第3章:脅威潜む銀炎(2)

 林の中を、蹄の音高く響かせ馬を走らせる青年の姿があった。

 木々の合間から降る、夏の始まりの強い太陽光が鬱陶しい。まとわりつく空気は熱を帯びていて、ただでさえ逃避行で汗をかきまくっている身体を更にじっとりと濡らす。

 ずっと走らせてきた馬も、さすがに疲弊しているのがわかる。だが、悪いとは思いつつも、今、足を止める訳にはいかない。立ち止まれば、その先に待つのは、帝国に捕らえられ、尋問と拷問の果てにある死だけだ。

「いたぞ、追え!」

「反逆者を逃がすなよ!」

 声が反響し、振り返れば、馬を走らせてくる銀色の鎧の姿が見える。ちっと舌打ちして、青年は馬の速度を上げる。

 鞍に取り付けてある、銀の鞘に収まった両手剣が、馬の動きにあわせて揺れる。この重みさえ捨てれば、逃げ足を速くする事ができるのだろうが、これを放棄する訳にはいかない。これは本国に残った同志から託された、解放軍の希望なのだ。命に代えても、しかるべき人物のもとへ届けなくてはならない。

 林が途切れる。ここを抜ければギャラルン河だ。まだ完全にではないが、水は引き始めている。相棒に頑張ってもらえば、渡河も可能だろう。ほっと息をついた瞬間、目の前に赤い転移魔法陣が生じて、青年は息を呑んだ。

 現れたのは、黒いローブに身を包んだ、褐色の肌の男。魔族だ、と認識するが速いか、相手は右手を掲げて短く詠唱する。

 避ける暇は無かった。放たれた黒い光球が胸に直撃し、衝撃に顔を歪める。だが、それ以上の打撃にはならなかったので、青年は鞍から槍を抜き放ち、馬で駆ける勢いのまま、鋭い穂先を魔族に向けて突き出した。

 刃は過たず魔族の胸板を貫く。こちらの足を止める事は出来ないまま死にゆく魔族は、しかし何故か、深々とかぶったフードの下で、唇を笑みの形に象っていた。

 槍を引き抜く暇さえ惜しい。柄から手を離して武器を放棄すると、事切れてゆっくりとのけぞる魔族の横を駆け抜け、河岸へと降りてゆく。

 ずきり、と胸が痛んだが、今は己の身体を顧みている場合ではない。そう言い聞かせて、青年は馬を走らせ続けた。


「お姫様、河向こうで動きがあったぜ」

 ギャラルン河近くの砦に身を落ち着けて十数日。見張りについていたクリフがエステルのもとへ報告にやってきたのは、太陽が南中を過ぎる時刻の事だった。

「動き、とは?」

 椅子に座ったまま、疑問に表情を曇らせるエステルに対し、クリフは顔の前で人差し指を立てる。

「河を渡ってくる騎士が一人いる。最初は敵かと思ったが、帝国軍に追われてるから、どうも味方っぽい」

 その言葉に続けて語られた騎士の容姿に、エステルは思わず腰を浮かせかけた。

「ユウェインです!」

 特命を受けてグランディア帝国に潜り込んでいた彼が追われているとは、彼が解放軍こちら側の人間と露見したからに違いない。余程の一大事があったのだろう。

「すぐに助けましょう!」

 エステルの指示のもと、すぐさま手の空いている者が招集される。クレテス、リタ、リカルドの、トルヴェールでユウェインとよしみのある人間に加え、実妹のロッテ、そして帝国軍の追撃を断ち切る攻撃役として、セティエとティムが、エステルとアルフレッドと共に砦の廊下を駆け抜けた。

 一同が河岸に辿り着いた時、ユウェインは既に馬ごと腰近くまで河に身を浸し、流れにさらわれぬよう、そして帝国兵の追撃を受けないよう、必死の形相でこちらに向かってきていた。

 反対側の岸から弓兵が矢を放つのを見とめて、ティムが咄嗟に風魔法を発動させ、ユウェインに当たらぬよう軌道を逸らす。その間にリカルドが、持参した縄を自分の腰に巻きつけ、解けないよう固く結ぶと、「持ってろ!」と先をクレテスとリタに託して、河へと飛び込んだ。

 大分かさが減ったとはいえ、大河の水は容赦無く足元をすくおうと流れてくる。なかなか縮まらないユウェインとリカルドの距離に、縄を持つクレテス達はひやひやし、ロッテは蒼白の表情になりながらも、ただ成り行きを見守るしか無い。

