魔法菓子店ピロートの出来事

服部匠

1.鍵

 十一月の早朝。魔法菓子店ピロートのある彩遊市さいゆうしの住宅街はまだ静かで、時折車が往来するだけの音が響いている。

 ピロートのあるアパート、三階部分に住む天竺てんじく蒼衣あおいは、朝の冷たい空気に身を縮めながら階段を下りていた。カンカンカン、と響く鉄製の階段の音が、いまだ覚醒していない蒼衣の意識を少しずつ揺らして、ただの天竺蒼衣から「ピロートのシェフパティシエ・天竺蒼衣」へと変えていく瞬間は、嫌いではなかった。

 本当の自分は、決して綺麗ではない部屋に住み、人付き合いもさほどうまくなく、実年齢と中身が伴わない未熟な人間だ。それでも。

 階段を降りきって、ピロート店舗の勝手口に立つ。いつも通りにポケットに入れていた鍵を出す。なんの変哲もない鍵だが、蒼衣にとってはその重みも大切なものだった。

 鍵を差し込み、ドアを開け、靴を変えて中に入る。

 まだ照明を付けていない厨房の中を通りすぎ、一旦バックヤードに入る。個人ロッカーからクリーニング済みのコックコートに着替えて、前掛けをきつく締め、髪を丁寧にまとめて帽子の中に入れてしまう。

 鏡でほつれた髪がないか十分に確認して向かったのは、厨房だった。

「おはよう、みんな」

 パチン、と厨房の照明のスイッチを入れる。

 そこにあるのは、低く駆動する冷蔵庫や冷凍庫の音。

 鼻をかすめる、昨日の甘い残り香。

 おとなしい顔をして鎮座するミキサーやパイ折り機、ショックフリーザー。

 机下に置かれた各種小麦粉や砂糖の袋。

 ――全部全部、蒼衣の頼もしい相棒であり仲間だった。

「さあ、今日も一日、よろしくね」

 オーブンのスイッチを入れる瞬間、自分もシェフパティシエのスイッチが入る気がした。

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