誰よりも強いひと:2

 水の魔法で編まれた猫が、細い足を泳ぐように動かして低空飛行していく。その優雅な姿とは反対に、フィールーンは木の根につまずきながら無様に追従した。


「はぁ、はあっ……!」


 ヒトの身では悔しいほど簡単に息があがり、腿が疲労に抗議する。最近では我を忘れるほどの激しい竜人化を起こしていない王女だったが、やはりまだ危険視されていることが情けなく、悔しかった。


 自分に強い翼と、正確な判断力があれば。あの時、彼を――。


「!」


 りぃん、という不思議な音色が魔法獣の鳴き声だと気づくと同時、少し開けた場所に出る。草地の上に点々と散っているのは、今まで見られなかった鮮やかな赤。それらを辿った先にそびえる大木の根本には、ひとりのヒトがうずくまっている。


「み、見つけた……!」

「!」


 こちらの声を聞きつけたらしい大柄な青年――セイルは、となりに立てかけていた大戦斧を握って即座に立ち上がる。その分厚い刃に殺気が込められているのを感じ、王女は戦慄して立ち止まった。


「セイルさん、私です! すみません、驚かせましたか」

「フィールーン……か」


 ヒト時の彼がよく使う、平坦な声。しかしはっきりと疲労が滲んでいるのが分かる。フィールーンが駆け寄ると青年は草地に戦斧を突き立て、それを支えに片膝をついた。


「く……」

「セイルさん。大丈夫ですか」


 彼の身体から落ちる血のしずくに、違う色の水が混じっていることに気づく。フィールーンは慌ててかたわらに屈み、仲間の顔を覗いた。


「! もしかして、熱が」


 水の正体は、青年の顔に浮かんだ大量の汗だった。呼吸も乱れている。激しい戦闘を終えても余裕の表情を崩さない彼が極端に弱っているのを見てとり、フィールーンは狼狽した。


「と、とにかく安静にしましょう。横に、いえ先に座ったほうが」

「……にか……くれ」

「えっ?」


 木に背を預けず、辛そうな体勢のままセイルがこちらを見た。荒い息の合間を縫って、仲間はもう一度掠れた声で言う。


「なにか……噛む、ものを……くれ」

「か、噛むもの、ですか」

「ああ……。さっき、トゲを抜いた時……奥歯が、欠けた」


 見ればたしかに、唇の端に血を拭った跡がある。小刻みに揺れる青年の身体を検分したフィールーンは、なんとか小さな悲鳴を押し殺した。こちらとは反対側の脇腹に、ひときわ大きなトゲが深々と突き刺さっている。


「ひどい……!」

「これを、抜きたいが……。先に、歯が砕ける……。それだと、メシが食えなくなって……困る」

「そんな問題じゃ! 待って下さい、何か」


 そこでようやく、フィールーンは身ひとつで駆けつけてしまった自分に気づいた。ヒトならざる者である彼に常用の薬や包帯は必要ないとも言えるが、怪我人とわかっていながら何も持たずにというのもおかしな話である。


「す、すみません。私、何も……あっ!」


 うつむいた瞬間に視界に映り込んだものに驚き、フィールーンは急いで首元に手を遣る。城を出る時から愛用している桃色のスカーフをしゅるりと抜き取り、仲間が見える位置へ持ち上げた。


「これ、あの……いつも身につけているもので恐縮なのですが、よければ」

「いい……のか」


 セイルがこちらに伸ばした太い指、それはすでに自身の血に塗れていた。周囲にそっと目を走らせたフィールーンは、大小さまざまな太さのトゲが草地に転がっていることに気づく。どれも深く刺さっていたのだろう、長さの半分ほどまで血の痕がこびりついていた。


 これを――ひとりで。


「良いんです。使ってください」


 彼の手にスカーフを握らせると、青年は茶色の瞳を少し大きくして呟いた。


「……すまん」


 うなずくフィールーンを見上げたあと、木こりはスカーフをくしゃりと軽くまとめる。厚くなった部分をそっと噛み、心を決めるように鼻から息を長く吸い込んだ。


「……あ」


 ゆっくりと脇腹へ伸びていく手を目で追っていた王女は、ふと気づいて彼の背にそっと手を当てた。


「!」


 汗が滲んだ筋肉質な背がびくりと揺れたのを見、慌てて言う。


「ご、ごめんなさい! 少しでも支えにと思ったのですが」

「……」


 目だけでこちらを見上げるセイルは、蒼い頭を小さく左右に振った。驚いただけで、嫌がってはいないようだ。励ます意味でその背を数度さすると、彼はふたたび覚悟を決めた表情になって負傷箇所を見下ろす。


「――ッ!!」


 トゲに指先が触れてからは、あっという間だった。水っぽい音がしたかと思うと、凶器は血の糸を引いて一気に引き抜かれている。忌々しそうにそれを草地に投げ捨てると同時、セイルの巨体ががくりと前方に傾いた。


