エキシビジョン作品

『YOU'RE MY WIND』

「――以上を踏まえ、当該マネジメント契約が実質上、被告を使用者、原告を被用者とする労働契約の性質を有していたことは自明である。よって、本件事故による原告の受傷は業務上傷病というべきであり、その療養中に当該マネジメント契約を打ち切らんとした被告の行為は、労基法19条に定める解雇制限違反に当たる」


 冷たい空気の立ち込める法廷には、白スーツの弁護士の朗々たる声が響いている。普通の人間は生涯足を踏み入れることがないと言われる法廷の仕切り柵の内側、原告側の当事者席に母と並んで腰掛け、結依ゆいは慣れないVRレイヤーに流れる文字を必死に目で追っていた。

 弁護士が操る難解な言葉の羅列もさることながら、聴覚で捉えるべき情報が視覚に流れ込んでくるという異常な状況は容赦なく結依の脳を揺さぶり、乗り物酔いにも似た気持ち悪さを伴って意識をかき回してくる。彼女がこの補聴眼鏡グラスを掛けるようになってから一ヶ月近くが経とうとしているが、心身を容赦なくシェイクされるようなこの感覚にはいつまで経っても慣れてしまえる気がしない。


「被告側、何かありますか?」


 裁判官が無機質な声で問い、事務所あちら側の弁護士が「いえ……」と力なく答えていた。こちら側の弁護士、白スーツの白山しろやまという男性が評判にたがわぬ辣腕らつわんであることは、中学一年生の結依にも容易に察することができた。


「では、次回、判決期日は――」


 淡々とした事務手続きを経て、裁判官は閉廷を宣言した。次の裁判がすぐに始まるらしく、結依達は急かすように法廷から追い出されてしまった。仮にもまで自分を可愛がってくれていたはずの事務所の社長やマネージャーが、遂に最後まで当事者席にも傍聴席にも姿を見せなかったことが、結依の小さな胸をきゅっと締め付けてきた。


「白山先生、ありがとうございます。さすが、餅は餅屋ですわね」


 閉廷後、法廷の外で、結依の母は白山弁護士に礼を述べていた。間の会話としてさらりと発せられたらしきその声も、今の結依には眼鏡グラスのレイヤーに映る冷たい文字の並びとして見えるだけだった。


「礼には及びません。芸能界に未だ巣食うブラック体質にメスを入れていくためには、こうした実例を積み重ねていくことが肝要ですからな。ご息女の負わされた絶望は本来、金銭などで償えるものでは到底ありますまいが……せめて、今回の争訟を経て先方の意識が変わってくれることを祈るばかりです」


 VRレイヤーのもたらす目眩めまいや吐き気が顔に出ないように抑えながら、結依は白山弁護士の前で平静を保とうとしていた。淀みなく視界に流れる文字の速さが、自信に満ちた彼の口調やその人柄、そして来月に出るというこの裁判の結果までもを如実に語っているように思えた。


「結依君も、辛さに耐えてよく証言してくれた」


 白山はふいに結依の前で膝を曲げ、その顔を覗き込んできた。白縁眼鏡の奥に光る鋭い眼光が、今は優しい色に染まって見えた。


「こんなことをしても絶望は癒えぬというキミの思いはよくわかる。だが、この裁判をやることで、この先、キミと同じ絶望を味わう芸能人を一人でも減らせるかもしれない。キミと御母上の戦いを、必ずや、この白山白狼はくろうが未来へのいしずえにしてみせよう。……だから、どうか、前を向いて生きて欲しい」

「……はい」


 切なさの衝動を胸の奥に押し込めながら結依は頷いた。白山弁護士が自分に出来る限りの気を遣ってくれていることは、これまでのやりとりからも痛いほど伝わってきていた。


「では、判決を受領したら、すぐにご連絡しますので」

「お世話様でした」


 純白のクーペで走り去る白山弁護士を見送った後、結依も母について車に乗り込んだ。母は結依を家の前まで送り届けてくれると、「安静にしていなさいね」とだけ言い残し、すぐに車で仕事に戻ってしまった。

