。
「えっと、今日は」
「だって私、そういうところ行ったことないもの。初めて」
そう言って夢月さんは赤らんだ頬を僕に近づける。行きたいか行きたくないかと聞かれたら僕だって行きたい。
でも、それで本当にいいんだろうか。今の感情に流されてしまうのが本当に僕たちにとっていいことなんだろうか。
そう考えている間にも、足は少しずつ昼間に見かけたホテル街へと進んでいく。夢月さんの力がいつもより強い気がする。違う。僕が迷っているからだ。
天稜高校には少しずつ脱落者が増えていく。そう夢月さんが言っていた話を思い出す。僕たち生徒会はその生徒たちにも学校生活を楽しめるために活動してきたはずだ。
まだ戦い続けている生徒と脱落した生徒。その二組に別れてしまった生徒をまた一つにするために活動してきたはずだ。
僕は、そんな夢月さんだから、好きになったんだと思う。これは僕の押しつけで、もしかしたら夢月さんはそんなこと望んでいないかもしれない。もう生徒会長じゃなくなるから関係ないと言うかもしれない。でも、僕は。
「やっぱり、今日は行けません」
「どうして?」
「今日は初めてのデートだから。僕が好きになった生徒会長の姫路夢月さんといたいんです」
言ってから、少し自分が嫌になった。夢月さんがこうして誘ってくれるのは僕のことが好きだからで、それを僕は自分勝手な理由で突き返したのだから。
夢月さんは少し驚いたような顔で、僕に絡めていた腕を離して、ぺたぺたと自分の顔を両手で触っている。何を確かめているんだろうか。いったい何と言われるのか、僕は謎の儀式を見守ることしかできない。
「私の顔、にやけてる?」
「たぶん、ずっと。僕もですけど」
「そっか。私、ちょっと舞い上がっちゃってたかも」
恥ずかしそうに笑いをこぼしながら、夢月さんは頬をかいた。
気持ちはわかる。僕だって今日一日中、顔が緩んでいたに違いない。そのくらい今までに経験したことのないほどに幸せが詰まった時間だった。
でも、それは明日で消えてなくなってしまう。次にこんな風にデートできるのはいつになるかわからない。だからこそ短絡的な愛の確かめ方はしたくなかった。これから先も夢月さんが好きだと心から言えるように。
「あの、夢月さん。ずっと言わなきゃって思ってたことがあるんです」
「なになに? もしかして髪に牛丼ついてるとか?」
慌てた様子で頭を触っているのを見ていると、なんだかおかしい。僕はこんなに緊張しているのに。夢月さんもずっとこんな気持ちだったのかな。
「僕はあなたが、夢月さんが好きです。お付き合いしてください」
自分の言葉で、はっきりと。嘘のない気持ちを。
僕の一世一代の告白を聞いた夢月さんは、ぽかんとして僕の真剣なはずの顔を不思議な生き物を見るみたいに観察している。
「私たち、付き合ってなかったの? 私、恋人でもない人とあんなことしたり、あんな場所に誘ったりしてたの?」
みるみるうちに夢月さんの顔が真っ赤に染まる。
告白前に既成事実を作るって言ったのは夢月さんの方なのに。だから僕はずっと不安で、それこそ試験も手につかなくなったって言うのに。
「夢月さんの口からはっきり聞きたいです。そうじゃなきゃ安心できないから」
「そっか。私も不安だったんだ。だから晶くんともっと繋がっていなきゃいけないって思い込んでた。私も晶くんのことが好き。私たちは恋人だから、焦らなくていい。そうよね?」
一言ずつ確かめるように夢月さんが僕を見つめながら言葉を紡いでいく。僕と同じ気持ちでいてくれて嬉しくて、僕から夢月さんの胸に飛び込んでいた。
「やっぱり、今夜は一緒にいたいかも、です」
「さっきはあんなこと言ったのに」
調子が戻ってきた夢月さんがいたずらっぽく笑う。もしかすると僕はこんな風に余裕のある夢月さんに振り回される方が好きなのかもしれない。
「じゃあ、行こうか」
夢月さんに手引かれる。歩き出した僕たちの前に、いつの間にか中山さんが立っていた。
「どこに行くのかなぁ、お二人さん?」
「あれ、なんでここにいるの?」
後ろを尾けていたのは知っていたけど、いつの間にこんな近くにいたんだろう。全然気づかなかった。
「えっと、そろそろ帰らなきゃいけないから駅に行こうかと」
「本当に? なーんかエロい雰囲気がしたから止めにきたんだけど」
相変わらずそういう勘だけはいいんだから。夢月さんは尾行されていたことにも気付いていなかったみたいで本気で驚いている。
「このまま帰すと危ない気がするから、今日は徹カラ付き合ってよ」
中山さんは有無を言わさず、僕の手をつかんで歩き出す。夢月さんが慌てて追いかけてくるけど、中山さんは止まらない。こういうのも初めての経験に含まれるんだろう。そうして土曜日の夜は更けていった。
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