第13話 禁断の果実だよ、新妻くん

 僕が三人をなだめていると、息を切らして姫路会長が戻ってくる。額には大粒の汗がいくつも浮かび、銀髪が乱れて頬に張りついている。少し不安そうに見えた顔が座っている中山さんたちを見て安堵の色に変わった。


「見つかったのね。よかった」


「迷惑かけてすみませんでした!」


 勢いよく立ち上がった中山さんがそのまま骨が折れるんじゃないかという勢いで頭を下げる。続くように五月さんと有馬さんも立ち上がって、会長に向かって頭を下げた。


「いいのよ。外で教師に見つかるよりは何倍も」


「でもそのせいで新妻が」


 中山さんが今にも泣きだしそうな顔で職員室でのやりとりを会長に説明した。会長はその話を聞いている間、じっと僕と中山さんの顔を交互に見比べていた。話が終わると、すすっと食堂の大きなテーブルを回ってわざわざ僕の隣に座る。別に席はいくらでも空いているんだから、入り口近くに座ればいいのに。


「事情は分かりました。新妻くんがそうしたなら私はあなたたちを恨んだりしません。明日からも変わらず学園生活を送ってください。ただし、校則は守るように」


 三人は答える代わりに溜息をついた。僕は最近慣れてきたけど、会長って本当に美人なんだよなぁ。乱れた髪すらも妖艶な雰囲気に変えてしまう青白い瞳が今は少しだけ優しそうに細められていた。


「新妻くんもよく頑張ってくれたわ。後でご褒美をあげないといけないわね」


 会長はいたずらっぽく笑う。こういうときの会長は意味の分からないことを言って僕をからかうときだ。乾いた笑いがこぼれそうになるのをこらえて愛想笑いを返す。


「生徒会の役割を果たしたまでです」


「真面目な答えね。そろそろ禁断の果実に手を出してもいいと思うのに」


 つまりこの後リンゴが食べたい、ってことかな。会長の命令はときどき妙に遠回しだ。冷蔵庫の中にリンゴなんてあっただろうか。バナナはやけにたくさん置いてるけど。


 それを見ていた中山さんが、急に我に返ったように立ち上がった。


「なんかエロい感じがする!」


「え、何言ってるの?」


「よくわかんないけどなんかエロい雰囲気がした! アタシの勘がそう言ってる」


 さっきまでの落ち込みようはどこに行ったのかというくらいに中山さんがテーブルをバンバンと何度もたたく。完全に語彙力が低下している。こんな人を助けるために頑張って探し回ってくれた会長に申し訳なくなってくる。


「中山さんは気が動転しているみたいなんで、今日は帰しましょう」


「あ、新妻が逃げた。絶対この後二人でエロいことするんだー!」


 あぁ、もううるさい。僕は五月さんと有馬さんに目配せして、中山さんを取り押さえさせる。そのまま立ち上がらせて、生徒会館の入り口まで三人がかりで押し出した。


「今日は寄り道せずにまっすぐ帰ってよ」


「りょーかい。美由は私らに任せて」


 中山さんはまだ気が収まらないらしく、二人きりにしちゃいけないとか言い続けている。鳥は三歩歩けば忘れると言うけど、ほんの数分前には泣き出しそうになりながらうつむいていた人と同一人物には見えないほどだった。ずっと落ち込まれるよりは何倍もいいんだけど。


「今回は助けてもらったから協力すっけど、美由を泣かせたら許さないからな」


 別れ際、たぶん有馬さんが僕の耳元でそう脅しをかけてくる。泣かせるどころか助けてあげているつもりなんだけどな。


 両脇を友人二人に抱えられ、暴れながら中山さんたちは去っていった。本当に表情や気分がころころ変わる台風みたいな人たちだったな。


 食堂に戻ると、会長はあっという間に着替えを済ませて制服姿になっていた。探しに行く前は着替えにすごく時間がかかるって言ってたはずなのに。


「とりあえず、リンゴでも剥きましょうか」


 禁断の果実は食べたアダムとイブが無垢を失い羞恥を覚えたという旧約聖書の創世記の話からきている。アダムが食べたリンゴはのどに詰まり、それが今の男性の喉仏になったのだとか。


「僕の先祖はリンゴを食べ損ねたのかな」


 自分の喉に触れてみる。二次性徴の声変わりとともに出てくるはずの喉仏はどこにも見つからない。三人を探している間に警官とおばあさんに話しかけられたんだけど、どっちも男だって気付いてくれなかったんだっけ。


 寂しい気持ちになりながらうさぎの形に切って皿に並べる。会長の前に皿を置くとつまようじに差した一切れが僕の前に差しだされた。


「はい。ご褒美よ」


 あーん、と言いながら会長も自分につられるように口を開けている。いつもは鋭く切れるような瞳が甘くとろけるように柔らかな視線を僕に投げかけていた。


 なんだか、いつもと雰囲気が違う。これが中山さんの言っていたエロい雰囲気ってものなんだろうか。なんだか会長の顔がいつも以上に可愛く見えてくる。


 よく考えたらこんな美人にあーんされるなんて、誰もが夢に見ても叶わないシチュエーションだ。


 心臓の音が激しくなる。この気持ちはいったいなんなんだ。そもそも中山さんの言っていたエロいの定義って何? この状況がエロいの? それともこれから中山さんの言うエロい雰囲気が生まれるの?


