第20話 甘えてよ、新妻くん
もう後戻りはできないところまで来ている。一度出した条件は変えられない。どんなに厳しい勝利条件でも僕にできることは一生懸命に取り組んで、達成する以外のことは許されていないのだ。
男子寮の僕の部屋の照明はまだ消える気配はなかった。
いつも以上に集中して教科書に向かい合う。総合点で順位がつけられる中間考査ではとにかく凡ミスを減らして無駄な失点を避けなければならない。そのためにはたとえ邪道と言われても暗記できることは丸暗記してしまった方が次のテストだけを考えるなら効率がいい。
朝と言っていることと真逆だし、本当はあまりやりたくはないけど、今回ばかりはしかたない。
教科書の隅から隅まで、注釈も単元のヘッダーすらも写真のように覚えるつもりでノートに重要な単語を書きながら読み進めていく。
暗記科目と言われる理科と社会は全部で五科目。この五〇〇点のうち、いくつを落とさないで済むかというのは、主要三教科でとれなかった点をフォローしてくれる。
「もう少しだけ」
深夜〇時。いつもなら寝る時間。でも今はそんなことは言ってられない。会長はああ言って慰めてくれたけど、僕はテストが終わったら倒れてもいい。今回だけは何が何でも十位に入るのだ。
そう思っていたのがよくなかった。気負ったところですぐに頭がよくなるはずもない。無理をしたら後でひどい目に遭うというのに。僕はその事実を記憶の奥深くにしまいこんだまま、何も知らなかった。
深夜三時。僕の体が僕の自由から離れていく。こうなったらしかたがない。僕にはもうどうすることもできないのだ。
新妻晶は元々勉強が得意でも好きでもない。ただ両親からそれ以外のすべてを奪われ、勉強以外を許されなかっただけのただの男の子だ。そんな僕の精神が擦り切れてしまわないように毎日必ず六時間の睡眠が必要になる。
それを僕は会長のため、と破った。その結果、崩壊を招きそうになった僕の精神は理性的で従順な僕を心の隅に追いやって、表に出てこられなくする。そして純粋な感情で動く、本物の新妻晶が現れるのだ。
気がつくと、僕が僕を見つめていた。
授業もどこか上の空で、頭になんて入ってきていない。脳の中にいる僕が言うんだから間違いない。生徒会のチョーカーで守られた僕を咎める先生なんていない。ぼんやりとしたまま、午前の授業を終え、お昼を食べるために生徒会館へ向かった。
昼食の準備も会長が代わりにしてくれることになっていた。これじゃまるでどっちが会長かわからない。本来の僕は会長のメイド、もとい副会長として毎日奉仕する側のはずなのに。
食堂に入ると、おいしそうな魚の匂いとお味噌の香りがする。キッチンに立ってお味噌汁をかき混ぜている会長の背中に、僕が容赦なく抱きついた。
「かいちょお、きょうのごはんなぁに?」
驚いた会長が幽霊にでも会ったような顔をして振り返った。僕の顔を見下ろしながら夢でも見ているように目を激しくまばたきさせている。当たり前だ。こんな僕を会長は見たことがないんだから。
今回の僕の精神は、甘えるという欲望に忠実に従うことにしたようだ。精神崩壊の症状は毎回違うけど、このパターンを見るのは初めてだ。
会長から引き剥がされて突き飛ばされる。
「ごめんなさい。急だったから」
尻もちをついた僕にエプロンをつけてお玉を持ったままの会長が心配そうに覗きこむ。
「どうしたの、新妻くん。もしかして熱でもある?」
「う、うわーん!」
「え、本気で泣いてる!?」
別にどこか痛かったわけじゃない。拒絶されたことに不安になっただけ。それでも僕にとって拒絶は、その先に延々と続く地獄の入り口だった。
