第49話

 三日目。

 木曜日。

 月曜日は祝日だったから、今日で新学期が始まって三日目。

 二年の校舎は、黒い噂に包まれていた。


「あの子、とうとうやったみたいよ」

「信じらんないね。前から危ないかなって思ってたけど」

「なんであんなことしたんだろうね」


 朝、登校してみたら部活の朝練にでていた連中が、先にクラス入りしていた。

 制鞄代わりのナップザックを机の物掛けに引っ掛けると、ゆっくりと椅子に腰かける。


 教室はキャップのついている飲料水なら持ち込みができる。

 ここに来る前に一回で購入したアイスコーヒーの蓋を開けながら、抱介は意図的にこちらに向けられたいくつかの視線を背中に受けて、嫌な汗を流していた。


 ‥‥‥何があったっていうんだ。

 昨日のあの事件だろうか。

 食道のあれ? それとも図書室のあれがどこかで見られていた?

 もしくは――?

 どれも確信が持てず首をかしげる。


 あるとしたら、食堂のあれだろう。

 槍塚姉妹のことは一年でも二年でも、それなりに有名らしい。

 あれだけの美貌を誇る姉妹なのだから、当然といえば当然。

 その二人の間に挟まれて、取り合いのように喧嘩をさせてしまったとなれば、覚えのない恨みを男子生徒達から買うことはよくわかる。

 なんとなくそれは理解できる。

 自分も男子だからだ。


 それに、季美も牧那も別々の意味で美しい。

 可愛らしいというより、美少女という形容がよく似合う。

 スタイルも良いし‥‥‥季美より牧那のほうがでっぱりは多いが。


 昨日のキスのこと思い出してちょっと顔が赤くなった。

 あの時、接触した牧那の胸は思い出の中にある元カノのものよりも、肉厚で弾力性がある。

 思わずこの状況をもっと楽しみたいと思ってしまった自分がそこにいた。

 いやいやそんな話じゃない。

 あの二人に言い寄られたのだとしたら、そりゃ‥‥‥なあ?


「なにが、なあ。なんだ」

「うわっ」 


 右斜め後ろで声がした。

 誠二がそこに立って、なんだか奇妙なものを見つめる目でこちらを見下ろしている。

 あまり関わりたくなさそうな雰囲気も醸し出していた。

 とはいえこいつは俺のすぐ目の前の席なのだ。

 などと、誰に言うとでもなく、抱介は嘆息する。


「おはよう。お前は噂になってるぞ」

「ああ、そう」

「そう、じゃなくて」


 まじで。と誠二は言った。

 自分の席に腰かけると、大層眠たそうなあくびを一つかましてから、抱介に向き直る。


「お前、今日はクラスにいた方がいいよ。本当にそうした方がいい」

「なんでそう思うんだ。誠二がそう言うのは珍しくないけど」


 心配して言ってるんだよ、と彼は難色を示した。

 それはどうも、と会釈で返す。


「おはよう」

「おっ、おう‥‥‥」


 柔らかい春のそよ風のような声が降って来た。

 誠二はそれまで誰が来ていた顔をシャキっと伸ばし、背筋をしゃんとして、椅子に座りなおす。


 彼の仕草から、その相手が誰なのか見なくても分かった。

 君塚みのり。誠二の想い人だ。

 不器用なこいつは彼女を目の前にするとまともに目も合わすことができなくなる。


 いつも通り挨拶もそこそこに顔を背けてしまった誠二の不器用さに、思わず苦笑せずにはいられない。

 こちらもまた、困ったね? とみのりは腰まである長い髪をポニーテールにして、それを減らしながら最初に顔を振っていた。


「十川君に風見君。おはよう」

「おはよう。君塚、早いな」

「今日は朝練、ちょっと途中で抜けてきたんだ」


 なんとなく困った顔して、彼女はそう言った。

 その笑顔のなにか問題を抱えたような微笑みが同居している。

 こいつにも何か伝わってるのか。

 そう思うと、抱介の心臓はどこか痛くなる。


 それを掴まれたように、ぐゅっと音がして、目を閉じてしまいたくなる。

 耳を塞いで、この世の何もかもから、離れてしまいたくなる。

 でも、死にたいとは思わない。

 ただ俺だけを放っておいてくれ。

 そう思うだけだ。


「風見くん、ちょっといい」

「え、ああ。うん」


 みのりはそう言って、抱介を教室の隅の方へと呼ぼうとする。

 あっちで二人きりで話をしよう。そんな感じに見えた。


「おいっ」


 誠二がどこか悲しそうな悲鳴を上げる。

 自分だけ蚊帳の外にしないでくれと言いたそうだった。

 その本心は、俺じゃないのかよ、だったと思うけれど。

 さそわれるがままに席を立ち抱介は教室の隅へと移動する。

 そんな彼らをクラスメイト達はやはり何か変なものを見る目で見つめていた。


「……あのね」


 みのりが、話しづらそうにするので、こちらから話題を振った。


「槍塚のことか」

「知ってたんだ」

「いや。実はなにも知らない。昨日、食堂であいつの妹と食事をしてたら姉妹喧嘩してたからそれかなって」


 あくまで自分は巻き込まれた方だと主張する。

 しかし、みのりの反応は違った。


「違うの。そうじゃなくて」

「は? なに」


 言いづらそうに、みのりは顔を伏せてしまう。

 やり取りだけを聞いていたらまるでこっちが責めてるみたいだ。

 今度はみのりにまで手を出したの、とかクラスメイトの噂に上りそうだ。

 そんなことになれば誠二との友情も瓦解する。

 それだけは避けなければならなかった。


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