第6話 親愛なるものへ-6


                   *


 朝もやの中をジョギングしてる風を装いながら、霧ヶ丘通りの商店の前を物色して歩いた。捨てられたキャラメルの箱がひとつ手に入っただけだった。そのまま清明女学院の横を通って上岡の駅前に向かった。

 新聞配達の学生が自転車を走らせている。軽く手を振って笑顔で挨拶を返す。ふと道の脇の門の横に牛乳を見つけた。美生は辺りに人がいないのを確かめると手早くそれを失敬して、走り出した。角を一つ曲がって後から人がついてきていないのを確認すると、手際よく蓋を開けて飲み始めた。不意に横道からサラリーマンが姿を見せて不審な表情を見せたが、美生は気にすることなくそれを飲み干した。そのまま駅前に足を進めた。

 駅を越えて坂を下ると、広い通りに抜けた。その道は丘に続いている。確かこの丘の上が上岡中学だ。美生はその道を見上げながらゆっくりと登り始めた。坂は登るにつれて勾配が急になっていく。息を切らして登りきると平らな平地が広がり、その先に校門が見えている。あそこか、と思いながらふと振りかえると、坂の下もその上に広がる線路もその向こうに広がる風景も一望できた。美生は大きく息を吐きながら感心してその風景を眺めた。

 いい所にある学校だな。

 ぼんやりとそう思い、そのまま上岡中の方へ歩いた。まだ校門は閉ざされている。何の変哲もない無味乾燥な鉄柵の門。その周りはコンクリートの塀。なんでわざわざこんなとこに来たんだろうと、首を傾げて道を引き返した。


 岩瀬川横のグラウンドを物色し終わると、のんびりと土手に上がって風景を眺めた。道行く人は、この年齢不詳の少女を怪訝な顔で眺めて通り過ぎたが、美生はあえて平気な顔をしていた。まだ昼日中。本当なら学校に収められているはずの少女が堂々と川べりで風を受けている。そんな光景を不審に思わない人の方がおかしいかもしれない。そうは思いながらも、この間警官をあしらったように誰にでも対応できるさ、と考えていた。風は気持ちいい。海からは離れているので磯の香は漂ってはこない。ただ水の香りが美生の顔に当たっている。

 遠くで工場のサイレンが聞こえる。休憩時間だろうか。そう思いながら川伝いに歩き出した。土手には背の高い黄色い花が満開で、暖かな日差しを歓迎しているかのように揺れている。美生は柵に手を当てながら、つらつらと歩いた。時折、蝶々がどこからか沸いて出たように視界に現れて、そして消えていく。鼻唄を歌っていると線路に辿り着いた。今度は線路沿いに坂を上がっていく。すると上岡の駅前に出る。美生は楽しみだった。平日のこの時間に堂々と人のいる真ん中を歩き回ることが。轟音を轟かせながら特急列車が駆け抜けていった。美生はそれを追うように道を進んだ。

 坂の途中で自動販売機を見つけ、一応下を覗いてみようかと思ったが、真昼に不審な行動をすることに戸惑いがあったので、未練はあったがそのまま無視して歩いた。と、行き先に一人の老女が座り込んでいる。美生は、近づくに任せて様子を伺った。老女は疲れたように俯いている。

「どうしたの、おばあちゃん」

美生は我慢できずに問い掛けた。老女はゆっくりと顔を挙げて美生を見た。特に驚くようでも不審がっているようでもないその表情にちょっと安心した。

「これがね、壊れて、荷物が持って帰れないんだ」

老女の視線の先を見ると、そこには傾いた手押し車があった。

「どうしたの?どこが壊れたの?」

「ほら、ここの車が壊れたんだ」

指さす部分を見ると確かに車が一個傾いている。ちょっと手を出して触ってみても、曲がってしまったそれは容易に動かなかった。手押し車の上には荷物が積んである。

「あたしが持っていってあげようか?」

美生の申し出に老女は初めて驚いたような様子を見せた。

「でも、悪いよ」

「いいよ。どこ?家」

「悪いね。じゃあ、手伝ってくれるかい」

 老女の荷物を担いで美生は、ゆっくりと足の悪い老女に歩調を合わせながら歩いた。上岡の駅を過ぎ、一つ目の角を曲がると少し古い店の前に立った。古ぼけた看板には、『甘味処よしだ』と書いてある。看板を見ている美生を招くように老女の声が掛かった。

「どうぞ、重かったろう。ありがとうね、ちょっとゆっくりしていってよ」

「あ、いや、たいしたことないっスよ。それより、あの手押し車取ってこようか?」

「え、でも、重いよ」

「いいよいいよ。家もわかったし、ちょっと行って取ってくるよ」

美生は制する声も聞かずに飛び出した。

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