「セイルさん!」

「ぐ……ッ」


 噛み締めたスカーフの間から漏れ出す、苦痛の声。屈強な彼がこれほど痛みに苦しむ姿を初めて目にしたフィールーンは、どうしようもない無力感に襲われた。どくどくと流れ出る血を圧迫する手の下に広がる腹筋は、自分と同じヒトの肌の色をしている。


 痛くないわけがなかったのだ――今までも。


 その鮮やかな紅との対比に王女は堪らなくなって、彼の上半身を包むように抱き締めた。


「頑張って……がんばって、ください……!」


 逃すことのできない痛みに耐えているのだろう、青年の落とす息は激しい。そのまま仲間を支えていると、しばらく大きく上下していた身体はゆっくりと常のものへと移ろいでいった。


「大丈夫、ですか……セイルさん」

「ああ……」


 答えが返ってくると同時に、血の付着したスカーフがひらりと草地に落ちる。惜しいとは微塵も思わず、むしろ悔しさのほうが大きい。やはり自分よりも、彼の妹――癒やし手がこの場にいてくれたほうが良かったのではないか。


「フィー……ルーン」


 肩に乗せられた顎がわずかに上下し、掠れた声が王女の耳を打つ。


「たす……かった」

「!」


 彼の名を呼ぼうとしたところで、その身がずしりと重みを増す。最大の痛みを取り去った脱力からか、気が遠のいたようだ。しかも熱はまだ引いていない。


「セイルさん、しっかり」


 岩のように堅く重い戦士の身体をなんとか支えつつ、なるべく草地の柔らかい部分を探して横たえさせる。硬い木の根を枕にするわけにもいかず、迷った末に王女は自分の膝でその役割を果たすことに決めた。


 意識が朦朧としている相手にかけても仕方ない言葉だが、フィールーンは軽く黒髪頭を下げて告げる。


「し、失礼、しますっ」

「う……」


 仲間の頭を膝の上に持ち上げるとわずかな呻き声があがるが、いくらか顔から険しさが緩んだように見えた。木の根よりは快適であることを祈りつつ、フィールーンは血で汚れた彼の腹部を見る。


「すごい、もう傷が」


 溢れ出ていた血は止まり、傷口は早くも新たな肉に覆われている。自分よりも遥かに竜人の力を使いこなす彼にとっては、慣れた負傷なのかもしれない。


「でも」


――ばけもの。


 動転しきった子供が放った、心ない一言。恐怖という原始的で純粋な感情だからこそ、その言葉は彼に深い傷を与えたのではないだろうか。もしかすると、腹に開いた傷よりもずっとずっと、するどい痛みを。


「私は……」


 気づけば王女の手は、熱を持った青年の額を撫でていた。拭うものはもう持っておらず、汗の粒も指で払ってやるしかない。ふと思いつき、水の魔力を指先に集めてみる。肌を氷結させないように注意しながら冷気を流し、少しでも快適になるようにと願いを込めた。


「……」


 赤みを帯びた額の上から広がる、汗に濡れた深い蒼。その髪を指で梳いてやると、身じろぎしたあと仲間は目を開いた。


「あっ、す、すみません。起こしてしまいましたか」

「寝ては……いない。少し、頭が……変な感じが……する」

「熱があるんですよ。あの半端竜人の魔力に、身体が抵抗しているのかも」

「テオも……そう、言ってる」


 彼の中にいる“竜の賢者”と同じ見解であることに安堵し、フィールーンは詰めていた息を吐いた。


「お身体はどうですか」

「傷は、塞がった……。このまま休んでいれば、動けるように……なる」

「こ、この体勢は、辛くないですか?」

「ああ……」


 ちくちくとした短髪の感触がタイツ越しに伝わってきたかと思うと、青年は頭を傾けてこちらを見上げつぶやいた。


「……悪くない」


 熱が移ってしまったのかと思うほどに、フィールーンの頬がカッと灼熱した。しかしその情けない表情は見られずに済んだらしい。セイルは静かに息を吐き、ふたたび目を閉じてしまっていた。


「はっ……」


 表面の傷は塞がっても、傷ついた身体の内部の修復にはそれなりの時間を要するものだ。じくじくとした痛みと戦わねばならない数時間の過酷さを知るフィールーンは、目を細めてその精悍な顔を見下ろした。


 彼は強い。


 トゲの噴射攻撃から仲間を遠ざけるため、敵を連れてひとり空中へ赴いた時も。

 自身に防御壁を張るよりも早く、子供の盾となる道を選んだ時も。

 その子供に感謝ではなく、恐怖を向けられた時でさえ。


 何ひとつとして、己のための行動を起こさなかった。 


「セイルさん……」



 彼は強い。

 見ているこちらが――寂しくなるくらいに。


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