 クーラーの効いた無人のリビングは、幼い頃から暮らしてきた家なのに、なぜか自分の知っている空間という気がしなかった。父も母も夜まで仕事から帰ってこない。こんな時くらい仕事を休んで一緒に家に居て欲しい――とは、父にも母にも言えなかった。


『おかえりなさい、ユイさん! ご機嫌はいかがですかー?』


 ふいにVRレイヤーに銀色の文字が流れた。パソコンに先日ダウンロードしたばかりのAIソフトが、玄関の指紋認証や人感センサーと同期して結依の帰宅を察し、スリープモードから復帰して声を掛けてきたらしかった。


「ご機嫌……は、あんまりよくないかな」

『あっ、そうでしたか、ごめんなさいっ。美音ミオンでお役に立てることあります? 心を落ち着ける歌とか、おねむでしたら子守唄も――』

「……ごめんね、ミオンちゃん。今は一人にしておいて」


 結依はソファに力なく背中を預け、パソコンの中の少女が「はぁい」と答えて沈黙するのを見届けてから、補聴眼鏡グラスを外して静かに目を閉じた。ソフトウェア相手に謝る必要もあるまいが、これだけ人格めいたものを持って自己主張してくる相手に対しては、テレビの電源を切るかのように一方的に会話を打ち切ってしまうのは申し訳ない気がした。

 電脳歌姫サイバーディーヴァ美音ミオン。退院から復学までの間、家に一人では寂しいだろうと両親が結依に買い与えてくれた、最新モデルの歌唱ソフトウェア。使用者マスターの好みを学習して成長していくとの触れ込み通り、パソコンの中のは早くも結依の境遇を理解して気遣いを見せてくれるまでになっていたが――

 それでも、結依の心の穴を埋める足しにはならない。

 お金で買えるようなモノでは、大切な人を喪った代わりにはならないのだ。


「……お金なんか、いらないのに」


 自分の喉から声が出たのか出ないのかも、結依にはもう分からない。

 決して安くはない歌唱ソフトウェアも。保険適用外の補聴眼鏡グラスも。自分を普通の生活に戻してくれるために両親が揃えてくれたそれらも、今の結依には一周して恨めしかった。

 あの事故を引き起こした装置の開発サイドからは、既に、結依の治療費を補って余りあるだけの賠償金が支払われていた。他ならぬ結依の母が、元検事の弁護士という立場を活かし、刑事告訴の見送りをダシに先方と交渉したらしかった。

 そして、労働事件の専門家と言われる白山弁護士を起用しての、結依の元所属事務所に対する賠償請求。この判決が出れば、ひとまずあの事故に端を発する諸々の法的手続きは全て終わるらしい。

 しかし、結依にはどこか切なかった。自分がそうしてくれと望んだわけでもないのに、何かに取り憑かれたようにあの悲劇をお金で償わせようとする母の姿も。仮にも自分を育ててくれた事務所の人達を、唾棄すべき悪者のように言う白山弁護士のことも。

 どんなにお金をもらっても、どんなに世の中をただしても、はもう戻らないのに。


「ミレイちゃん……」


 自分の涙がぽたりと手の上に落ちたとき、その手に握った補聴眼鏡グラスがバチリと光を放ったように結依には見えた。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