 それでも、必死の形相で水をかき分け、リカルドがユウェインの腕をひっつかんだ時には、「よし!」とリタが快哉を叫び、力強く縄を引き寄せた。

 だが、向こう岸の帝国兵も、甘んじて見逃してはくれない。再び矢をつがえたのを見て、今度はセティエが詠唱を始めた。

 かざした手から複数の炎の矢が巻き起こり、河を飛び越える間に業火となって、敵兵に降り注ぐ。彼女が祖父から受け継いだ『メギドフレイム』は遺憾無く威力を発揮し、対岸の敵兵を焼き尽くした。

 その間に、リカルドが、ユウェインに肩を貸しながら、こちら側へ戻ってくる。人も馬もずぶ濡れで、ユウェインは心なしか顔色が悪い。相当の逃走劇を繰り広げてきたのだろう。

「リカルドさん、ありがとうございます!」

「大丈夫か」

 ロッテが安堵の息をつき、リタが縄から手を離してユウェインに駆け寄る。が、彼は応えもそぞろに、愛馬の鞍につけていた両手剣をつかむと、

「……エステル様に」

 今にもその場に倒れ込みそうな、疲弊しきった顔をしながらも、必死に言葉を紡ぎ出した。

「エステル様に、ご報告を」

 それを聞いたエステルは、慌ててユウェインの傍に駆け寄り、身を屈めてぜえぜえと荒い息を繰り返す彼の前に膝をつく。

「どうしたのですか、ユウェイン。アガートラムで、何があったのですか」

「エステル様、これを。白銀聖王剣『クラウ・ソラス』を」

 呼びかけに、ユウェインは虚ろな目をしながら、銀の鞘に収まった剣を差し出す。だが、エステルがそれを受け取ろうと手を伸ばしかけた時。

「――エステル様!」

 がしゃん、と銀の剣が地面に落ちる音と、アルフレッドの叫びと共に、視界の端でぎらりと剣呑な光が瞬く。それがこちら目がけて振り下ろされる寸前、エステルの眼前に広い背中が割り込み、低い呻きが聴こえた。

 一瞬、何が起きたのか、その場に居合わせる誰もが、状況をわかりかねた。だが、ぽたぽたと地面に落ちる鮮烈な赤が、エステルの意識を現実に引き戻す。

「叔父様!?」

 エステルとユウェインの間に割って入ったアルフレッドが、腹に短剣を受けている。その短剣を握っているのは、他でもない、ユウェインだった。アルフレッドがよろめいて、短剣が引き抜かれると、ユウェインは血濡れの武器を持つ両手を震わせながら、

「エ、ステル様」

 苦悶の表情を浮かべて、まるで自分の身体が意志に反しているかのように、必死に己の手を抑え込もうとしつつ、声を絞り出した。

「逃げて、ください。すみま、せん。帝国の、魔族に、術を」

 その後は、言葉にならぬ叫びをあげながら、彼は再度短剣を振りかざす。リカルドが、クレテスが、リタがそれを押しとどめようと飛びかかったが、二度目の凶刃は、鋭い音を立ててユウェイン自身の手に突き立てられた。

「お兄様!」

 ロッテが悲痛な叫びをあげる。それに構わず、リカルドがユウェインの鳩尾に拳を叩き込むと、彼は肺の中の空気を吐き出す音を口から放って、ぐったりと脱力した。

 すると、重い一撃で完全に気絶した彼の身体から、黒い靄がけたけたと笑いながらのぼり立つ。

「魔族の、暗示術の悪霊!」

 セティエが忌々しげに吐き捨てて、短く詠唱する。威力を抑えたメギドフレイムは、一瞬にして靄を吹き飛ばし、けたけたけた、と嘲るような哄笑だけがその場に残った。

 逃避行の途中で、エステルに会った時に暗殺にかかるよう、魔族に術を撃ち込まれていたのだ。その脅威は去ったものの、それで終わりではなかった。

「叔父様!」

 エステルは、腹をおさえてうずくまるアルフレッドに呼びかける。抑えた指の合間からどくどくと血が流れ出し、地面に血だまりを作ってゆく。

「エステル、様」

 額に脂汗を浮かべながら、それでも叔父は、こちらを向いて必死に言葉を投げかけた。

「『クラウ・ソラス』を、クレテス、に。クレテス、なら、使い、こなせます」

 そこで限界が訪れたのか、アルフレッドの身体がぐらりと傾いで、受け身を取る事も出来ずに地面に倒れ込む。

「叔父様!? 叔父様!」

 自分をかばって酷い傷を負った叔父の身体を揺さぶりながら、エステルは必死に呼びかける。その傍らでは、クレテスがユウェインの持ってきた白銀の両手剣を拾い上げ、

「何で、おれの名前が出てくるんだよ」

 と、唖然とした表情で、『クラウ・ソラス』と呼ばれたその武器を見つめていた。

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