第21話 娘さんたちを置いていかないで下さい!
交通事故だった。
もう少し詳しく言うなら、若菜父が横断歩道を渡ろうとしたところに車が突っ込んできたらしい。
すぐに駆けつけてくれた救急車の中で救命措置中に心肺停止。
CPAOA(到着時心肺停止状態)といって――要するに病院に到着した時点で死亡していた、ということのようだ。
今は病室で“エンゼルケア”――死後の身だしなみを整えているところだ。
そこに、四姉妹も集まっている。
鳴爽は遠慮して、病院のロビーで待っていた。
いや、ロビーでは落ち着かず、結局は病院の外に出てきてしまった。
夜の九時をとっくに過ぎていて、病院の周りは静かだ。
鳴爽はスマホを取り出す気にもなれず、ポケットに両手を突っ込んでぼんやりしている。
「変な感じだな……」
ぼそりとつぶやく。
ほんの数日前に、一緒に温泉に入り、東屋で語らい、布団を並べて眠った。
その相手が、今日にはもうこの世のどこにもいなくなっている。
今はまだ遺体は病室だが、すぐに霊安室に移されるのだろう。
そのあとどうなるのか、鳴爽は知らない。
まだ身近な人間を亡くしたことがないからだ。
病室内には既に、舞と乃々香とみつばがいた。
舞がタクシーを呼んですぐに駆けつけたらしい。
鳴爽と絆奈も、舞からどこの病院かメッセージが届いたので、タクシーで急行した。
タクシーの車内では絆奈は一言も話さず、鳴爽も言葉を見つけられなかった。
今は、舞が病院側からいろいろと説明を受けているはずだ。
鳴爽も同席したかったが、自分は家族ではない。
絆奈を連れて病室まで行った際に、ちらりとベッドに横たわる姿を見ただけだ。
既に、父の顔には白い布がかぶせられていた。
よく映画やドラマなどでは見かけるが、本当にああいうものをかぶせるのだなと思った。
少し見ただけの病室内の様子は――今はあまり思い浮かべたくない。
「鳴くん」
「……舞さん」
突然、間近で足音が聞こえて鳴爽はびくりとする。
近づかれるまで、まるで気づかなかったようだ。
舞は、ノースリーブのニットにスキニーデニムという格好だった。
整った顔は、まるで能面のように表情がない。
この明るいお姉さんのこんな顔を見たのは初めてだ。
「ああ、風が気持ちいいね。あたし、病院の空気って苦手でさ」
「……だいたい苦手ですよ。いいんですか、こんなところにいて?」
「乃々香がお医者さんと話してくれるっていうから。あたしと違って、あの子は頭良いし冷静だからね」
「……本当に冷静でしょうか」
「ヤなこと言うね、鳴くん」
「すみません」
「いいよ、こんな状況じゃ君だってなにを言っていいかわからないよね」
「はぁ……」
鳴爽はどうリアクションしていいものか、まったくわからない。
ご愁傷様です、なんて定番の挨拶をするべきなのかどうかも。
「まさか、あの人が死ぬなんてね。殺したって死にそうになかったのに」
舞は淡々としている。
「健康診断は毎年オールグリーンだって言ってましたよ」
「ああ、そうそう。毎年、マメに健康診断受けてたよ。雑な人だったのに、あたしたちを安心させるためにね。おまえらが嫁入りするまで死んでも生きるぞってね」
舞はかすかに笑って――
「でも、交通事故じゃ健康診断意味ねー。どんなに健康でも、たかが時速40キロで車にぶつかられただけで死んじゃうんだもんね」
「……お義父さん――いえ、若菜さんをはねた車は?」
「そっちも亡くなったらしいよ。あの人をはねて、そのままどっかの壁に激突したみたい」
「そうですか……」
運転手が死亡したからそれで終わり、というわけにはいかないだろう。
たとえ若菜四姉妹や相手の家族がこじらせることを望まなくても、事故と向き合うことになるはずだ。
