ご奉仕してよ、新妻くん!

神坂 理樹人

ご奉仕してよ、新妻くん

生徒会に入ってよ、新妻くん

第1話 副会長になってよ、新妻くん

 入学式の日、その校庭に桜は咲いていなかった。

 申し訳程度に校門の脇に置かれた花輪には『第八十六回入学式』という文字が書かれている。その陰に隠れるように校名が書かれた銘板がつけられていた。


 西東京八王子市。私立天稜てんりょう学園高等学校。


 校門を通り過ぎ、一年生の昇降口に張り出されたクラス割を見た。クラスは全八組、三二〇名。その全員がこれからライバルとなる。僕はこの中で戦い抜き、勝ち残らなければならないのだ。


 廊下の窓を見る。晴れた中庭が見える窓の表面に、半透明の僕が映っている。


 散髪が面倒で、目が隠れるほど伸びてしまった前髪。悪くなった視力をごまかすように、凝らすクセがついて釣り上がった目を隠している。やせて頼りのない尖った顎。腕も脚も肩幅も全部が細くて、男か女かよくわからないと言われたことは少なくない。


 ほんの少しだけ足りない一六〇の高みは僕の頭の先から二センチ上にある。


「何でこんなところに来ちゃったんだろう」


 僕は誰にも聞こえないようにそう独り言をこぼした。

 僕の人生は、これまでもこれからも勉強しかなかった。


 母の口癖は「勉強しろ」と「無駄なことをするな」だった。読んでいいのは教科書と参考書と新聞のみ。テレビはニュース番組のみ。ネットなんてもちろん禁止。スマートフォンはクラスメイトに一度だけ触らせてもらったことしかない。


 自宅にいる間は食事中も参考書を片手に食べ、睡眠時間はきっちり六時間。テスト成績によっては少ないお小遣いがさらに減らされるようなこともあった。一流大学に進み、一流の企業に入って高収入を得ることだけを義務付けられてきた。


 この学校に進学したのだって、母に強く言われて心が折れたからだった。最後の最後は自分の意思で決めたつもりでも、こうして入学式を迎えると後悔の念ばかりが浮かんでくる。


 自分のクラスに入ると、そこはすでに日常と何も変わらない空間があった。中学の時にあったような黒板にカラフルなチョークで書かれたお祝いのメッセージもない。新しい環境で早く仲間を作ろうと必死に周囲に声をかけるような生徒もいない。


 みんな淡々と自分の席を確認し、持っていた荷物を置いて、無言で体育館へと向かっていくだけだ。廊下にも教室にも生徒の話し声が聞こえてくることはない。一人だけ悪目立ちしないようにと願いながら周りの真似をして体育館へと向かった。


 入学式は長い校長のあいさつに始まって、何事もなく進んでいった。誰も話なんて聞いていない。持ち込んだ単語帳をうつむきながら確認している生徒までいるほどだった。


「続いて、在校生代表挨拶。生徒会長、姫路夢月ひめじむつき


 名前を呼ばれた女子生徒が脇から壇上に上がってくる。その瞬間に体育館全体が時が止まったように静まり返った。僕の視線も壇上を颯爽さっそうと歩く姿から離せなくなる。


 すらりと伸びた手足。背筋を伸ばして風を切って歩くその背に尾を引くようになびく髪は、とても日本人とは思えない銀色に輝いて見えた。


 壇上の公演台の前に立ち、僕を見下ろすように向けた瞳は青白く透き通っていた。ウェーブのかかった髪をカチューシャで押さえつけ、それでも主張する後れ毛をうっとおしそうに耳にかける。そのしぐさ一つでどこかから溜息が漏れるのが聞こえた。


 単語帳を見ていた生徒も今は彼女の姿に見惚れている。ただそこにいただけだったはずの千人の意思が彼女によって統一されていた。


「新入生の皆さん。ご入学おめでとうございます」


 そこから先の話はよく覚えていない。たぶん見惚れて我を忘れるというのはこういうことを言うんだろう。その容姿と寸分違わない透き通った姫路会長の声を意味を理解しないままただ聞いていた。


 セイレーンの歌に魂を奪われたように、僕は抜け殻になったまま、気がつくと自分の教室の席に座っていた。


 あの生徒会長、きれいだったな。そんなことを思うのはいったいいつ振りだろう。勉強以外のことを考えるのは犯罪のように言われてきたから、そういう感情なんてないと思っていたのに。 


 深呼吸をして大きく息を吐いた時だった。教室の前側の扉が開かれ、近くにいた生徒の顔が凍り付く。これから入ってくる誰かのために当然のように道を譲り、モーセが海を割ったみたいに通り道ができた。


