第58話 穏やかな日々
沙菜は、燈華に誘われて映画を見に行った。
あまり映画を見る趣味は無い沙菜だが、燈華が行くつもりでいた姉の都合が悪くなったのでどうしても……とせがまれて仕方なしに行ったのだ。
ストーリーは、実話をもとにした物語で、余命が決まっている恋人のために奮闘していく人々の物語というものだった。
正直、沙菜は小さな頃から人の感情や機微といったものを知ることなく育っているため、それを見ても何も感じないというのが正直なところだ。
沙菜が小さな頃から育った飯場では、明け方までオダを上げて陽気だった人が、朝4時に死んでいてもなにも不思議ではなかったので、これで涙を流す神経が正直、理解できないのだ。
映画館から戻ると、祖父がその姿を認めてぱぁっと明るい表情になって寄ってきた。
「沙菜、ちょっとこれから作業に入る車があるから、ちょっと車葬やって欲しいんだ。嫌ならVG30を運んでもらう事になるが……」
と言ってきた。
VG30とは、'83年に日産が出した日本初のV6エンジンの事で、30の文字の通り3000ccだ。
とても出来の良いエンジンではあるが、諸事情により当初アルミにするはずだったエンジンブロックを鋳鉄にしている点だけが残念で、そのせいで重いのだ。
沙菜は仕方なしに工場のいつもの場所に置かれた車を見ると、祖父がこれからする作業にピンときた。
規制に引っかかったディーゼル車をガソリンエンジンと換装するのだ。
日本三大悪法と言えば『生類憐みの令、治安維持法、Nox、PM及びディーゼル規制法』と祖父は言うほどあの法律には迷惑していた。
祖父の元には昔から古い商用車やディーゼル車の車検継続の相談が多くて、色々な機器を作ったりして対策しているのだが、結局一番は商用車は乗用登録する、ディーゼル車はガソリンに換装するのが後々規制を強化されても問題が無くなるので、勧めているのだ。
「なるほどね、ミストラルかぁ。それじゃ、はじめるよ」
と言うと車葬を開始した。
日産・ミストラル。
'90年代に日本を席巻したRVブームは、クロスカントリーを中心として爆発し、パジェロが当たった三菱自工が、一時はホンダを抜いて2位の日産を射程圏内に入れる現象まで巻き起こしてしまった。
ブームの遥か前からサファリを、そしてブーム前夜の'86年には一回り小さく都市向けのテラノを発売していた日産も恩恵にあずかり、テラノが飛ぶように売れていた。特にそれを象徴するのが'89年に追加された5ドアボディで、主戦場であるアメリカでは、トラック扱いにできて税区分を安くできる3ドアこそが人気の秘訣であり、日本での販売台数の後ろ盾がなければ設定できないボディが登場した事こそが、日本におけるブームの勢いを物語っていたのだ。
更にとどまる事を知らないブームに対応するため、喫緊でもう1車種追加する事が市場から求められた。
そこで、世界で展開する日産のラインナップの中で、スペインで生産され、欧州向けにはテラノIIというネーミングで販売されている新型車の登場予定があり、それを急遽日本向けにも仕立てて輸入という形で導入する事となった。
ブーム中の'94年6月に登場した新しいクロカンはフランス南東部に吹く季節風の名前から取ってミストラルと名付けられて日本へとデビューした。
ベースとなったのは欧州名の通りテラノで、2700ccのディーゼルターボエンジンも、基本はテラノと同じ物であったが、乗り味に関しては仕向け地の違いから欧州風のしっかりしたものに
イタリアのデザインスタジオでデザインされた欧州風のそれは、とてもスッキリしていながら、抑揚の強いものでボリューム感のあるそれとなっていた。
当初のラインナップは5ドア、ディーゼル、ATのみで、輸入という事もあり、日本でのニーズに合わせ、的を絞った構成での登場となった。
しかし、テラノとの最大の違いは乗員人数で、テラノが2列シートの5人乗りなのに対し、ミストラルには3列目のシートが備えられて7人乗りが可能となっていたのだ。
