第53話
二時限目の開始の鐘が鳴る。
二年生の職員室は思ったよりも静かだった。
「池山先生」
自分の担任の名を抱介は口に出して小さく呼んだ。数学の教員である池山は、珍しく自分の机に座って、何やら書き物をしているようだった。
「先生! 池山先生っ」
もう、二回ほど声を上げる。
「うん?」
三度目で、彼はようやく気付いてくれた。
こっち来い、と手招きされる。
抱介はあらかじめ入り口横のボックスに収納された、自主学習の申請用紙に記入してから、彼を呼んだ。
長方形の室内は、奥に足を踏み入れれば、狭い入り口からいきなり開放的な空間になる。右手は中庭に面していて、左手は駐車場に。奥には教頭先生か学年主任がいて、左奥には応接間がある。
視界が開けると同時に、声が聞こえてきた。
それは、二年の学年主任と教頭先生、あと二人ほどの声が混じっている。
「分かっているのか、槍塚」「原先生、あなたの受け持った時間ですよ」「この子はそんな生徒じゃないんです、先生たち。あれは何かの間違いだ」。
などと、四者三様の声。
伴って「はい」とか「え……」とか。そんな抑揚のないか細い声も、中には混じっていた。
一瞬、その声の主が誰かを察して、足が止まる。
止まりかけて、そのまま惰性でまた歩き出す。ここで関係者になっても、まるで無意味なことを抱介は知っていた。
池山教諭のデスクはその応接間とは真反対の、部屋の最奥に近いところにある。後ろに非常口があり、その手前の窓は厚さの為か、開け放たれていた。
「お前、今年も、か?」
「すみません」
「はあ……もうすぐ課題もあるぞ。大丈夫なのか」
「努力します」
「口だけにならないようにしてくれよ。数学なら教えるから」
「ありがとうございます」
やれやれ、とそう言いながら池山教諭は申請書に判を捺してくれた。
「もう行け。生徒がいていい時間じゃない」
微妙に左後ろに視線をやりながら、池山教諭は抱介を追い出す。
わざわざ怒られるような真似をして注目を引きたくはない。「すみません」と挨拶もそこそこに抱介は職員室を後にした。
「四人」
教頭先生に学年主任、原先生に、あとは季美。
どうして主犯格の乃蒼がいないのか、それはそれで不満があったけれど、わざわざ、間仕切りの向こう側を覗き込んでいるかいないかを確認しなくても、ソファーの足元に見える本数だけで物事は足りるものだ。
乃蒼があぐらをかいて、応接間のソファーに腰かけていない限りは。
「季美は校内にいる。まだ安全、と」
なら次は犯人捜し。
誰の?
あの撮影した奴を見つけなくては。
元来た道を戻りがてら、季美の教室の側を通るときにこっそりと、中を覗き込む。
初春の陽気に、どのクラスも窓側も廊下側も、窓を全部解放していた。
これはありがたい。
そして、誰かを確認しようとしたら、先に見つかった。
「ありゃ」
誰かと思ったら、一番後ろの席の男子。
だらしない制服の着こなしをし、上履きの踵を踏んで歩く、悪人もどき。
シャツの胸元を広く開け、裾をスラックスの外に出して、机の上に両足を載せている。
こんな悪い態度を許す教師は誰かと教壇に目が行けば、家庭科の真野先生がいた。小さな背格好でまだ大学を卒業して数年の若い女教師は、こいつら悪ガキに注意する気力に乏しいようだ。
いつかの噂では、乃蒼が彼女を泣かせてしばらく学校に出てこなかったこともあるという話もあった。
乃蒼とふと視線が合う。
学年一の悪は、学年一の不良生徒に意味ありげに微笑んで目を逸らすと、足を崩して座り直していた。
その目の前が季美の席で、そこから三つ前……。
ああ、女子か。そう思ったとき、ガタンっと勢いよく乃蒼が姿勢を変えた。
両足を机の上から跳ね上げると、勢いそのままに、椅子に手をついてこちらへとぐるり、と向きを変えた。
パァーンっとゴムでなにか硬いものをはたいた時のような打撃音が室内に響きわたる。
それを目の当たりにしていた真野先生は、可哀想に泣きそうになって肩を震わせていた。
「負け犬が。何の用だ? あ?」
ずいっと一歩立ち上がる。
舌を巻いたような、いまどきテレビドラマのチンピラでもしないような声を上げて、乃蒼は机の上に置いていたジュースの缶を手にすると、勢いよくこちらに投げつける。
「うわっ」
思わずのけ反り、それを避けきれないと脊髄が叫んでいるのを無視して、身を屈める。
すると、最初から狙っていなかったのか、それとも外したのか、それはあさっての方向に飛んでいき、カランっといい音を立てて床に転がった。
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