『どうしたんですか? マスター。今日は1文字も筆が進んでませんよー』

「何だよ、ウルサイな」

『あーっ、ウルサイは無いでしょ!? 一日1万字のノルマに達してなかったら容赦なくハッパをかけてくれって、美音ミオンに言ったのはどのお口ですか?』


 パソコンの中でぷくっと頬を膨らませてくる電脳歌姫サイバーディーヴァに、和希かずきはチッと舌打ちして、片手に握っていた携帯ミラホを傍らのベッドに放り投げた。


「書くって言ってんだろ。俺がノルマ通り書けなかったことがあるかよ」

『文字だけ埋めても、内容が伴ってないと意味がないんですよー』

「ムカつくヤツだな。どこでそんなイヤミ覚えてきやがるんだ」

美音ミオンはマスターとの交流を通じて個性を涵養かんようしていくのですっ。もしも美音ミオンの口が悪いなら、それはつまりマスターご自身が――』

「ウルサイ! 黙って歌ってろ」

『えーっ、黙って歌うって何ですか? 日本語が矛盾してませんか?』

「アンインストールするぞ、ブス」

『あっ、マスター、美音ミオンの可愛さを舐めてますね? 美音ミオンは可愛いんですよー、マスターが好きなちゃんと同じかそれ以上にっ。歌います、「青空ピリオド」――』


 お喋りな歌姫がようやく己の本分に立ち返り、何百回と聴き慣れたその歌を歌い始めた直後、和希もふうっと息を吐いてパソコンのキーボードに指を這わせた。

 小説というものは、とにかく気分を乗せて勢いで書き切ってしまうに限る。和希が今書いているのはフィギュアスケートを題材とした青春群像劇だった。一作だけに集中するより複数作を同時に走らせた方がスムーズに書けるとのポリシーから、将棋の若手棋士達の物語と一日交代で続きを書き、WEB上の小説サイトに投稿している。中学卒業までにプロデビューを果たすという目標を思えば、一日1万字のノルマなどまだまだヌルい。


『涙を映した空の青さも――爽やかな希望に塗り替えて――』


 電脳歌姫サイバーディーヴァに歌わせているのは、子役アイドル・灼熱のユイの――火群ほむら結依ゆいの在りし日の持ち歌。中学に上がると同時に公営放送の看板娘の座を降り、そして芸能活動からフェードアウトしてしまった、あの小憎こにくたらしい火群結依の……。


「……クソッ。戻ってきやがれ、火群結依」


 結依が姿を消した理由は和希にも分からず仕舞いだった。同じ子役スクールの先輩だった雪平ゆきひら美鈴みれいと無関係ではないと思われたが、仮に美鈴の死にショックを受けて塞ぎ込んでしまったというのなら、そんな腑抜けた結依の姿なんて見たくない。

 ――お前まで消えてどうする。それほど大好きな先輩だったなら、思いを受け継がないでどうするんだ。


『この空の果てのキミを――笑顔にしてあげたい――』


 サビを軽やかに歌い上げる電脳歌姫の歌声をバックに、和希はエディタの画面を文章で埋め尽くしていく。フィギュアスケートの全国大会を目指す主人公――その前に立ち塞がる強敵ライバル、炎の瞳を持つ灼熱の少女の燃えるような描写で。

 火群結依が芸能界から尻尾を巻いて逃げ出すのなら、せめて自分が書いてやる。架空の世界で戦う彼女の姿を。


「見てろ、火群結依……!」


 そんな彼の独り言に呼応するように、電脳歌姫の瞳がぼうっと赤く光ったことには、和希は気付かなかった。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 深い深い闇の中に結依は立っていた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。明晰夢めいせきむと言うのだったか――幼い頃から、結依には時折、今見ているのが夢だとハッキリわかる瞬間がある。

 だが、それも今の結依には辛いだけだった。少し前までの――の結依にとっては、夢の世界は楽しい空想に満ちたキラキラした世界だったのに。あの事故以来、夢の中で目を覚ました結依の眼前に広がるものは、ただひたすらに黒く塗り潰された絶望の世界だけだ。


『ユイちゃん』


 そんな闇の世界で、ふと美鈴の声が聴こえたような気がした。


「……ミレイちゃん?」


『こっちにきて……ユイちゃん』


 姿なき影に手招きされたような気がして、結依は闇の中を手探りで歩いた。顔を上げたその先、手の届かない遥か向こうに、ぼうっと輝きを放つ白いもやのようなものが見える。靄の中から誰かが手招きしていた。結依の大好きな秋葉原エイトミリオンのステージ衣装――それを纏う人影が美鈴だと気付いた瞬間、美鈴の装いは、おとぎ話に出てくる美しい女神様のような装束に変わっていた。