欧州風のすっきりしたデザインに、売れ筋を絞り込んだラインナップで従来のテラノを補強する違ったテイストのクロスカントリーとして登場し、CMではシマウマやキリンが駆け抜ける大草原から、ヨーロッパの街並みを一気に駆け抜けるシーンと合わせ『人生変えよう。ミストラル』というCMコピーで登場した新車種のミストラルは、そのデザインが受け入れられて、当初はそこそこのヒットとなったが、やはりこの時期に押し寄せたクロスカントリーの新型車ラッシュの土石流の中に呑み込まれてしまったのだった。
別に何が悪いという訳ではないのだが、逆に何が良いのかも分からないという状況の中で、新車としての効果が薄れてくると勢いは鈍化していった。
輸入なのでラインナップを膨大にはできないといった事情も、ミストラルの苦しい立場であった。例えばこのデザインが気に入ったけどガソリンが欲しいといったニーズに応える事も難しかったのだ。
'96年2月、トヨタのRAV4のヒットに対抗して3ドアショートボディが追加発売される。
ベースのテラノが3ドアと5ドアのホイールベースが同一だが、ミストラルのそれは200ミリショート化されている事から、RAV4のような短くて取り回しの良いサイズになった。
5ドア同様ディーゼルのAT、グレードも1グレードのみの設定ではあるが、追加モデルによってミストラルへの注目が集まる事になった。
CMにはCMソングを歌ったピチカート・ファイヴのメンバーが登場し『ふたりのBABYミストラル』をキャッチコピーにしたCMはとても個性的で、ミストラルへの注目が再び集まる事には成功した。
しかし、CMの評価とは裏腹にショートボディの評判は芳しくなく、このテコ入れをもってしても販売の浮揚には至らなかった。
'97年1月にはライトを丸型4灯にするなどの外装の変更によるマイナーチェンジを行ったものの、逆に従来の角型ライトの方が良かったという声も多く、後半は迷走の感が強くなってしまった。
結局ミストラルはマイナーチェンジ2年後の'99年2月に国内での販売を終了し、消滅してしまう。
次に持ち主の情報が浮かんでくる。
年式が古い割には2オーナーと少ないのは、新車時の価格がそれ相応だというのと、直後にクロスカントリーのブームが終焉を迎えたためというのも大きいと思われる。
SUVに比べると、大きくて重く大排気量なクロスカントリーは、逆にその堅牢な作りから長く愛されるケースが多いのだ。
最初のオーナーは30代前半の男性で、主に使用していたのはその妻というパターンだった。
購入理由は当時の流行という他に、夫婦の実家が雪国のため、帰省時の事を考えてのチョイスで、前車は3代目ホンダ・プレリュード。
当初は埼玉に買った建売住宅に住み、年に数度の帰省にミストラルを使っていたのだが、8年ほど経過した時に大きな変化が起こる。
夫の兄が癌で急死してしまったのだ。
夫の実家は老舗の旅館を経営しており、兄の死で存亡の危機に立たされてしまったのだ。
当初、夫は今の自分達の生活を守るため、兄の代わりに跡取りになる事を頑なに拒み続けていたが、妻の説得によって決心をして家を売却し、地元に帰って旅館の跡取りとしての人生を開始する。
沙菜は、その中に見覚えのある1人の男性を見かける。
番頭としてフロントに立つ長身の男性だ。
「あぁ、あの人ね」
そう、沙菜が見たのは以前にラファーガの車葬の際に登場した某国の諜報員だった男性だ。
あちこちの温泉旅館を転々としていたというのは知っていたが、ここにもいたようだ。
本題に戻り、夫婦は実家に戻ると修行の身からはじめて畑違いの旅館業に苦労しながら、長い年月をかけてマンツーマンで旅館の業務の神髄を叩きこんでくれた番頭さんから免許皆伝を言い渡され、1人前の旅館経営者になる事ができたのだ。
その間、ミストラルは自家用車としての他に、旅館の送迎用のシビリアンの使用中に他のお客様が来た際などには送迎用としても活用されて、ミストラルの車としての人生はここからが本番となった。
そして、夫婦とミストラルが忙しく働いているある日、大きな出来事があった。
