その男、木崎隆 (逃げるしかないだろう外伝)

だるっぱ

薔薇に乾杯

第1話 一本の電話

 俺は走っていた。逃げている男を捕まえるために、走っていた。

 暑さのせいで、額から汗が流れる。鬱陶しい暑さだ。

 心斎橋筋の商店街は、いつにもまして人が多い。まるで川の流れのようだ。押し寄せる人混みの中を、そいつは走っていく。通行人が邪魔で仕方がない。何人かふっ飛ばしてしまった。

 商店街には大音量で歌謡曲が流れている。山本リンダの「どうにもとまらない」だ。

 最近、テレビをつければ、この曲ばっかりが流れているような気がする。耳障りな歌だ。


 ――どうにもとまらない、じゃなくて、止まってくれ!


 俺は男を追いかけながら、心の中で、そう呟いた。


「こら、待て!」


 戎橋で、やっとそいつを捕まえた。襟首を掴む。引き寄せた。


「すんまへん。必ず返しますから」


 その男が、手を合わせて俺に懇願をした。


「当たり前じゃ、ボケ!」


 癇癪をおこして、そいつを突き飛ばす。

 走り過ぎて、へたばっていたようだ。よろめいたかと思うと、糸が切れた操り人形のように倒れこむ。そこに女が歩いていた。そいつは、その女を巻き込んでしまう。

 女は、手に赤い薔薇の花束を持っていた。そいつに抱きつかれるようにして倒れていく。倒れた拍子に、その薔薇の花束が散ってしまった。


「すまない」


 俺は眉間に皺を寄せて、その女に手を差し伸べた。女がキツイ目で俺を睨む。


「この男、退けてくれない」


 女に覆いかぶさっているそいつを引き剥がした。改めて女の手を握り、立たせてやる。女は、汚れた尻のあたりをパンパンと叩き、埃をはらった。

 落ちている赤い薔薇の花束を、俺は拾い上げる。掴んだ拍子に、トゲが指に刺さった。


「すまない、この花束は弁償させてくれ」


 女が、俺を見上げる。


「そんな花束はいらない。どうせ好きでもない男からのプレゼントだし。アンタにあげる」


 気が強い女だ。さっき耳にした歌謡曲ではないが、山本リンダのように性的な魅力を、辺りにまき散らしているような女だった。長い髪の毛に、突き出した胸と尻。俺は、コーラの瓶を思い出した。