そちらの話もケリをつけなければならないだろう。
舞たちにアテがないなら、鳴爽にはこの手の問題の専門家に心当たりがある。
だが、その話を今出す必要はない。
「ああ、それといつもどおり“お義父さん”でいいよ。あの人、そう呼ばれるのまんざらでもなかったみたいだし」
「文句を言うのをあきらめただけのような気がしますけど」
父はどんな呼ばれ方をしようと、もう怒鳴りつけてくることはない。
家族の舞が認めてくれるなら、今までどおりに呼んでもいいのだろう。
「事故の目撃者、何人もいるみたい。あの人、普通に歩いてたのに“急に走り出した”らしいよ」
「え?」
鳴爽はきょとんとする。
「なにかあったんですか……? 俺の家に来る途中だったんですよね?」
「そうみたいだけど、よくわからない。警察が一応調べてくれるって」
「そう、ですか」
別に鳴爽の家に急ぐ理由はなにもなかっただろう。
父の行動は、やや不可解だ。
「あの人、“なにか追っかけてるみたいで、なにか叫んでた”って。知り合いでも見つけたのかな?」
「なにか、なにか、だとわかりませんね」
「でも、あの人はちゃんと横断歩道を渡ったんだから、落ち度はないってさ」
「……そうですか」
どうも、相槌を打つ程度のことしかできない。
舞が父を“あの人”と呼んでいるのも気になるが、そんなところを追及するような場面でもないだろう。
「舞さん、病室に戻ったほうがいいですよ。三人は舞さんにいてほしいでしょう」
「あたしが、あそこにいられなかったんだよ」
舞は小さな声で、だがはっきりと言った。
もちろん、舞も長女としての務めは理解しているだろう。
それでも、このマイペースな長女でも父の遺体のそばにはいられなかったのだ。
「お姉さん」
「……絆奈、あんたも出てきちゃったの? みつばは?」
絆奈はゆっくりと鳴爽たちに近づいてきて、足を止めた。
「みつばは……まだ離れようとしません」
「だろうね。あの人に一番懐いてたの、なんだかんだであの子だからね」
鳴爽は、垣間見た病室を思い出してしまう。
みつばは父の遺体にしがみつくようにして泣き、その小さな肩は震えていた。
そのそばに立っていた乃々香の横顔にも涙が伝っていて――
「ああ、そうだ。絆奈はあとで来たからね。これ、あんたにも見せようと思ってたんだ」
「なんですか……?」
首を傾げる絆奈に、舞はポケットから取り出したスマホを手渡した。
「これって……お父さんの?」
絆奈はそれを受け取ってすぐに気づいた。
鳴爽も、ケースも着けていないそのスマホには見覚えがあった。
旅館の東屋で、鳴爽の小説を読んでいたスマホだ。
「写真アプリの一番新しい動画。絆奈、あたしと乃々香とみつばはもう観た。最後はあんたと――鳴くん、君だよ」
「……俺も?」
その動画がなんなのか――
薄々察しはつくが、鳴爽も舞にそれを確かめる度胸はない。
絆奈は、どこか怯えたような顔で鳴爽のほうを見て――
「鳴爽くん……いいですか?」
「あ、ああ」
鳴爽は絆奈の横に並び、スマホの画面を覗く。
その液晶画面は割れてヒビが入っている。
元からヒビ割れていたのか、それとも――
絆奈は写真アプリを立ち上げた。
ずらりと並んだサムネイルの一番右下は、ボヤけていて判然としない。
絆奈はそのサムネイルを、わずかにためらってからタップする。
動画の再生が始まった。
ざわざわと騒がしい音が聞こえてくる。
誰かが「救急車まだ!?」「あっちの車もヤバイ!」「うわ、すげー血……」などと、多くの人々が騒いでいるのが聞こえる。
なんの動画なのか、鳴爽はすぐにわかった。
おそらく、絆奈も。
『あー、もしもーし。聞こえるか? ハハ、動いてんじゃねぇか。最近のスマホは丈夫だな。持ち主より頑丈なんじゃねぇ?』
「…………っ!」
