りゅうじんのぼうけんしょ。

文遠ぶん

竜人と亡者とハニトー祭り:1

「う、ん……?」


 さああ、と繊細な砂が流れるような音がする。その音を認識した王女――フィールーン・シェラハ・ゴブリュードは、うっすらと空色の瞳を開いた。


 横ざまになった景色が白一色であることに驚き、がばっと黒髪頭を跳ね上げる。


「な、何ですか。ここ」


 辺り一面を覆っているのは、深い霧だった。数歩先さえ確認できないほどの濃霧に、不安と焦りが膨れあがる。倒れていたらしいのは地面だが、柔らかな草は明るい灰色をしていた。明らかに普通の場所ではない。


 大声を出して仲間たちを探すべきか悩んでいる間に、近くの霧がゆらりと波打った。


「起きたか。フィールーン」

「セイルさん! よ、よかった」


 霧の中からゆっくりと歩み出てきた長身の青年に、フィールーンはほっと安堵の声を漏らす。群青の短髪の下に広がる無愛想な顔、そして鍛えた身体に巨大な戦斧を背負った仲間――セイル・ホワードだ。


 彼は茶色の瞳でじっと自分を見つめ、ひとつうなずいて言った。


「怪我はないな」

「はい。セイルさんも?」

「ああ。オレは先に目が覚めた。お前はしばらく起きなさそうだとテオが言うから、少し周りを歩いていた」

「そ、そうですか……」


 呑気に寝入っていたらしい自分に顔を赤くしつつ、フィールーンもぎこちなくうなずきを返す。彼の中に住まう“竜の賢者”テオギスも健在らしい。


「何か見つかりましたか? リンや、皆は」

「いや。誰もいないし、何もない。この草地が広がっているだけだ」

「そんな。どうして、私たちだけ……」


 ゆっくりと渦巻いている霧を見やり、フィールーンは声を震わせた。とにかく立ち上がって周りを調べなくてはと手をついたところで、ブーツのかかとが何かに衝突する。


「!」


 振り返って確認した物体に、あっと声を上げる。見覚えのあるバスケットから、香ばしい匂いが立ちのぼっていた。


「これ――エルシーさんの焼いてくれた、パン?」

「だろうな。手荷物はオレの戦斧と、そのカゴだけだった」


 清潔なクロスの下に収まっているのは、美しく形の整った麦パンが1斤ほど。旅路の中ではなかなかお目にかかれない逸品だが、町で材料を買い込んだ青年の妹エルシーが張り切って焼いてくれたものだった。


「エルシーさん……。きっとリンも、探してますよね」

「どうしてこうなったか覚えてないか」

「はい。このパンは、今朝のものだと覚えてはいるんですけど」

「オレもだ。不思議なことに、テオも同じくらいしか記憶がない」


 木こり青年の言葉に落ち込みつつも、フィールーンは唯一の持ち物を手に立ち上がった。


「竜人になって、上空から様子を見たい。……抱えるが、いいか」

「え? えええっ!? あ、あの、私をですか」

「この霧だと、あまり離れたら合流できない」


 バスケットの持ち手を力いっぱい握りしめ、王女は後ずさった。自分も翼をもつ“竜人”になれるものの、たしかに正確な制御はできない。効率を考えれば、荷物と共に彼の腕に収まるのが妥当だとは思うが――。


 ずんずんと近寄ってくる青年に、フィールーンはバスケットで顔を隠しながら戸惑った。


「わ、あの、ちょっと待って下さい! せめて、心の準備を」

「そんな時間はない」

「でで、でもっ――」

「オレの背から出るな、フィールーン」

「えっ?」


 目を瞬かせて顔を上げる。見えたのは、手荷物の向こうにある鍛えられた背中だ。妹手製の武具留めに収まった戦斧に、彼の手が静かに添えられている。


「誰だ。出てこい」

「!」

 

 静かだが、警戒のこもった声。そこではじめてフィールーンは、前方の霧にわずかな人影が揺らいでいることに気づいた。ヒトの背丈よりも明らかに高い位置に、ぼんやりとオレンジ色の光が灯っている。


「――良い勘してるな」

「ど、どなたですか」

「こんな場所で会う奴に対する言葉じゃないぞ、それは。育ちが良いんだな、お嬢さん」


 からかうような男性の声と共に聞こえたのは、さくりと草地を踏みしめる足音。まるで裸足のようにささやかだと思ったフィールーンだが、次の瞬間に悲鳴を上げそうになった。


「あ……!」


 霧をかき分けて現れたのは、やはり男の素足だった。鍛えられた若い男の脚だったが、その肌はまったく血の気のない灰色。獣のように長い爪だけが、赤黒く濁った血の色をしている。たくさんの古傷も確認できた。