 これを食べたら、何かが変わってしまう気がする。僕と会長の関係が。僕の考え方が。勉強以外を知らないまま、ただ与えられた課題をこなし続けていた僕が変わってしまう。


 まさしく禁断の果実のように。


 口を開く。暗闇の中に見つけた扉を押すように。心臓の色と同じ真っ赤な皮が耳のように跳ねたリンゴに向かって口を近づける。噛りつこうとした瞬間に、扉はすっと逃げるように僕の前から消えていった。


「あれ?」


 僕の前に差し出されていたはずのリンゴは会長の口の中に入っていた。


「いらないのならあげないわ。せっかくのご褒美なのに」


「いや、いらないなんて言ってないですよ」


「でも全然食べないじゃない」


 会長は飲み込む前から次々に口の中にリンゴを放り込んでいく。みるみるうちに頬が膨れていく。会長はリンゴみたいに真っ赤な顔であっという間に皿の上のリンゴがなくなっていく。


「待ってくださいって。食べますって」


 ちょっと緊張して体が動かなかっただけだ。次はきっと。そもそも別に恥ずかしいことなんてないじゃないか。ただリンゴを食べるだけ。人間が生きるために栄養素を体内に取り込むために食物を摂取するだけ。別に普通のこと。


「あら、なくなっちゃったわ」


 白い皿の上に二個分剥いたはずのリンゴがきれいさっぱりなくなっている。


「まだ僕一つも食べてないのに」


 別にリンゴが食べたかったわけじゃないけど、なんだかすごく損した気がする。人生で一度しかないチャンスをふいにしたような。


「じゃあ、これを食べる?」


 会長がいつものいたずらっぽい顔で膨らんだ自分の頬でぽんぽんとたたいた。

 それってもう口の中に入ってしまっているのを、ってこと?


「これ、ってどういうことですか?」


 わかりきったことを聞き返す。顔が熱くなってきた。今体温を測ったら、四十度を超えているような気がする。


「え!? これは、これで、その、リンゴだけど」


 会長の顔がほんのりと赤みを帯びていく。いつもの調子でからかっていると思っていたのに、なんだか調子が狂ってしまう。


「やっぱりあげない!」


 会長は口に残っていたリンゴをもぐもぐと飲み下してしまった。もうどこにも残っていない。会長の胃の中に全部消えてしまった。


「あぁ」


 思わず後悔の念が口から漏れた。会長はなんだか不機嫌そうに大きく足音を立てて食堂を出ていってしまった。食堂に取り残された僕はしかたなく皿を片付けるためにキッチンへと向かった。


 翌日の放課後、職員室に呼ばれた僕は昨日の中山さんたちの処分が言い渡されることになった。昨日、大立ち回りをした青山先生の席に向かって処分を聞く。


「生徒会には手を出せないというルールは知っているんでしょう。でも一般生徒の学校生活にまで干渉していいというわけではないわ。今回は自発的に帰ってきたし、生徒会副会長の新妻くんが処分を受ける以上、少し罰は軽くなるわ。でもこんな手が何度も通用するとは思わないように」


「わかりました」


 教師として言えるのはここまで、ってことか。特権階級の生徒会に手を出すのは学校の処分とはいえ簡単じゃないようだ。


「それで処分として来週から一週間。放課後に補習を行います」


「補習!? 強制参加ですよね。ってことは生徒会より優先ですよね!」


「当然でしょう。サボったら次は本当に停学よ。毎日一時間ね」


「一時間と言わず、二時間でも三時間でも!」


 無理だと思っていた放課後の勉強。それが来週からできる? しかも教師からのマンツーマンの指導付きで?


「ありがとうございます! 頑張った甲斐がありましたぁ」


 中山さんには会長との関係を疑われて、変な目で見られるし、五月さんと有馬さんは僕の中山さんに対する態度が気に入らないと文句を言われるし。会長は昨日のリンゴの一件のせいか、お昼休みも不機嫌そうだった。せっかく助けてあげたのに全然いいことないと思ってたのに。


「あの、これ処分だからね」


「もちろんです。お時間をとらせていただき大変申し訳なく思っています!」


 しっかりと頭を下げて謝る。顔がにやけそうになるのを隠すにはこれしかなかった。頭を下げている数秒間で顔を整える。


「では来週からよろしくお願いいたします」


 不思議そうに首をかしげる青山先生を置いて、僕は職員室を出た。


 会長に処分のことを報告すると、ものすごく不満そうな顔で手の甲をつねられた。


「生徒会は?」


「一時間なので。遅れてきますから」


「ふーん。なんだか楽しそうね」


 結局翌週は補習を終えた後に、必死で会長のご機嫌をとるためにメイド服でたっぷりご奉仕させられるはめになってしまった。


 でもそれはそれで、補習と同じくらい楽しく思えてしまった僕がそこにいたのだった。

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