絆奈が、ぎゅっとスマホを握り締めた。
『グロかったらやべぇんで、俺は映さない。娘たちに見せるなら、教育上良くねぇよな』
「…………」
鳴爽も黙ったままで、なにも反応できない。
つい昨日まで普通に話していた――
四姉妹にとってはほんの半日前、朝まで普通に話していた男の声だった。
映像は夜空と、画面の端にビルらしきものが映っているだけだ。
スマホを適当な方向に向けたまま、声だけ収録しようとしたのだろう。
『はー……無駄口はやめよう。さっさと言うこと言っておかねぇと。ドジった。ああ、俺がドジっただけだ。あの車の運転手、大丈夫かな? 別にあの車は悪くねぇ』
遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。
鳴爽は、ついさっきの撮影からの帰り道でもサイレンを聞いたことを思い出す。
『舞、すまん。乃々香、許してくれ。絆奈、すまない。みつば、ごめんな』
父は四人の名前を呼び、なぜか謝っている。
いったいなぜ、彼が謝る必要があるのか――
『たぶん、俺はダメだ。どこも痛くねぇのがまずい。もし……もし、無事だったら、後でこれを観て笑ってくれ。五年は
ハハハ、と力のない笑い声がして。
『ああ、鳴爽……しゃーねぇからおまえにも、言っておこう』
「…………」
『よかったな、おまえも一つ屋根の下ラブコメが始められんぞ』
「なんの話……だよ」
鳴爽は、そうつぶやくのが精一杯だった。
それから、数秒の間、父の声は聞こえなかった。
ただ周囲の騒音が聞こえるだけで――
「次は――おまえだ」
ぼそりと、再び父の声がした。
初めて鳴爽が若菜昌仁に会った日に聞いた言葉とまったく同じだった。
次はおまえ――
若菜四姉妹を今日まで守ってきたのは、この父だった。
その役目を――鳴爽に譲るという意味だ。
鳴爽はようやくにして、若菜父の言葉の真意を知った。
『あー……死にたくねぇー……舞、乃々香、絆奈、みつば……おまえたち……が……しあわ…………い……』
ゴン、と重い音が響き、画面が真っ暗になる。
「ここまで」
不意に、舞が手を伸ばしてスマホの画面をタップし、再生を止めた。
「そっから先は雑音だけ。すぐにカメラアプリが落ちちゃったみたいだけど、データは無事だった」
舞は絆奈の手からスマホを取り上げ、かすかに笑って。
「なんか、鳴くんへのメッセージのほうが多いよね」
「……舞さんたちには言葉を尽くす必要はなかったのかも」
遺すべき言葉がありすぎて、言い切れないと思ったのかもしれない。
可能性はいくらでも思いつくが、もう確かめるすべはない。
「どうかな。でも、鳴くんも観てくれてありがとう。そろそろ、あたしは戻るね。長女の責任、少しは果たさないとね……」
それから、舞はくるりと身を翻して病院のほうへ戻っていった。
スマホを持った手が、かすかに震えていたことに鳴爽は気づいた。
「私も……戻らないといけませんね」
「そうだな、俺も病室まで付き合うよ」
「ありがとう……ございます……」
絆奈はその場に、ぱっとしゃがみ込んでしまう。
それから顔を覆って、あたりをはばからずに大声で泣き始めた。
そうだろう、泣きたいに決まっている。
ドラマみたいに誰かにしがみつくこともなく、普通は一人で泣くものなのだろう。
鳴爽は黙って絆奈のそばに立ったままだった。
彼女に触れることもできない。
触れたら、それだけで壊れてしまいそうだから。
――次はおまえだ――
託されたものを守るために、最初にやるべきことは決まっている。
好きなだけ泣かせて――涙を止めてやらなければならない。
四人全員の涙を。
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