KAC2021

妖精とボタン*金糸雀と詐欺師

 千枝ちえはネイグリフォード侯爵の袖口を飾るボタンが取れていることに気がついた。直接言うか、後から伝えるか、議論を交わす二人を横目に熟考する。

 藤堂とうどう邸に招かれた千枝としては差し出がましい行動は控えたい。しかし、使用人として働く者として目をつぶるのも心苦しい。

 千枝が踏ん切りをつける前に、先程から話していた事件の顛末は落ち着いた。藤堂邸の従僕が新しいお茶を並べて去っていく。他家の手前を直接見ることが少ない千枝はそれを凝視してしまった。ひとくち味わって、鼻に抜ける香りと渋味のないすっきりとした味わいに感心する。自分も精進せねばと心の中だけで奮起した。

 後は帰るだけだ。決心が遅すぎたことを後悔する千枝の横から違う答えが出された。


「ネイグリフォード卿、袖のポケットが取れています」


 家の者になおさせましょうか、と千枝の隣に座る直幸なおゆきが片手で示しながら伺う。

 侯爵は今気付いた様子で胸まで上げた袖を覗き見ていた。ジャケットに三つ並ぶボタンの一つが姿を消し、もう一つも取れかけている。


「妖精のいたずら、かな」


 少しも困った様子もなく侯爵は顔の皺を深くした。千枝の狭まった眉間を見て、口端を上げて続ける。


「わたしの国では小さなふしぎなコトを『妖精のいたずら』と呼びます」


 妖精という聞きなれない言葉を聞いた千枝は以前、かじった西洋の妖のことを思い出す。何処の国でも不思議なことは見えないもので解決するらしい。この国でも神隠し、家鳴、貧乏神と説明できないものは妖の仕業とすることが多い。

 わからないことはわからないまま片付けるのも一種の知恵なのかもしれない。


「山本サンは裁縫をされますか?」


 唐突に投げられた言葉は貴族の気まぐれだ。ままあることなので、動じることはない。


「私でよろしければ、お繕いさせていただきます」


 千枝の答えは簡単に出た。にわかに横から驚きの雰囲気が出るが黙殺する。

 侯爵は礼を言って立ち上がり、動きを止めた。小さく笑い声をこぼしてソファの背もたれと座面の間に手をのばす。

 大きい掌にのったこげ茶色のボタン。お恥ずかしい、と侯爵は片方の肩をすくめた。


「見つかって良かったですね」


 わずかに微笑む千枝はそう返した。ボタンの持ち合わせのない千枝にとしても嬉しい展開だ。

 侯爵からジャケットとボタンを受け取った千枝はジャケットを膝の上に置き、ボタンは転がらない位置にのせた。細く息を吐いて気持ちを調える。ソファの端に置いた鞄から小さな箱を取り出した。

 姿を見せた本革の簡易裁縫箱は千枝の宝物だ。指の先で箱を撫でてから開ける。深緑のビロードに包まれた手のひら半分の西洋鋏せいようばさみは繊細な装飾を施されながらも実用に優れていた。細くとがっま先はどんな繊細な作業にも強い味方となる。他には同じ作りの面取り、針入れと少量の糸が赤、黒、白と三色入っていた。


「舶来品だな」


 顎に手を置いた直幸がしげしげと裁縫箱を眺めた。千枝の給金では簡単には買えないことを読み取り、一つの予想を口にする。


たまきさんからの贈り物か」

「……違います」


 裁縫箱のことを話すことは価値が減るようで嫌だったが、たまきに嘘はつけない。千枝は取れかけたボタンの糸を切りながら否定した。


「では、紀壱きいちさんから?」

「そうですね」


 ほとんど合ってはいるが、微妙に違う。環の兄、紀壱が留学した折りに買って帰った使用人用の土産の一つだ。使用人部屋にところ狭しと並ぶ土産は、ざっくりと男性用、女性用と分けられ、箱の中身がわからないまま選ぶというものだった。千枝が引き当てたのは小さな裁縫箱。他の使用人は香りの良い石鹸やレースのリボンなどを引き当てていた。

 千枝への贈り物ではないが、紀壱からもらった事実だけで満足だ。

 ふーん、と直幸は気のない返事をして、侯爵は面白そうに目を細めていた。

 千枝はボタンに絡んだ糸を丁寧に取り除く。肌触りと風合いで水牛ボタンとわかり、そうそう触ることのない代物に指が震えないように気を付けた。針に糸を通し、ボタンの位置を確認して布をさす。


「妖精のいたずらでよくある話があります」


 千枝は懐かしむように言う侯爵を見た。作業の傍らで聞いてはいけない相手だ。手を止め、姿勢を正す。

 構わずに続けてください、と侯爵は千枝の作業を促してから話し始めた。


「男と女が町へ買い物に出かけました。楽しく過ごしていたのですが、帰る時になってボタンがないことに気が付きます。袖口のボタンを探すために来た道を帰ります。それでも見つからなくて、結局、諦めて帰りました」