山菜採りに行った妻が、山中で傷を負って行き倒れている男性を連れ帰って来たのだ。
山中では救急車を要請しても時間がかかるため、ミストラルに乗せてひとまず山を下ったのだそうだ。
その後、旅館から救急車に乗せた男性は一命を取り留めてホッとしたのも束の間、1週間後に役場から連絡が来た。
男性には記憶がなく、更には所持品も皆無で身元を示すものが何一つ無いのだという。
夫婦は両親と番頭さんに相談して、記憶が戻るまでの間、従業員として彼を引き受ける事にする。
彼は番頭さんに鍛えられながら仕事を覚えていくと、朴訥ながらしっかりした仕事ぶりはお客さんや番頭さんからも評価されて、旅館には無くてはならない存在となっていく。
しかし、沙菜は気がついていた。
「この人あっち側の人だ」
彼の発する雰囲気は、普通の人には分からず、そして、彼自身も記憶がないために意識しているものではないが、明らかにあちら側の人間の発するそれで、しかも、今までに沙菜が見た中でも桁違いに強いものだった。
しかし、当の本人に記憶が無いために、幸か不幸か気付くことなく彼は源さんという通り名だけで生きていく事を良しとしていた。
彼も免許を取ると、夫婦は長らく使っていたミストラルを練習用兼自家用車にと彼に譲り、エクストレイルへと乗り換える。
ミストラルは、自身が助けた記憶喪失の源さんの車としての第二の人生を歩み始める。
それから9ヶ月は何事もなく日常は続いていた。
その間、外国人客が続く週の金曜日に突然番頭さんが、一言挨拶だけ済ませると去っていってしまい、以降は源さんが番頭さんとして旅館を切り回すようになったのだ。
源さんの実力は、以前の番頭さんに鍛えられたおかげもあって、一人前どころか、一流ホテルのベテランでも裸足で逃げ出すレベルであった。
そんな番頭さんとしての忙しい毎日を過ごしていたある日、事件は起こった。
ロビーの高いところにある電球を取り換えようとして、3メートル近くある天井付近から落ちたのだ。
担ぎ込まれた病院で目が覚めた時、源さんは自分が過去の記憶を全て取り戻している事に気がついたのだ。
そして、あまりの恐ろしさに驚愕してしまった。
自分は異世界で魔王として君臨し、人界を完全に征服すべく、配下の魔物を使って人界を襲撃して数えきれないほどの人間を死に追いやり、里を焼き払い、絶望を糧として生きてきたのだった。
人界を征服して植民地化し、気が向くと人間狩りを嗜んだりして人族を蹂躙しきっていたある日、神の啓示によって誕生した勇者が仲間を率いて蜂起したのだ。
勇者一行に次々と部下たちが倒されていって、気がついた時には四天王や親衛隊といった幹部たちまでもが手にかけられていた。
そして、遂に残ったのは自分だけとなり、勇者たちを圧倒的な魔力と技で圧倒していたものの、今までの人間共とは比較にならない強さにトドメを刺せず、持久戦に持ち込まれ、こちらの魔力が目減りしていった。
このままではまずいと、渾身の特大魔術を放ったその時、突然轟音とともに大爆発が起こった。
魔王城が崩れていく中で、彼は魔力を失っていて防御を張る事も出来ずに、崩れゆく城と運命を共にした……ハズだったが、気がついたらここにいたのだという。
恐らく、元々傷を負っていた上、時空を超えた際の身体的な負担もあって、記憶が失われてしまったのだろう。
源さんは、あまりにも自分のしていた事が怖くなって深夜の病室にも関わらず叫び声をあげて暴れ出し、看護師さんが病室に駆け込んだ時にはその姿は無かったそうだ。
旅館の夫婦が連絡を受けて病院に駆けつけて、旅館に戻るとミストラルが消えていて、心配をした夫妻が警察に届け、消防団と共に山狩りをしたが見つからなかった。
1週間後、埼玉県のコインパーキングに放置されているのが発見され、源さんを心配した夫妻の強い希望により、ここにやって来た経緯が。
沙菜は、車の隅々から思念を集めた。
今までのケースとは少し違って、今回は現役稼働車両からの思念調査ではあるが、するべき事にあまり大きな差は無いので丁寧に全ての思念を収集すると
「良き旅を……」
と言って車葬を終了した。