 入ってきたのは姫路夢月。あの千人の瞳を一身に集めていた生徒会長だった。


「あの、うちのクラスに何か、ご用ですか?」


 緊張で声を震わせながら声をかけた誰かの勇気を完全に無視して、姫路会長は教室の中をあの冷たい青白い瞳で見回している。見つめられたら氷の中に閉じ込められてしまいそうな冷徹な視線が教室を薙ぎ払う。


 彼女はようやく獲物を見つけたらしく、その瞳を標的に定め一歩また一歩と間合いを詰めていく。狙われた獲物は動くことなどできるはずもなく、ただ捕食者の姿を呆然として見つめていた。


 姫路会長はその歩みをゆっくりと進め、獲物の、座っていた僕の席の前で立ち止まった。


「立ちなさい」


「は、はい!」


 命令を理解する前に身体が動く。椅子を跳ねのけて立ち上がると、言われるまでもなく背筋を伸ばして体をまっすぐに彼女に向けた。


 僕よりも背の高い彼女は、僕の顔を品定めするように覗き込んでいる。もう一歩たりとも動けそうにない。人が死ぬときはこんな気分なんだろうか、なんて知りもしない感覚が全身を駆け巡っていた。


 姫路会長は動けない僕の顔にそっと、手を近づける。頬を撫でたかと思うと、白魚のような美しい指が僕の首に触れた。


 カチリ、と錠の落ちる音がする。


 姫路会長の手が僕から離れると同時に僕は何をされたのかと自分の首元を探った。首に何かが巻かれている。僕に与えられたそれは、チョーカーというよりも首輪に近かった。留め具の部分には小さな南京錠がかけられ、自分の手では外れなくなっている。


「あ、あの。これはどういうことでしょうか?」


 僕の目の前で無表情に立っている姫路会長に恐る恐る聞いてみる。ほとんど変わらない彼女の表情が少しだけ微笑みの色を帯びたような気がした。


「新妻晶くん。現時点をもって、あなたを生徒会副会長に任命します」


 僕の疑問に姫路会長は事務的に答える。首にかかった南京錠にもう一度鍵がかけられる音が聞こえるようだった。


「あの、生徒会副会長というのは?」


「放課後に生徒会室に来て、以上よ」


 それだけ言うと、姫路会長は凍り付いた教室の中を悠然と抜けて立ち去っていった。会長が出ていった後も数秒は時が止まっていたように思う。ようやく呼吸を思い出した生徒たちが日常に帰ってくる。


「今のなんだったの?」

「生徒会副会長ってどういうこと?」


 今まで他人に興味なんて持っていなかったクラスメイトの視線が僕に集まっている。そんなの僕が知りたいよ。首にかけられたチョーカーを触る。鍵がかけられているせいでやけに重い。この違和感がとれるまで時間がかかりそうだった。


 とれないことを確認していると、担任の教師が教室に入ってくる。そこで僕の思考は中断される。生徒会だか何だか知らないけど、僕はこの学校でたくさん勉強して成績上位になって、母に認めてもらわなきゃならない。生徒会なんかに時間を使っている暇はないんだ。


 放課後になったら生徒会室に行って断ろう。そもそも何も学校のことを知らない僕には無理な役職というものだ。

 なにより、この学校で勉強以外の活動は無意味だ。


 僕を含めてこの学校に来る生徒はそんなことよくわかっている。事実、すでにホームルームが終わり、先生は教室を出ていったのに、半数以上の生徒は自分の席から立たないまま、さっそく自習を始めている。


 今は勉強に集中したいので副会長はできません。もう一度断りの文句を心の中で繰り返して、僕は生徒会館へと足を向けた。


 校舎から数百メートル離れた校庭の隅にぽつんと建てられた生徒会館は古びた洋館を小さくしたような外観だった。


 赤いレンガの外壁には蔦が這いあがっていて、緑のカーテンのようになっている。石柱に囲まれた大きな木の扉は見上げなきゃならないほど大きい。中に入って見ると、内装は日本式らしく玄関があって来客用のスリッパが置かれている。だけどやはり元々は洋館だったらしく、フローリングの廊下が続いていた。


「おじゃましまーす」


 会長に聞こえないように呟くように漏らす。まだ心の準備ができていない。今目の前であの冷たい目に迎えられたら、言葉が出てこなくなりそうだった。二階にある生徒会室まで。そこまではまだ勇気を育てる時間が欲しい。


「いらっしゃい」


「ひいぃ!」


 後ろから両手で肩をつかまれる。ビクリと跳ねた体をよじって後ろを振り向くと、姫路会長が無表情に僕の背後をとっていた。


「なんで外に?」


「そろそろ来るかと思って探していたの。入れ違いになったみたい」


 肩に置かれた手に力が入っていく。この中に入ったが最後。もう逃がさないという意思が無表情な会長の奥に見え隠れしていた。


 結局背後をとられたまま、僕は人質のように二階に上がると、そのまま生徒会室の中に連れ込まれるように入った。

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