 所々、発音が怪しかったり、言葉を選ぶためか妙な間が空く。侯爵は千枝の手元を見て、ワタシみたいでしょう、とお茶目に片目をつむって見せた。


「家の前でポケットに手を入れた男はやっとボタンを見付けることができました。それまで一度も右のポケットには手を入れていないのに不思議です。それを見た女はジャケットを預かり、ボタンをつけることを申し出ました」


 侯爵は不思議な話でしょう、と無邪気に瞳を輝かせた。

 千枝は何かがひっかかって、そうとは思えない。


「男は妖精のいたずらに見せかけたのでは?」


 直幸の答えに、侯爵はそうかもしれませんね、と曖昧に返した。

 直幸は紅茶で口を潤して続ける。


「男が女とまた会いたくて、わざとボタンをポケットに忍ばせたのでしょう――要するに、かまってほしいってことですね」

「この話には続きがあります」


 直幸は眉をぴくりと動かしたが、表情は笑顔で抑えていた。

 終わりのような雰囲気で頓挫し、続きがあるとすっとぼける侯爵は何食わぬ顔で続ける。


「慌てて探しに行った男が女の家に帰ると、女は消えていました」


 千枝はゆっくりと瞬き、直幸は目をすがめた。


「部屋に残されていたのは男のジャケットと手紙だけ。男のジャケットにはちゃんとボタンが付いています。手紙には『ごめんなさい、ありがとう、さようなら』と書かれていました。ジャケットを探っても他には何もありません。男は嘆き悲しみ、女を探しましたが見つかりませんでした」


 どうして、こうなったのでしょうね? いたずらっぽい表情を浮かべた老紳士は衰えを見せない青い瞳で直幸と千枝に訊ねた。


「不可解な点はいくつかありますが、他に相手ができた、という答えは最初から消して置きましょう」


 直幸の言葉に侯爵は当然のように頷く。


「次に会う約束をしていたのに、会わなかった――女は会えない理由ができた」


 組み合わせた手の一方の親指が対となる指の爪を撫でる。直幸は小さく口に出して考えを千枝に示した。顔を向け、千枝に考えを乞う。


「何か気になる所はないか?」


 貴族が使用人に言葉を求めるなんて稀な話だ。小さい頃から使えてきた心優しい萩久保はぎくぼ家は別として、直幸や侯爵は千枝のことを相応に扱ってくれる。人柄もあるだろうが、侯爵はお国柄ということもあるだろう。直幸は仕事仲間としてかもしれない。

 稀少な扱いに、どうしてこうなったかな、と頭を悩ませつつ、千枝は気になったことを口から出す。


「……ボタンが取れただけで困るようなジャケットをどうして着ていたのでしょうか。人から借りていたのならともかく――」

「――貸衣装を着るほどのこととなると、男は女に求婚しようとしていたのでは?」

「そういうものですか」


 胡乱げな瞳は直幸の首肯を映す。


「そういうものだ。一世一代の大勝負によれよれの服で挑む奴はいないだろう」


 心の中だけで千枝は呆れた。ボタンを無くしてそれ所ではなくなった不甲斐なさに同情すら覚える。


「それに感づいた女が上着に求婚の品があると読んで持ち去った、と」

「『ごめんなさい、ありがとう』ってわけですね」


 千枝の心の籠っていない相槌に頷きそうになった直幸はいや、と自分の答えに反論する。


「女がボタンをポケットに隠すことはできるだろうか」

「男はボタンを落としたくないでしょうし、女は男に気付かれずにボタンを外すことはできないでしょうね」


 女にはボタンを取る理由はあるが、男にはない。

 正直、男女のいざこざに興味のない千枝はどうでも良くなっていた。侯爵がいる手前、「だからどうしたと言うのでしょう」とは言えない。話を振った侯爵にも失礼だ。


「ジャケットから消えたのはボタンだけか? 求婚の品が入ったジャケットをわざわざ預けるか?」

「預けませんね」


 千枝の同意に直幸はさらに眉間を狭めた。


「まだ続きがあります」


 千枝の鉄壁の顔も半眼をせざるをえなかった。

 隣からは文句を言いたげな雰囲気が出ている。


「男はジャケットを返したあと、貸し主から苦情が入りました。汚して返してどうしてくれる、と。男は身に覚えがないのですが、汚れたジャケットを見に行きました」


 侯爵は間を取り、直幸と千枝をたっぷりと眺めたあとに言葉を紡ぐ。


「ジャケットのポケットには血濡れた指輪が入っていたそうです」


 侯爵は誰の血で汚れたのかも、いつの間に指輪がポケットに入れられたかも説明しない。

 無言の押し問答が場を満たす。


「妖精のいたずら、信じてもらえました?」


 それは本当に妖精か、と千枝は好好爺然とした笑顔に訊けなかった。


「それは神秘ミステリーですか。怪談ホラーですか」


 異国の言葉を用いて直幸は質問を返す。

 千枝には意味がわからなかったが侯爵には真の意味が伝わっているだろう。


「邪魔をしたかったのか、助けたかったのか、わかりません」


 細められたガラス玉のような瞳から真意は読めない。氷柱のように光を反射していた。

 直幸はため息をこぼし、侯爵は千枝の手元に視線を送る。


「邪魔をしましたね」


 千枝が俯いた先には中途半端なボタンが静かに座していた。

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