『こっちにきて……ユイちゃん』


「ミレイちゃん!」


 美鈴が呼ぶ方へ向かって、だっ、と結依が走り出そうとしたところで――


「――ッ!」


 何かに引き戻されるような感覚とともに、結依はリビングのソファの上で目を覚ました。


「……ミレイちゃん」


 確かに呟いた筈のその声は結依の意識に届くことはなかった。夢の世界から現実の世界に――音を失った世界に帰ってきたのだと思い知らされる。

 だが、結依しかいない筈のリビングは今、クーラーの風だけとは思えない異様な寒気に満ちていた。

 はっと予感がして、パソコンの方を振り向く。瞬間、画面の中から結依を手招きする一つの影と目が合った。


『ユイさん……美音ミオンと一緒に、こっちに』


 それは夢幻ゆめまぼろしではなかった。3Dグラフィックの電脳歌姫サイバーディーヴァが、、その華奢な片手を結依に向かって伸ばしている。補聴眼鏡グラスを掛けていないのに、その声は何故か、五感を超越して結依の意識に響いてくるのだ。


「いやっ!」


 結依が恐怖を感じて後ずさった時には、既に電脳歌姫サイバーディーヴァ美音ミオンはあたかも昔のホラー映画の如く画面から這い出し、結依の眼前に立っていた。

 バチバチと爆ぜる緑色の火花の中、実体など存在しない筈のソフトウェアのキャラクターが、今、確かな存在感を持って結依の目を覗き込んでいる――。


「あ……あっ」


 あまりの恐怖に身体から力が抜け、結依はその場にへたり込んでしまった。美音ミオンがすっと片手を伸ばし、結依に一歩近づいてくる。


『――ユイちゃん。わたしと一つになって』


 驚愕と戦慄に目を閉じることもできない結依の眼前で、電脳歌姫サイバーディーヴァ美音ミオンの姿は、いつの間にか雪平美鈴のそれへと変わっていた。


『わたしと一緒に――』


 行こうと言ったのか、生きようと言ったのか、結依には判断がつかない。だが――。


「……うん」


 自分でもよくわからない内に、結依はその美鈴の影に向かって小さく頷きを返していた。


 あの時、美鈴と一緒に逝けていたら。

 死神が一思いに自分も連れ去ってくれていたら、自分は彼女の居ない世界でこんなに苦しむこともなかった。

 その美鈴が今、自分と一緒にと言ってくれている。彼女の霊に取り殺されるのなら、それも本望かもしれない。


「……いいよ、ミレイちゃん」


 自分を手招きする美鈴の影に、結依も片手を伸ばしかけたとき――


「――オン・アラハシャノウ・ソワカ!」


 凛然りんぜんたる疾呼しっこの響きが、妖気の風とともに吹き抜け――

 美しい墨文字の奔流が結依の眼前に滑り込み、今にも結依の腕を取らんとしていた美鈴の姿を虚空へと縛り付けた。


「!?」


 そして結依は見た。艷やかな黒髪を燐光のもとひるがえし、身の丈ほどの大筆を構えての前に立つ、紫色の着物姿を。


「危ないところでしたわ」


 敵か味方か、人かあやかしか。怜悧れいりな輝きを湛えた瞳で結依を見下ろすその女性の声は、美鈴の声と同じく、聴こえるはずのない結依の耳に確かに響いた。


「あれは未熟な創作者が生み出してしまった魔物。創作の中にあなたの面影を求めるの固執と……亡き彼女の面影を追い続けるあなたの心が、『歌姫』の存在を媒介に共鳴してしまったのよ」


 結依の頭には理解しきれない言葉を滔々とうとうと並べ、その美女はひゅんと軽やかに大筆を振るった。瑞々しい墨文字の筆致が闇を洗い流すように――宙空に封じられた虚像の人影から美鈴の姿が剥がれ、電脳歌姫の3Dグラフィックへと戻っていく。


『どうして……どうして美音ミオンの邪魔をするの? ミレイちゃんになった美音ミオンがユイちゃんを連れていけば……ユイちゃんの望みも、マスターの望みも叶えられるのに……!』