「それでは、俺の気持ちが収まらない」


 女が、悪戯っぽく俺を睨んだ。


「当り前じゃない。このままでは済まさないわよ」


 俺に突っ掛かってくる女なんて初めてだ。俺のことが、怖くないのだろうか。

 大方の人間は、俺を見て怖気ずく。身長一八五センチメートル。体重九五キログラム。

 ムカつく相手を見つけると、直ぐにメンチを切ってしまう。そんな俺の顔は、お世辞にも善人面とは言い難い。

 例に漏れず、高校は中退。学生の頃は、ケンカをして負けたことがなかった。


「じゃ、どうすればいい?」


 女が俺を観察する。足先から頭のてっぺんまで、値踏みするようにして睨みつけた。


「あんた、堅気じゃないわね」


 俺は、胸を張る。


「俺は、安達組の木崎隆や」


 女が、薄気味悪く笑った。


「ははーん、そうなの。じゃ、近いうちに会うことがあるかもしれないわね」


 俺は、その女を怪訝な顔で見つめる。


「お前は?」


「私は、雅。あんたのこと憶えたからね。今回のことは、百倍にして返してもらうから。じゃ!」


 俺に手を振ると、背中を見せた。雅の長い髪の毛が、フワッと揺れる。

 雅は、振り返りもせず立ち去っていった。

 俺は、その後姿を黙って見送る。


「いい女ですね」


 追いかけていた男が、俺に話し掛けてきた。そいつの襟首を掴む。


「お前は、さっさと金を返したらええんや」


 そう言いながら、もう一度、雅の姿を探した。もうどこにも居ない。

 手に持っていた薔薇の花束を見つめる。顔に近づけてみた。雅という女の匂いを嗅いでいるような気がした。

 ふと、顔を横に向ける。男が俺を見ていた。

 俺は、慌てて顔を離す。花束を、その男に突き付けた。


「お前に、この花をやる」



 借金の取り立ての仕事が終わった。安達家に帰ってくる。遅い昼食を食べることにした。

 安達家の敷地には、親分家族が住む日本家屋の屋敷と、舎弟が生活する離れ屋がある。安達組に囲われている俺は、その離れ屋に向かった。

 玄関に入ると、真っすぐに食堂に向かう。食堂には、お手伝いの京子さんがいた。他の奴らが食べ終えた食器を片付けている。

 俺は、喉が渇いている。台所に行くと、水道水で冷やしているヤカンを見つけた。ヤカンを持ち上げて、コップに注ぐ。

 京子さんが、台所にやって来た。


「まだ、冷えてないよ」


「かまわん」


 俺は、麦茶をガブガブと飲んだ。生ぬるい麦茶で喉を潤す。


「京子さん、飯」


 京子さんが、微笑む。


「遅かったね、隆。今まで、仕事だったのかい?」


「ああ、取り立ての仕事や。土壇場で逃げだされて、走ってしもうた」


 コップを流しに置く。食堂のテーブルに向かった。


「今から、素麺を茹でるから、ちょっと待っとき。それとね、アンタの兄さんから電話があったよ」


 眉間に皺を寄せる。京子さんを見た。


「何て?」


「居ないって伝えたら、又かけ直すって」


「分かった」


 俺は、食堂にあるテレビのスイッチを入れる。ニュースをやっていた。

 アナウンサーが、昨日の銀行強盗のあらましについて説明している。犯人は、過激な学生運動を行っている組織の犯行らしい。つまりアカだ。まだ、犯人は捕まっていない。逃走中だ。


「あさま山荘事件を思い出すね」


 京子さんが、呟く。冷えた素麺を持ってきた。


「ほんまやな」


 あさま山荘事件は、今年の二月末にあった事件だ。まだあれから四ヶ月ほどしか経っていない。

 二十代前半の若者で構成された連合赤軍が、長野県にある山荘に立てこもり、警察や機動隊と徹底抗戦した事件だ。猟銃や拳銃が派手にぶっ放されて、日本中がテレビにくぎ付けになる。五人のメンバーは、九日間の立てこもりの末、確保された。この事件で、一般人を含む三人もの命が失われる。

 しかし、問題はそれだけではなかった。そこに至る過程で、仲間同士の内ゲバが露見する。私刑により、十二人の若者が仲間によって殺されていた。日本中が驚く、衝撃の事件だった。

 京子さんが呟く。


「学生運動は、あたし、応援していたんだけどね。でも、あの事件以来、なんだか冷めたね」


 俺は、素麺を啜りながら、修兄貴からの電話が気になっていた。

 自慢の兄貴で、俺とは違って勉強が出来る。京都で一番難しい大学を二年前に卒業した。俺が十九歳だから、兄貴は二十四歳。

 昨年、着物屋に就職をしたという話を聞いていたのに、直ぐに辞めてしまった。それ以降、兄貴からは何の音沙汰もない。心配していた。そんな兄貴からの電話だった。

 その時、電話が鳴り出す。


 リーン、リーン。


 俺は、立ち上がった。京子さんもやって来たが、制する。

 受話器を持ち上げた。


「もしもし、安達組です」


「その声は、隆か?」


「兄貴か。元気にしてたんか?」


「まあな、何とか生きている」


「珍しく電話をしてきて、何の用事や?」


「……」


「どうしたんや、黙ってしまって」


「実はな、お前に頼みがあるんや」


「何やねん。出来ることなら、何でもするで」


「金はある。お前に拳銃を用意して欲しいんや」


「えっ!」


「お前なら出来るやろ。そのー、ヤクザやから……」


 ――やっぱり。


 テレビを見ながら、妙な胸騒ぎがしていた。受話器を握りながら、俺は天井を見上げてしまった。

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