肉食う虫も好き好き

真槻梓

肉食う虫も好き好き

肉欲。

そんな時に彼から連絡が来た。曰く、晩飯でも食べに行かないか、云々。彼との関係は割と長く、そろそろ3年に差し掛かる頃合い。折に触れて「体以外」のお誘いがかかるが、私にとって彼は恋人以上にはなり得ないし、その事はことにつけて話してある。それでもこうして誘いがかかるのは、持ち前の無頓着さからなのか。

なんと返信しようか逡巡するも束の間、追い打ちのように連絡が来る。今日の19時、セントラルホテルで。予約したのでよろしく。思わず鼻で笑ってしまう。行動力だけで食っているような粗雑な性格も、それで成ってしまう彼の周辺もどこか憎めない。彼の顔を立てるのは些か癪であるが、渡りに船とはこのこと、3時間後の予定に向けて準備を始めることにした。

集合場所には少し早く到着した。楽しみにしているのだと勘違いされる事態は避けたいが、彼にそれを感づけるほどの繊細さがあるようにも思えない。昼頃から渋って反応せずに置いておいてしまったほかの「恋人」たちへの返信をしながら、エントランスのソファで待つ。据え置きのドリンクサーバーから取ってきた紅茶が温くなるくらいの時間が経って、彼がエントランスに着いた。焦ることを知らないような足取りで近づいてくるが、集合時間はギリギリである。彼がすぐに座るだろうことを想定し会釈でもしようかと上体を起こす。しかし彼は向かいのソファに座ることもなく、荷物だけを置いてサーバーの方へ向かい、飲み物を取って私の対面へと戻ってくる。拍子抜けである。

「なにか言うことがあるんじゃないの」

話しかけられたことがそんなに驚くことなのか、眉を少し浮かせて反応する。しかしまた例の読みにくい表情に戻し、そのまま紙コップの中の飲料を啜る。ずず。それだけの音が間に流れる。

「なにかあったか」

間が抜けるような回答。

「先に私が居たんだから挨拶の一つでもすればよかったんじゃない」

「そうだな、本日はご足労をいただき」

冗談ともつかない返答を途中まで投げかけ、また飲み物を啜る。ずず。つられるように、完全に冷めておいしくなくなってしまった紅茶を飲み下す。胃に入った分が出てくるように、のれんに腕押しな彼の回答に溜息が出てくる。

「いえいえ、こちらこそお誘いいただき」

手遊びの延長線上、紙コップを畳みながら、皮肉交じりの返答をする。ずず。彼ののどぼとけが上下する様を見届ける。さっきの私とは対照的な、まるでコマーシャルのような心地のいい溜息を一つ、そうしてから心底面白そうに彼が笑う。

「100回に99回は断るくせに」

「もちろん。優雅にディナーと洒落こむならそれ相応の恋人を作るわ」

「確かにそうだ」

私の言葉をひとしきり楽しんだ後、コップの中身を徐に呷る。それを見届ける義理のない私はスマートフォンの画面を見るが、何か面白いものがあるかと言われたらそんなことはない。相変わらず大学来の友人は忙しそうだし、「友達」のキラキラした日常にも興味はない。赤色のハートを乗せるだけの簡単なお仕事を少しだけしていると、向かいの彼が立ち上がる音がした。画面から目を離すころには私の前の紙コップは2つとも無くなっていて、サーバー横のゴミ箱の前に彼はいた。私がこのまま立ち上がらなかったら彼はどうするのだろうか。些末な疑問はしかし、食欲の前には無力だった。半ば顎でしゃくるような態度で私を呼べば、エレベーターの方へと消えていく。もう一度、溜息が出た。


光度を少し落とした洒落た店内には、男女の楽し気な話声が充満している。着飾った彼らの関係性には毫も興味がわかないが、気になる人間はSNSをチェックすればその欲を満たせるだろう。大方10枚に満たない夜が、更けるころには過去になっている。その筆頭が自分なわけであるが。予約した分スムーズな入店と、金額にそぐう程度の丁重な扱いを受けて、また彼と向かい合わせに座る。

「何、なんか顔についているかな」

変ではないよ。顔は。整った店内に似つかわしくないのは顔面ではなく、彼の服装である。

「かっこいいシャツね、ネクタイもいい感じ」

真意を測りかねた表情をし、含意を汲めば、少しばつが悪いといった調子でネクタイを正す。先ほどの撚れた様子からは、彼が今日いかほど忙しかったか、そしてストレスフルだったかが端的に表現されており、空間に対してそれはそれは不釣り合いだった。