 血の涙に染まった眼を爛々らんらんと光らせ、文字の戒めの中で歌姫が藻掻もがいた。


「……可哀想に。この歌姫もまた、故人の魂を現世に繋ぐ媒介ミーディアム……。その使命を魔物の瘴気しょうきに付け込まれ、器を奪われてしまったのね」

美音ミオンを離して! 美音ミオンは、ユイちゃんを連れて行かないと――』

むらさき所縁ゆかりの大筆よ、文殊もんじゅ菩薩ぼさつの加護にりて彼女を苦しみから解き放ち給え――オン・ドギャ・シナ・ダン・ソワカ!」


 美女が大筆を一閃するとともに、文字の奔流が歌姫を包み込み、瘴気に飲まれたその魂を浄化していく。細かく爆裂を繰り返す緑色の閃光の中で、電脳歌姫サイバーディーヴァ美音ミオンが本来の優しい目に変わって消えていくのを結依は見た。

 もう、歌姫は美鈴の姿を取ってはいなかったが――

 電子の涙にきらめくその瞳が、少しだけ美鈴と似た輝きを湛えていたことに、結依は気付いた。


「……ミオンちゃん!」


 着物の美女の肩越しに、結依は思わずその名を呼んでいた。機械であろうと何であろうと、僅かな間だけでも自分と触れ合ってくれた彼女を、無言で見送ることなど出来ないと思った。


『ユイさん。。ミレイちゃんの分まで』


 今度はハッキリと分かった。行きたいでも、逝きたいでもなく――生きてほしいと結依に願った美音の言葉が。

 全てが消えたとき、その場には何も残らなかった。画面の中にも外にも、もう電脳歌姫の姿はなくなっていた。

 美女がふうっと息を吐き、結依の前で「変身」を解く。上品な私服姿に戻り、紫色の扇子をぱちんと閉じた彼女に、結依は思わず問いかけていた。


「あなたは……だれ?」

「駄作バスター・式部ユカリ。無知の闇を祓う文芸の番人にして、の世界を繋ぐ仲裁者バランサーですわ」


 結依に手を貸して立ち上がらせてくれながら、彼女はそう言った。途中から彼女の言葉が聴こえなくなっていることに気づき、結依は慌ててソファの上の補聴眼鏡グラスを拾い上げた。


「ミオンちゃんは……消えちゃったの?」

「消えたのは、全世界に無数に流通するソフトウェアのただ一個体ですわ。歌姫に再び会いたければ、もう一度ソフトを買えばいい。……だけど、決してそういう話では収まらない何かを、あなたは感じたはず」


 最後に歌姫が流した涙を思い返し、結依はこくりと頷く。たとえもう一度ソフトをインストールしたとしても、自分の前で消えていった「あの」美音が二度と戻ってこないことは、結依にも分かっていた。


「死者が望むのは生き残った者の幸せですわ。辛いときこそ。挫けそうになったときこそ、思い出しなさい。あなたは決して一人ではないことを」


 結依のVRレイヤーに紫色の言葉を残して、美女は結依に別れを告げた。

 静けさの戻ったリビングの、ブラックアウトしたパソコンの画面には、もう、美音の姿も、もちろん美鈴の姿もなくなっていたが――


「……ひとりじゃない」


 凍てつきかけていた己の心の中で、これまでにない希望の炎が最初の火の手を上げつつあることを結依は悟っていた。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



「――これで分かったやろ。自分がどんな駄作ゴミを量産しとったんか」


 うぐいす色の着物が妖気の風に揺れ、二振りの大筆から霊気の墨が滴る。自室一杯に広がった結界の中、茶髪ギャルの鋭い眼光に見据えられ、和希はチッと舌打ちをした。

 白い光を放つパソコンの画面には、電脳歌姫サイバーディーヴァの暴走の痕跡。闇の瘴気と融合してソフトウェアが暴走し、を苦しめてしまったことは、目の前のギャルから延々聞かされて思い知っていた。


「……俺がこの程度で筆を折ると思うのかよ。いいか、俺は絶対、世間に俺の力を認めさせてやるんだからな」

「口の減らんお子様やな、本当ホンマ。……まあええわ、今回はユカリちゃんのヘルプやし、ウチの縄張りでもないし、少納言しょうなごん家の流儀は適用せんといたるわ。それに――」