◇◆◇◆◇
翌日、夫妻と見覚えのある外国人男性がやって来た。ラファーガの車葬の時にやって来た某国の大臣だった。
彼は、公務があったのだが弟子の一大事を知ると、急遽お忍びで日本へと飛んだそうだ。
ミストラルの中からは練炭や塩素ガスの発生する洗剤などが見つかっていて、自殺が懸念される事から緊急を要するのだという。
沙菜は、ミストラルから収集した結果をありのままに報告した。
夫婦は言葉に詰まっていたが、今までに沙菜が遭遇したあっちの世界の人間は複数人いる事、更には源さんこと魔王と戦っていた側の人間も複数ここに来ていることを話すと
「確かに、ジョイさんの件もあるから……」
と言ってその内容を呑み込んだ。
ジョイさんとは、この番頭さんの事だろう。確かに、この人の経歴も普通だったら遭遇しないものなので、あり得ない事も無いと納得できてしまうかもしれない。
沙菜は、目を瞑って浮かんだものをメモ帳に書き取っていく、そして、それを夫妻に渡すと、彼らの顔色が変わった。
「私がミストラルから読み取った、彼の思念の行き先として考えられる場所です」
と沙菜が言うと、顔を見合わせて頷いた。
どうやら、そこは彼らがかつて住んでいた家があった場所だそうだ。
兄が亡くなるというアクシデントさえ起こらなければ、あの家に住み続けて子供が生まれ、東京で憧れた仕事にも就けていたので違う人生があったのではないか……と、辛いことがあるたびに思っていたのだという。
「恐らく魔王という事もあって、人の負の感情を察する力が優れているのかもしれません」
夫妻はその話を聞くと、番頭さんと共に急いでそこへと向かって行った。
◇◆◇◆◇
それから5日が経過した。
今日は、元勇者の庭師と元魔法使いの彼女がやって来た。
旅館の夫妻と対面させて、魔王のその後と今の状況についての話になった。
あの後、夫妻と番頭さんが空き家になった家に飛び込んだところ、梁に首を吊って自殺を図っている源さんを発見したそうだ。
病院へと担ぎ込まれ、一命は取り留めた。まだ吊った直後だったために脳にダメージもいっておらず、後遺症が残るものでも無かったのだそうだが、彼の以前の記憶が、今の彼を
「許してくださいとは言いません。でも、今の彼はそれを背負って苦しんでいる事、前の世界での彼とは違うという事だけは分かってください」
夫妻が深く頭を下げながら言うと、2人は顔見合わせた。
沙菜は彼らの話も聞いたことがあるので、それを言われても納得できないのは分かる。
庭師の彼の場合は親友と弟を殺されているし、魔法使いの彼女も村を全滅させられていると聞いているので、今更当人でない人間の頭が下がったところで……というのが正直な気持ちだろう。
しかし、彼は次の瞬間、2人の方を向くと
「俺たちが戦っていたのも、憎んでいたのも世界を破滅させてもなお、人を蹂躙し続けた魔王なんです。過去の罪に耐え切れずに自殺するような弱い人間じゃない。もう、魔王はいないと分かれば、俺たちの目的は達成されたんです」
と言って、彼らの肩を抱いた。
そして元魔法使いと顔を見合わせると、こう伝えていった。
もう、彼らの戦いは終わっているのだ。今、この世界にいるのは魔王でも勇者のパーティでもなく、ただその記憶の残った人間だという事を、彼に伝えて欲しいと。
それだけを言うと2人は帰って行った。
その後の彼らがどうなったのかについては、沙菜はよく知らないし、知ろうとも思っていないのだが、作業の終わった車を取りに来た夫妻から聞かされたのは、源さんは再び旅館で働いているという事、元勇者の彼が庭師の先輩たちと慰安旅行と称して泊りに来た事があったそうだ。
彼らの間にその時、どんな話があったのかは夫妻も分からないのだが、ただ1つ言える事は今日も何事もなく以前と同じ日が続いているという事だった。
そんな後ろで流れているテレビのニュースは、某国の大臣がどこかの国へと訪問して経済支援を取り付けた……というものだった。
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