「悪いね、仕事帰りなんだ」

「お疲れ様」

ウエイターが前菜を持ってくる。彼が心から感謝するような様子でそれを受け取るものだから、まるで友人同士の飲み会に居るように思えてくる。それを半分ねめつけるように見つめていると、ウエイターの方がかしこまってしまった。肝心の彼は、通常運転。

「それなら誘ってくれなくても良かったんだけどね」

「どうしてもおなかが減っていて」

うきうき、といった擬態語を当てるにちょうどいいような雰囲気を背負いながら、カトラリーケースからフォークを2人分取り出し、差し出す流れで自分のサラダを口に運ぶ。

「それにここには一度来てみたかったからね」

「私でなくても」

人の振り見て、ほんの少し上品に映るようにサラダを含む。彼も下品というわけではないが……それはそうとサラダが美味しい。周囲の会話を背景に、ひとしきり無言でサラダを食べる時間が続く。

「まぁ確かに誰でも良いわけなんだけど、強いて言えば暇そうな人って感じかな」

「随分な言い様ね」

「まぁ実際来てくれたわけだし、サラダ美味しいね」

「人を雑に扱わないで、サラダは美味しいけども」

気付けば彼の皿は空になっていた。フォークは置いてあるものの、まるで食事の時間を待つ犬の様で些か滑稽だった。これで野卑な感じがしないのだから人間とは不思議なものである。私が食器を置くのを待ちかねていたように、ウエイターがスープを持ってくる。

「ねぇ」

自分の分のスプーンを差し置き、彼にスプーンを渡して口を開く。

「ん?」

私の差し出したスプーンを受け取りながら、彼が返す。渡すほうが発言権を持つわけでもあるまいに、彼は私の言葉を律儀にも待っている。スプーンをはなさない私と、はなすまで待つ彼との間に静寂が流れる。数秒にも満たない。

「私たちは別に恋人でもないのよ」

釘を刺すような視線で射るように言葉を放つ。言葉は内耳に届いたか、こころもち俯くようにスープを飲み込む彼。つむじを見る趣味はない私も、スープを食べる。彼のように俯くことはしない。眉を持ち上げ、美味しいなぁとだけこぼし彼が顔を上げる。表情はいつもの通りの無感動。リアクションを期待した自分が馬鹿を見た。

「そうだな」

「わかっているならいいんだけど」

「付き合うってなったらこんなに軽く誘えないしな」

それは違うだろう、と言いかけて、口を出す義理もないと思いなおす。口を出した数だけ、縁が切れてきたような気持ちになってしまって辟易した。場にそぐわないのは私の方ではないか、とまで考えて、このスープに罪はないと気付くまで時間がかかった。

肉欲。

体の関係は私にとって楽だ。他に言わせれば「逃げているだけ」だったり「移り気」だったり「遊びが激しい」だったり、ともかく良くないと。移り気に関してはあまり否定できないが、そういう彼らが私のなしていることをできるかと言ったら、そういうわけでないだろうとも同時に考える。恋愛の関係が至高だとする考えもいいが、人には人の考え方があるわけであり、逆に言ってしまえば彼らが体だけの関係から「逃げているだけ」とも言える。私がスプーンを使ってスープを流し込む間に、見え透いた交渉を行い、無数の相性や方向性を突き合わせて努力している事実を否定はしないが、こちらにはこちらなりの気遣いがあり。

「大丈夫?」

不意に声がかかる。スープを器に少し残して、彼が1%くらい心配した表情をしながら視線を送る。

「なんでこんなことしているんだっけと思って」

希釈した回答をテーブルの真ん中に放り捨てる。拾っても彼には読めないだろう。無論、読む必要も、読まれる希望もない。ただ少しわかってくれるものだと考えて。

「そりゃ、おなかが減ったからでしょうに」

真面目な目をした彼を、思わず見つめてしまった。驚いた。予想外に正鵠を射た表現に。そして笑ってしまう。私の思考の重さと、彼の表情の軽さがコントラストをなして、チカチカするくらいの彩度を感じた。笑われたことに興味を示さない彼を余所に、私だけの時間が流れる。とにかく、愉快だった。スープが美味しい。

