第34話

 牧那は男性の怒りというものに晒された経験があまりないらしい。きゃっと呻いて、全身を縮めてしまった。


「……すまん。ごめん、もらうよ、な? 食べるからさ」

「……はい……先輩、怖い」

「悪かったって。そんな気はなかったんだよ、悪かったから」


 こちらを見てくる少女の目の端に何かが光っていたような気がして、すっと心から冷たくて嫌なものが消えた。俺のせいじゃないとか、そんな言い訳を感じたわけじゃない。泣かせてしまったことへの反省が、今は自分の感情を出すべきじゃないと理性を窘めた結果だった。


「怖い男性は嫌いなんです」

「そうか。悪かったな」


 もう四回ほど謝罪をした気がする。食べるように促されて、牧那はようやく箸を進めた。


 それからしばらく、二人の座る食卓は静かだった。牧那は食事中に喋らないよう躾けられているのか、黙々と無言のままかつ丼を処理していた。ご飯よりも冷めやすいうどんの方を優先したのが、悪かったのかもしれない。


 その前にサラダも食していたけれど、自分が提供したかつ丼に抱介が取り掛かるまで、牧那は終始無言だった。彼が自分の注文した料理を片付け、ようやくそれに取り掛かった時には、相手はさっさと食事を終えてしまっていた。


 じっと見つめられる居心地の悪さ。涙を流させてしまった罪悪感が胸の中からどうにも出て行かない。


「そんなに見るなよ。俺が悪かったからさ」

「別にそんなこと考えていません」

「どんなこと考えてんだ」

「先輩が食べてる姿はとてもかわいいなって、そう思ってます」

「……」


 それが本心なのか、それとも裏側にはとんでもない何かが潜んでいるのか。朝早くにゲリラ的に行われた唇の奪い合い。そこから始まった自分たちのよくわからない馴れ合いにも感じられるこの関係性。意味もなく、当たり前のようにそばにいながら、実は何も知らない距離感。これらはどういう風に処理すればいいのか。残念ながら、抱介はその方法を知っていた。


 今、この食堂にいる誰よりも。多分、一番詳しくて最も迅速で、最も効果が高く、相手との関係性を断ち切ることができる方法を。抱介は良く知っていた。


 牧那の姉、季美もこんな感じで自分に接してくることが多かったからだ。


「理不尽の権化」

「は?」

「あいつはいつも俺に対してそうだった」

「ああ……」


 あいつが誰かを彼女は察したらしい。その顔がちょっと曇ってしまう。


「いますよ、あそこに。理不尽の権化」


 そこ、と季美がいるであろう方向を牧那は顎で示した。それは抱介の真後ろに当たる場所で、前を向いている限りは、季美と顔を合わせることはない。


「そいつが出て行ってから俺も出て行くかな」

「さー、それはどうですかねー? 来てるし」


 と、無理なんじゃない?みたいなニュアンスを含みつつ発した言葉の中には、奇妙な棘がある。近づいてきたものを貫くような、そんな勢いのある棘だ。


「は? 来てる?」


 その問いかけに、牧那は静かに頷いた。


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