実習

 わたしはを右手から左手、左手から右手へと往復させ、その度ごとにペダルを踏み換えながらかつての知人を思い出した。

 ――腹の立つ女だった。

 紡織工場でともに働いた中の一人だった。仕事はよくでき、容姿も優れていた。同僚たちからの人望もあり、年若い娘たちばかりの職場にあって『少女の友』を読み耽るような者からは憧れの視線を向けられていたはずだ。

 ――あの女の織る布は美しかった。

 まだ自動織機のない時代だった。せいぜい杼を手で飛ばさずに済む程度の仕掛けがあるフレーム織機が出てきたばかりで、多くのペダルと複数の杼を駆使して複雑な模様を織り出すことのできる者は工場の中でも特別な一角で高価な布を織っていた。あの女は、私と同い年であったのにそんな上級職人の仕事をしていた。

 そしてわたしを目の敵のようにもしていた。美しく人に好かれる彼女がわたしに向ける敵意は、彼女を信奉する取り巻きたちにうつり伝わり、わたしが息苦しい織工時代を過ごしたのは確かだ。思い出すだけではらわたが煮えた。

『素朴な織り目ね』

 何気ない様子を装って彼女は私の布を貶した。紬を織る部署に配されたわたしは、銘仙向けの布を織る子たちに比べれば上級の織り手ではあったけれど彼女からすると明らかに格下だった。

『ご挨拶ですこと』

 信州の山の中の女工ではあったけれど娘たちは女学校言葉を真似ていた。

『荒れた織り目も紬には似合っていてよ』

 あの女が嫌味に笑ったゆうには決まってわたしの履き物や荷物がおかしな場所に隠されていたりしたのだった。

 わたしはおもちゃのような織機をぎこちなく操作した。皺の刻まれた指はとうていかつてのようには動かないし、震えがちだった。老眼鏡もごく限られた範囲しか見えなかった。幼児の遊戯のような歌や踊りに馴染めず、老人ホームの外れに放置されていた織機を見つけて糸を張ってみたものの、老いた自らを思い知らされるばかりだった。

 二日織り、一日間をおいてまた織機に戻ってみると誰かが触れた痕があった。誰かがわたしの作業を引き継ぎ、三寸分ほどを織り進めていた。

 ――どういうことかしら。

 誰でも入れる共用の作業部屋で、近くの藤籠には編みかけのセーターが置かれていたしジグソウパズルの広がるテーブルもあった。誰かが触れてもおかしなことではなかった。

 ――けれど。

 平織りしか織れない単純な織機ではあったけれど織り目の違いは明らかだった。わたしのむらのある織り目とは違い整然としていて素材が絹であればもっと映えたに違いなかった。女工時代のあの女を連想させた。

 わたしは一日おきに織機の前に座った。わたしのいない間にきまって、端正な目で三寸ほどが織られていた。わたしと見知らぬ誰かが交互に作業を進め、五日で布は織り上がった。

 ――糸を張るべきかしら。

 空になった織機を見て迷った。完成したのは大きめのハンカチーフといった大きさのもので、娘時代にそうしていたように小さくひまわりの刺繍を入れた。

 迷ったまま数日が過ぎ、織機の置かれた部屋を覗いた。小振りのフレーム織機は空のままだったが、近くのテーブルに腰機こしばたの入った籠が置かれていた。

 ――まあ。

 小さく丸められた腰機は糸が通っていた。

 ――ひい、ふう、みい、よ、いつ、むう……。

 綜紘そうこうが六枚もあった。

 ――これでは手を出せない。

 単純な平織りであれば綜紘は二枚で済むはずだった。がらを織り込むために多く綜紘が必要に違いなかった。それはつまり、柄かわかっていなければ手の出しようがないうということだった。

 少しだけ気落ちした。人の手仕事に勝手に割り込んできた誰かは、自分の作るものに手出しさせる気はなさそうだった。

 ところが二日後、織機の様子を覗きに行ってみると少しだ織りの進んだ布には特徴的な柄が現れていた。

 ――花織はなうい……。

 また、女工時代のあの女を思い出す。初めて会話したときのことだった。

『珍しい柄のお召し物に珍しい名字ですのね』

『どちらも琉球ではありふれてますわ』

 互いに名乗ったばかりだったけれど、あの女はそう言って馬鹿にしたように鼻を鳴らしたのだった。花織というのは琉球――沖縄の伝統的な柄織物で、彼女が好んで着ていた柄だった。

 ――歳を取ると昔のことばかり思い出すというけれど。

 思い出したくない相手のことばかり思い出してしまうことにため息が出た。

 ――ふみ

 小さく巻き取られた腰機に畳んだ紙片が挟まれていた。その紙片がなんというか――女学校的な、頓服でも包んでいるかのような凝った畳み方だった。紡績工場の宿舎でも流行っていたものだ。同じような世代が集まる場所とはいえ、不思議な気がした。広げてみると数字の羅列が記されていた。一目でわかった。綜紘の操作手順だった。すなわち、この花織の織り順が示されたものだった。

 ――わたしに、織れと?

