第4話小学生低学年の頃
私は幾つもの塾や家庭教師を勉強だけでいくつも行っていた。
今では考えられない酷い虐待行為をする塾が昔は多かった。
習い事等は母親に一任されていて、自分も泳げないのにいきなりビート版もなく
突き落として一回に三キロ泳がせるような習い事もしていた。
塾では百点で体罰無し、採点をして七十点なら三十発太ももにDVDなどのパッケージくらいの太さもある定規で叩かれた。
母親にその腫れて色が変わっているのを見せても無理矢理行かされ続けた。三年くらい通った記憶がある。
家庭教師には多少の体罰は許していたようで、部屋から逃げても引きずられて無理やり勉強をさせられていた。
加えて学校でもいじめにあい、母親は父親に結果だけ報告し、世間には尊敬されている父親からの体罰も受け続けていた。
カウンセラーさんや保健士さん等に同じような苦しみの話す場みたいなのがよく海外ドラマで見かけるんだけど、私に近い人でもいいのでいませんか? と聞いたがいないと言われました。確率的に1%くらいしかないのは分かっていたのですが、このような話が世間に出ないのは何故かお話します。
私は自ら幼少期に親に対する不信感や助教授だった叔父のおかげもあり、人間として生きてこれました。幼少期に哲学的な思想に悩むのは幾つもの事が重なり合い更に親に歯向かうことを成した人に限定されてしまいます。結果から言えば”ありえます”が総合的な答えから言えばなかなかありえない事です。
一般的にそれなり以上の資産がある家では親に洗脳のように私が前に話したような科学研究百ページ以上出してた事にすらそれに疑念を持たず生き続けます。親が決めた学校へ行かされ、言われるがままに育ちます。気づいた時には……私が思うに気づかないと言ったほうが正しい気がします。
私の同級生に小学校から同じではあったのですが、お互い似たような種類だったため中学生から仲良くなった友人がいました。私は中学生の頃には親に完全に反抗していたので溜まり場でもありました。学校では毎日のように喧嘩をしてました。
二十歳くらいから年末に5、6人で集まって飲むようになってからそいつとは一切喧嘩もなく逆に助けてたのにも関わらず、中学の時、実は目を合わせるのも怖かったと言われてびっくりしました。
溜まり場なだけに私一人だけしかいない時は滅多になく、相談できるのは私しかいないと彼は言い、また来るといって帰って行ってたのをよく覚えています。
彼は携帯も持つことが出来ないようにされていたので、誰とも接触することがほとんど出来ないまま大学生活を送っていました。私は中学時代の事や母親に反抗した事によって世間に私の悪評をまき散らしていたので、私との付き合いも高校くらいから禁止にされていました。
彼は幼少期に親が離婚をして長男であり跡取りとして残り、弟は母親と一緒に出て行きました。彼が唯一小さい頃からやっていた野球も禁止にされ、私とも昼間は会えないので彼が最近は夜釣りが趣味だというので何度か一緒に行って話したことはあります。親の跡継ぎとして経営学を学び親と祖母に逆らえず、当時の私にはわかりませんでしたが、今回私の最強のメンタルの壁が壊れて知りましたが、本当の孤独です。誰かに言ってバレればとかのレベルではなく、その友人は私よりメンタル面も強いはずだったのに彼は孤独と今後一生涯孤独な事にも気づいているはずです。私もあらゆる手を尽くしましたが初めて不可能だと諦めました。
やるだけやって道が無かったので当時、死を受け入れることは苦ではありませんでした。どちらかというとやるだけやったと自信を持っていたので、我が一族に核爆弾を落としてやるつもりでした。私が遺書を残し、自殺すれば私に味方してくれる人たちも動いて真実を暴いてくれると、そうなるなら私の命など安いものだと今でもそれは思いますが、幼馴染が私を死なせなかった事で全ては終わりました。
ちなみにその友人がおかしくなっているから会いに行ってほしいと中学時代の友人たちに頼まれ会いに行きました。話してすぐわかりましたが、完全に心を閉ざしてしまって死ぬまでの道のりしか見えない状態になっていました。私は次の日、昼休憩だろうと思い会いに行きました。近くの小さい公園の石のベンチにこしかけて一人でご飯を食べてました。彼の背中を見ただけで私ではもう助けられないと悟りました。悲しいが事実として受け入れ私は話しかけずそのまま帰りました。