僕にとって両親は恐怖の対象以外の何者でもなかった。与えられるものは愛情ではなく参考書。評価は努力や言動ではなく試験の成績で決まる。甘えることなど許されるはずもない。ただただ定期的に受験する模試の成績だけが、僕と両親の間で交わされる会話のすべてだった。
良い成績を取れば次はさらに上を求められ、悪い成績を取れば罵倒と暴力に晒される。
僕は今回の勝負でも同じように感じているのだ。負ければ会長からの評価は地に落ちる、と。
しゃがみこんで顔を覗きこんでいた会長にしがみつくように抱きついた。
「かいちょお。かいちょおはぼくのことすき?」
「へ?」
いつもとは真逆の立場で、僕は会長の耳元で甘えるような猫なで声を漏らした。頬に感じる会長の体温が急上昇していくのを感じる。控えめな胸の奥で心臓が早鐘を打っているのが伝わってくる。
「どうしたの、急に」
「ぼくがてすとでいいてんとれなかったら、かいちょおはおこる? ぼくのこときらいになる?」
自然と涙が溢れていた。普段どんなに取り繕っていても、僕はまだ高校生の子どもで、それも他者との交流が少ないせいで人付き合いがわかっていないのだ。
だから何も考えず何も感じず、ただ言葉のままに意味を理解して答えるか。こうして理性を壊してまっすぐに問いかけることしかできないのだ。
「怒らないし、嫌いになんてならない」
会長の腕が僕の背中に回される。抱きしめられながら、僕はまだ信じられなくて聞き返す。
「ほんと?」
「だって、私は、ずっと、新妻くんのことが」
頭を優しく撫でられる。僕の長い髪が会長の指に絡まってはほどけていく。温かさに心が溶かされるように緩んでいく。徹夜で限界を超えた心と体が一気に睡魔に導かれて眠りの谷底へ落ちていく。
今回はすぐに眠ったみたいだ。精神崩壊をしたらこうして眠るか強いショックを与えられない限り元に戻らない。会長の腕の中は、今の僕にとってかなり安心できる場所になっているのかもしれない。
脳内にいる僕の前で涙で頬を濡らしたもう一人の僕がすやすやと眠っている。さぁ目覚める前に彼を連れていこう。簡単には思い出せない記憶の迷宮の奥深くへ。そうすることで目覚めた時には僕はまた理性的で従順な新妻晶に戻ることができる。
それにしても会長はさっき何を言いかけていたんだろう。意識が外界と分断されてしまっている今の僕にはあの続きを聞くことはできなかった。
目を覚ますと生徒会館の寝室だった。おかしいな、僕は確か寮の部屋で勉強をしていたはずなのに。顔に触れると涙が走った跡がうっすらと残っている。そして太ももの辺りに柔らかい重さがかかっていた。
「会長?」
僕の脚に頭を預けるようにして会長が眠っている。もしかして僕が倒れて今まで看病してくれてたんだろうか。ただでさえ僕が勉強する時間を確保するために仕事を肩代わりさせてしまっているっていうのに。
それにしても僕は寮からここまでどうやって来たんだろう。よく見たら僕はまた水色のチェックのパジャマを着ている。状況からして会長が着替えさせてくれたんだよね。
「なんか、すごく恥ずかしい」
今日一日の記憶はまるでない。でもなぜだか自分がいろいろやらかしていたようなうすぼんやりとした感覚がある。
「とりあえず、ありがとう、姫路会長」
会長が起きないようにゆっくりと足を抜き、ベッドから下りて眠っている会長の体をそっと抱き上げた。このままじゃ風邪をひいてしまう。制服のまま、自分の着替えもしないで僕のことをつきっきりで見ていてくれたんだろう。会長だって僕と同じように中間考査があるっていうのに。
「絶対、会長を解任なんてさせない」
向かいのベッドに会長を寝かせ、肩までしっかり布団をかける。きれいな寝顔を見ながら、僕はもう一度自分に誓った。
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