 瞬く間に「変身」を解き、ギャルギャルしい私服姿に戻った彼女が、両手に持った扇子の片方をぴしりと和希の眉間に突き付けてきた。


「どーやら、アンタは本当ホンマに才能のある部類らしいしな。せやけど、一つ言うとくで。将棋とかスケートとか、流行りモンに乗っかるばっかで自分の書きたいモンを書いてない内は、本当ホンマに面白い作品なんか書けるワケあらへんで。しょーもない捻りなんか入れてるヒマあったら、まずは自分の好きなモンと真剣に向き合いや。アンタはそっからやわ」

「……お、おい、待てよ!」


 仕事はこれまでだとばかりに、すたすたと階下へ降りていくギャルの背中を、和希は数秒置いて追いかける。

 その小さな背中に和希が追いついた時には、彼女は既に玄関の扉に手を掛けていたところだった。


「あら、少納言。終わったの?」


 開けられた扉の向こうから別の美女が顔を見せる。茶髪ギャルとはまた違った眼光の鋭さを湛えた、白皙はくせきの美人だった。


「精進しなさいな、霧江きりえ先生」


 新たに現れた美女は、和希をペンネームで呼んできた。これから起こることを全て見透かしたような、鋭く優しい瞳を彼に向けて。


「いつか結依ちゃんが戻ってくるその時までに、腕を磨いておくことですわ。信じて磨き続ければ……きっと、あなたの文才があの子を救う時が来る」


 まだまだ聞きたいことは多かったが、なぜか和希は、扉を閉じて出ていく二人を追う気にはならなかった。

 そんなことをしている時間はない。今この瞬間から、自分の持ち得る全ての時間は、小説の研鑽に費やさなければならないと思ったのだ。

 自分の書きたいもの――。それならば芸能界だ。穿うがって流行を追うのはやめにして、自分は自分の書ける世界で世間の度肝を抜いてやろう。


「……よし」


 和希は駆け上がるように自室に戻り、パソコンの画面に向かった。白紙のエディタがいつもより狭く見える。ノルマをカウントして尻を叩いてくれる電脳歌姫はもう居ないが、負ける気がしなかった。次こそは必ず、世間をあっと言わせる一作を書いてやる――。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



「晴れた目をしているな。いい目になった」


 判決正本せいほんの受領後、二人で裁判所の建物を出たところで、白山弁護士は結依の顔をふと見下ろして言ってきた。結依は青空の眩しさに目を細めながら、こくりと頷いた。

 事前に白山から聞いていた通り、判決の言い渡しは実にあっけなかった。被告は原告に金いくらいくらを支払え――と、裁判官が事務的に読み上げるたった数秒の時間だけで、子供の頃から第二の家と思って過ごしてきた芸能事務所との付き合いはその全てが精算されてしまった。言うまでもなく、今日も事務所の社長や元マネージャーが法廷に姿を見せることはなかった。

 快哉かいさいでもなければ痛快でもない、そんな虚しい時間になることを知っていながら、結依はそれでも今日というケジメの日を弁護士任せにしたくなかった。母は仕事で忙しく同行できないと言われたので、自分一人で電車に乗ってやって来たのだ。慣れない補聴眼鏡グラスで人混みを縫い、何度もふらつきそうになりながら、それでも、ここまで自分の足で。


「人生は長いぞ、結依君。キミのその澄んだ瞳が、再び闇に呑まれてしまうのか……それとも、辛さをバネに、光溢れる道を歩んでいけるのか。それを決めるのはキミ自身なのだよ」

「ハイ。見ててください、先生」


 VRレイヤーに映った白山の言葉に、結依は頬を緩ませ頷きを返した。


「わたしは絶対、光あるステージにもう一度立ってみせます。ミレイちゃんと一緒に」

「楽しみにしていよう。契約関係で困ったことがあれば、いつでも俺を頼りたまえ」


 車で送ってあげようという白山の誘いに首を振って、結依は青空の下を一人で歩き出す。――いや、道を行く身は一人でも、自分は決して独りではない。

 諦めずに挑んでみよう。この耳が聴こえずとも、秋葉原エイトミリオンのオーディションを通れずとも、自分にはこの命が残されているのだから。

 決意を固めた結依の歩みを、ふわりと吹き抜ける風が祝福していた。


(END)

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