事実、親や親族などからの圧力からそういう風になってしまうのは人間味のある人ばかりです。疑問や疑念にまだ慣れてない年齢にも関わらずその苦悩が解決することはありません。彼は跡取りとして残り、死までのルートは決まっていましたがメンタルがやられたため人と普通に会話ができなくなり社長になるはずがマネージャーという肩書で誰からも敬遠されているのが現実です。事実を知らない人たちからは気持ち悪がられ誰にも話しかけられなくて、誰も話しかけてくれない。
仮に彼の今までの軌跡をカウンセラーなどに話そうとすれば、それだけでも数年かかります。
今私が書いているように根底から話していかなければ理解できない世界なのです。
私は二度目の自殺をする前に、私に愛をもって接してくれた数少ない大学の叔父に電話しました。叔父さんは覚えててくれたのかと泣いてました。私も同じように泣きました。叔父さんはその後出世して今は副学部長だったか大学で二番目の地位についていました。叔父さんは遠縁ですが一族のため母親は圧力をかけれない人で叔父さんの家にまだ小学生低学年の頃から遊びにたまにいくと叔母さんを自慢するユーモアもあってそれでいて柔軟で賢い人で、うちのお嫁さん可愛いだろ? とよく言ってました。今回あった時にもそう言ってました。叔父さんの他にも私に味方してくれそうな人たちはいますが、確実に日本を巻き込んでしまうくらいになってしまうので私は恩人である叔父さんたちに迷惑はかけられない道を選びました。
叔母さんとうちの母親は仲が良かったため一緒に行ったのですが、ある時叔父さんと話していて「ん?」と思うことを言いました。私が幼少期に通っていた塾の一つにある中学生一年生の兄と小学六年生の弟がいたのですが、ある日突然、兄が来なくなったことがありました。
叔父さんは「いやー、あの時はびっくりした。兄が首をつって自殺をして翌年弟も同じ日に自殺した時には言葉もなかった」と。
私は死のうと本気でしたのでわかりますが、死ぬには相当のエネルギーを使います。私は悪くないのですが結果的に彼らのように逝くことができなかった。
幼馴染にも言いましたが、「俺はこれから何が起ころうともあの自殺を止められたことは生涯で一番恨むと」誰にも私を理解することができない。これを死ぬまで背負い続けるのはきつすぎます。
幼馴染に「何があったの!?」と聞かれて居酒屋で話したのですが信じない可能性が百%だと思った私は母親がいたので来るように命令しました。
来るにはきましたがすぐに逃げるように帰っていってしまって。居酒屋では終始、幼馴染は大爆笑でした。そんなことするわけないじゃない? 狂ってしまったの?と母私は別に怒る気力もなく苦笑いしながら三時間飲んだあと家に帰りました。
母親がいたので「お前! 今度は逃げずにそこに座ってろ!」と私は言い同じ話をしていきました。最初は幼馴染も笑っていましたが、母親の顔が青ざめていき本当に起きた事なのか? と疑い出しました。「俺が仲介に入ろうか?」と彼は言いましたが私はすぐに言いました。「〇〇君程度じゃ何もできないまま一発で終わる、奴らの相手をするには俺のように戦える精神がないと無理」弁護士立ててきて名誉棄損や虚偽申請で何もできないまま終わって俺に申し訳ないという姿が1、2秒で私には見えました。それをいうと黙り込んだまま座ってました。私に起きた一部分を話しただけでそうなりました。通常の人なら耐えられないとも保健士さんやカウンセラーさんにも言われました。一つでも普通の人には辛すぎるのに、同じようにきついことが連続して起きた。結果は求めるが、手は汚さない連中に囲まれて育っただけに金があっても不幸なのも実体験から理解しました。ほどよくあるのが一番幸せだと。数百、数千億程度を持っている連中は知っていますが内情は悲惨です。
今は奇跡的に二年前よりは良くなってきています。
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