「あ、貴方は……?」

「大衆に愛される見た目じゃないんだ。出来たら驚かないでくれよ」


 苦笑を含んだ、軽やかな声。しかし完全に霧のヴェールを取り払ったその人物の見目は、自身の警告どおり驚くべきものだった。前に立つセイルも、その奇異さにさすがに言葉を失っている。


「やあ、若いおふたりさん。ようこそ“狭間”へ」


 まとうのは、長い旅を続ける隠者のごとき古びた外套。ほつれたそのフードの奥にある顔の表情は陰になっているが、微笑んでいるようだ。彼自身の背丈はヒトの成年男性ほどだが、左手にある杖は異様に長い。魔術用の杖ではなく、先端の返しにランプを引っ掛けているだけらしい。


「……!」


 蝋燭の姿がなくても輝く灯具から落ちる光が、フィールーンの視線を導く。杖を握る腕にはやはり、ヒトの温もりを感じさせる色がない。それどころか、あれは生物の腕でもない――小さく複雑な金属が集合した、からくりの腕だ。義手ということだろうか。


 しばしの時間が流れた後、男は小粋な角度に首を傾けて呟いた。


「そう熱心に見つめられると、照れるな」

「あっ! す、すみません」

「隙を見せるな、フィールーン」


 ぺこりと下げた頭の前に、素早く仲間の手が伸びる。驚いて木こり青年を見ると、彼はゆっくりと背の得物を引き抜くところだった。


「セイルさん!?」

「間違いない。この男は“不死者アンデッド”だ」


 低い声と共に、セイルは身の丈を越えるほどの大戦斧――“天地創造クレアシオ”を構える。竜人にのみ呼応するその不思議な武具の力を恐れるように、霧がふわりと遠のいた。


「正解だ。けど見てのとおり、強靭な不死者たちの末席を汚すただの“亡者”さ」

「……。喋る死体は見たことがない」

「愛らしいだろ? 暇なんだ、友達になってくれよ」


 気さくな返事にも警戒を解かず、それどころか仲間はますます殺気を高めた。彼の高まっていく魔力が霧の海を波立たせ、相対者の外套を揺らめかせる。はためいた隙間から見えたのは、フィールーンには馴染みのない軽装――そして、灰色の腹を横切る巨大な傷跡だった。


「あ、あれは……!」

「ああ、“亡者”になるきっかけとなった傷だろう。ヒトが癒せる範囲を越えている――と、テオが」

「怖いものを見せてしまったな。これでも、仲間が綺麗にをくっつけてくれたんだけど。あと、テオって誰だ? まだ誰かいるのか」


 ひた、と裸足の足が動き、フィールーンたちの方へと向けられる。鍛えられた身体を見るに、生前は戦闘員だったのかもしれない。もっと後退するようにと手で示す仲間にうなずきながらも、王女は不思議な穏やかさを持つ男を見つめた。


 霧のうねりにさらわれたフードが背へと滑り落ち、相対者の顔が露わになる。あちこちが跳ねがちのくすんだ赤毛に、乾いた傷の目立つ顔。頭上のランプよりも強い光を放つ双眸は、異形の象徴である黄金。


「俺はエッド。君たちみたいな“迷子”を放っておけない、親切な元勇者だ」


 親しげに持ち上げられた唇の端に見えるのは、ヒトにしては長すぎる牙だ。戸惑うフィールーンの目前で、今度は仲間がはっきりとした声で答える。


「知らねえよ、クサレ死体。とっ捕まえて、出口を吐かしてやんぜ!」


 木こり青年の背に落ちたのは、漆黒の長髪。その合間を縫って広がった翼が、左右の濃霧を切り裂いた。先ほどの仏頂面から一転、青黒い角を頂いた横顔には、戦いに胸躍らせるような笑みが浮かんでいる。


 世界創生の時代。そのあまりの力と暴虐さによって、ヒトと竜たちの手によって滅ぼされたはずの種族――“竜人”の姿だ。


「セイルさん、でも……!」

「あいつはただの死体じゃねえ。好奇心がうずくのも分かるが、大人しくしといてくれよ。姫さん」


 紺青の鱗で覆われた尻尾でばしりと草地を打った竜人セイルを見、今度は相対者が驚きの声を上げた。



「――どうやらそっちも、ただの迷子ってわけじゃなさそうだな」


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