 フレーム織機しか使ったことがなく、姿も知らない相手の誘いに乗って良いものか戸惑いもしたが、好奇心が勝った。腰機に触れてみたかったし、不愉快な記憶と結びついてはいても、花織を織ってみたかった。

 初めての腰機に戸惑いはしたけれど、織機というのはどれも似た仕組みで、すぐに馴染むことができた。花織もそうだ。柄――紋組織は割合にシンプルで年老いた頭でも覚えることができそうだった。

 ――自然に手足が動くようにはならなさそうね。

 腰機はフレーム織機のようには効率的には織れなかった。綜紘も筬も手で持つだけで支える仕組みはなく、それでも世界中の様々な場所で使われ続けてきたのは、片づきの良さと持ち運びができること、織ることのできる布の種類が豊富だからだろうと実感を持つことができた。

 ――そういえば。

 女工たちの宿舎で、談話室に自分の腰機を持ち出してきて織って見せていたあの女を思い出した。

『腰機も慣れてくればけっこう手が速くなりましてよ』

『琉球でも腰機を使ってらしたの?』

『いいえ。こちらでいうところのフレーム織機ばかりでしたわ』

 今にして思えば、信州の田舎町の女工が女学校言葉を真似しているというのもおかしなことに感じられたけれど、海外向けの絹を織る私たちは並の男の十倍近い稼ぎを得ていて、都市の富裕層の子女のような“文化的”な大正モダンを楽しんでいた。特に琉球出身のあの女は、アイヌや沖縄の文物が野蛮で田舎臭く恥ずかしいものとされていた時代にあって、臆することなく華やかさを誇る眩しさがあった。

 そんな彼女の花織が談話室に置かれたままになっていたことがあり、人気のない部屋で手に取ってみたことがあった。文句なしに美しい布だった。紋組織というのは単に織り出す模様のためだけのものではない、文化と呼ぶしかない洗練が組み込まれていると知った。派閥を作り何かと嫌がらせをしてくるあの女には腹か立ったけれど、琉球の布も織りの技術も、あの女には反感を超えて感嘆させる何かがあったのだ。

 ところがその後、彼女が娯楽室に放置していた布を誰かが汚し、台無しにされているのが見つかった。人気ひとけのない談話室への誰かが見ていたらしく、わたしへ疑いがかかったけれど身に覚えのないことだった。そこへあの女が『いいえ。あの方はそんなことをなさらないとわたくしは存じておりますわ』などと奇妙な庇い方をしてきて周囲はなぜか彼女の心が広いと持ち上げ、逆にわたしは犯人と決まったらしかった。そういうこじつけが彼女、あるいは彼女の取り巻きにはよくあった。

 ――うんざりする思い出ばかり蘇る。

 花織はこんなに美しいのに、と悲しくなった。もっとも、腹立たしい思い出も、歳月を経てみれば懐かしくないとも言えなかった。わたしにはあの女のような取り巻きはいなかったけれど、徒党を組むのを嫌うアウトサイダー――当時はそんな少女像が少女雑誌や欧米の編訳物少女小説の主人公の定番だった――がさりげなく共感を見せてくれたことも思い出す。そう、たとえば腰機に最初に添えられていたいたような独特の折り方をした手紙のような形で。差出人が伏せられたまま、孤高を称える詩に押し花が添えられていたりしたものだった。

 わたしは一日おきに小一時間ほど腰機の前に座った。そして次にまた腰機の前にやってきた時には同じように三寸ほどが新たに織り進められているのだった。

 ところがある日、わたしの織り順でない日だったけれど、腰機の置かれた談話室の前を通りかかると筬を打ち込む音が聞こえてきたのだった。中の様子を覗かずにはいられなかった。腰機の持ち主を待ち伏せしてまで正体を知ろうとは思わなかったし、知らないままの方が楽しかろうとも思ったけれど、思わず、だった。

 あの女が座っていた。

 女工姿の、当時の少女のままの姿であの女が腰機に向かい背を向けているように見えたのだった。

 それはもちろん一瞬の錯覚で、見直してみれば実際に座っていたのは筋張った手をした白髪の痩身の老女だった。なのにその後ろ姿の老女はわたしにはやはりあの女――女工時代の確執の相手にしか見えなかった。

 わたしの気配に気づいたのだろう、腰機の老女が振り返った。

「あら」

 細く掠れかかった年老いた声だった。けれど「あら」というその口調、響きは確かに覚えのあるもので“あの女”に違いなかった。

「……なぜ」

「お久しぶりね。なぜって、ホームに入所したからここにいるのですわ」

 何十年も前のままの女学生言葉で彼女が応じた。わたしはもつれそうになる足で近づき、二の腕に――パフ・フリーブの半袖に掴みかかった。

「なぜっ」

 年老いた指に力を込めても頼りなく滑ったけれど彼女の手がわたしを受け止めた。そのままわたしは「なぜ」と連呼しながらしがみついたのだった。

 そう。“あの女”は娘時代の恋人だった。表面的には対立して見せていたし、彼女の取り巻きたちは確かにわたしを敵と見なしていたけれど、わたしは彼女に恋をし、彼女もまたわたしを慈しんでくれた。

 ――なのに。

 彼女はわたしを裏切り、富豪の元へ嫁いでいった。以来、わたしにとってはずっと憎しみの対象である“あの女”でしかなかった。

 そのはずだった。

「花織にもしかしたらと思っていました。でも、ありえないとも思っていました。あなたはなぜこんなところにいるのです? 嫁ぎ先とともに大陸に渡ったはずでは――」

「結婚は我慢がならなくて一日で飛び出してしまったの。あなたが恋しくてならなかった。織機にかかった布を見て目を疑ったわ。どう見てもあなたの癖が織り込まれているのですもの。あんなおもちゃの織機でも、織った人を教えてくれるなんて」

 肩口に顔を埋めると彼女は頭を抱いた。肉の落ちた身体は互いに歳を取ったことを伝えてきたけれど、わたしにとってはあの頃のままの彼女だった。

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