ウエイターがメインを運んでくる。待ってましたと言わんばかりの様子で彼が受け取り、その間に私はカトラリーケースから食器を出す。光度の低いライトでも、ステーキは魅力的に映った。汚さないようにとだけ注意しながら食事を楽しむ。無意識下で設けられた心地の良い無言が流れ、ふと、発言権が私にあることに気が付く。彼がそれを慮って口を開かないわけではあるまいが、ここで彼の発言を待ったまま時間を過ごすのは信条に反する様な気までしてきた。

「今日は誘ってくれてありがとうね」

考えた末に出たのは質問でもなく、単純な感謝だった。

驚いたのはしかし、彼の方だった。素っ頓狂を文字通りに映したような表情を浮かべ、すぐに見たこともないような怪訝な表情になる。

「奢らんよ?」

「むしろ奢らないで、気持ち悪いから」

「さすがに失礼じゃないか」

彼が笑う。気の間違いで誘いに乗ったが、偶には悪くない。そうしてまた各々の時間に戻っていく。


夜の道を街灯に沿って歩きながら、他愛もない話をする。仕事のことや、友人関係、趣味の話が少しに、思い出したように今日のディナーの話。街の明かりは少しずつ強くなっていく。否、強い方へ向かっている。明日は休日だから、こちらとしても余裕はある。そうして目的の建物の前へ。

「ここでいい?」

「なにが?」

彼の話の腰を折って切り出せば、不意を突かれたような反応を見せた。

「ホテル。ここでいい?」

レスポンス待ち。フリーズした彼が固まっている。進捗インジケータが見えるような様子で、強い明かりの元でもまだ浮いている彼が立っている。

「今日そのつもりだったの?」

散々待たせて、口を開いた。

「そのつもりじゃなかったの?」

驚きのニュアンスを多分に含ませて答えた。想定外の事態に些か困惑する。長めの空白。周囲を歩く人々が奇怪なものを見る目で見つめてくる。視線が痛いと感じたのは久しぶりだ。

「あの」

彼の口がやっと動いた。

「はい」

「実は」

「何」

「恋人ができまして」

「そう」

そう、の後に続く「で?」までは発音しない。発音できないほどの思案顔が彼の面にくっついていた。これで言いたいことは全てだよ、とでも言いたげな表情がこちらを見つめる。

「つまりこれで解散ってこと?」

「そのつもりだった」

豆鉄砲を食らったような表情をしていたと思う。口は半開きだっただろうし、かかとも少し浮いていたのではなかろうか。想定外の状況に会うと、人は普段の機敏さを失う。その好例だった。セフレに呼ばれ、来てみれば食事のみ。勿論こういうことがあってもいいとは思うが、それならそうと……笑い出していた。論理も過程も何もないが、とにかく面白かった。感情が迷子になって、怒るとも違うし、悲しみでもないし、困惑はあるが、それ以上に彼という人格を興味深く思った。笑っている私の横、気まずい様子で彼は明後日を見る。

「とにかく」

切り出したのは彼。

「今日はできません」

「すごい自己中じゃん」

「仕方がないだろ」

ここまで来ると、許す気しか起きなくなってくる。ひとしきり、私は笑った。なんだか世界が全て馬鹿らしいことのように、しかしどうしても嫌いになれないなにかを感じて私は笑った。明日には失われる刹那的なものだとは感じながらも、流れに任せてしまうのも悪い気はしない、前向きなどうしようもなさを思って私は笑った。とにかく体裁も捨てて私は笑ったのだった。

彼の携帯に通知が届く。気恥ずかしさに苛まれながら佇んでいた彼には僥倖だっただろう。すぐに反応すると、堅苦しい表情が少し緩んだ。それは傍目からも、彼の言う恋人だと分かるほど甘いものだった。

「後で会わせてよ」

更に明るい方に足を向ける。どうにも飲みなおしたかった。この気持ちいい気分を維持し、共有する場所を求めていた。

「なんて言って会わせるんだよ」

「友人でいいんじゃない」

半ば捨て台詞のように残し、スキップをするように歩く。仕様もない時間を過ごしてしまった。素敵なほどの仕様もなさだった。メッセージには「恋人」からの連絡が入っていたが、今はそんな気分にはなれない。代わりに友人のアドレスを取り出し、連絡を取る。夜はまだ爛々と輝いており、それ故に先は見渡せない。今はそれでいいような気がする。軽い足取りで足元の石を蹴れば側溝の上を飛び跳ねるように転がり、それから静かに止まった。

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