第30話
「まだ舌先が痛いー。ひどいーっ、あんなに強く噛まなくたってよかったのに」
先ほどの理不尽な出来事が本探しが終わった後に、牧那はぼやいていた。
「あーそうだなあ。はいはい、悪かった悪かったよ」
「何ですかその物言い。まるでどうでもいいものに対するような言い方じゃないですか!」
と、頬を膨らませて抗議するその様は、まるで幼稚園児のようだった。大人びた顔をしたり、幼い子供のような顔をしたりと忙しいやつだ。
だけどその視線がどこに向くこともない。彼女は先ほどから手に入れた宝物とやらに夢中になっていた。目は文字を追い、耳は言葉を聞き分け、口は不満を放出する。
全くもって器用な牧那だった。
「どうでもいいなんて言ってないだろ。その持っていたら、手伝ったりなんてしないよ」
と、少しだけイケメンのような返事をしてみる。ここは「お前なんて毛先ほどにも興味がない」と冷たく突き放すべきだったか?それを聞いて、牧那は顔を上げた。
その瞳には、期待といたずらに満ちた好奇心が浮かんでいる。
「もうー先輩ったらっ。そんなにうちのことが好きなんですか?噛み付きたくなるくらい?」
「……大きな声で言わなければ、後輩としては付き合えるかもな」
「ちぇっ」
また噛んでくれと言わんばかりに舌先を突き出そうとするから、それは丁寧にお断りした。すると牧那は「やっぱり駄目か」なんて肩をすくめて言うと、また読書に没入した。何か一つのことに集中すると、彼女は他の物事が目や耳に入らなくなるようだ。じっと真剣に本を視線でなぞるその姿には、どこか賢人めいたものすら感じてしまう。
まあ、そんなことは俺の妄想だろうけれど。と、抱介はしばらく牧那を観察し、相手がこちらに興味を失ったのを確認してから、自分の自習に取り掛かった。どうやらこの槍塚牧那という少女は、姉の季美とだいぶ違うらしい。
季美は何事にも飽きっぽく、それでいて自分のこなせる範囲でそれらをどうにか形にしていく器用な女だった。比べて牧那のほうは、実直。その言葉が当てはまるくらい、真面目で何事にも真摯に向かい合うような姿勢を感じさせる。男に対する執念という意味では同じく狂気めいたものを感じるのが、なんとも残念さを醸し出している。まあ、それが向けられる標的になった男は哀れなやつだ。
例えば……、 「俺か?」 思わず声が出た。
「はあ?」
それは牧那の集中を途切らすほど、大きかったらしい。しまった、と抱介は胸内で小さく舌打ちする。彼女の気をこちらに向ける気はなかったのだ。もうすぐで午前の授業が終わる。それに乗じて、学校を抜け出すつもりだった。体調が悪いとか、気分が優れないとか。理由はいくらでも後付けできる。
必要なのは、自由。ただ、それだけだった。
「いや、……なんでもない」
「はあ。そう言えばもう少しでお昼ですねえ、せんぱーい?」
首筋を舐めるようにして、牧那の声が這い上がってくる。抱介は思わず、身体を縮める。にへらぁっと悪い笑みを浮かべて、口の端を高く上げ、半目になって彼女は抱介の手をがしっと握った。
「逃がしませんから」
「なっ、何を」
「帰ろうとか思ってなかったですか」
「そっ、そんなはずっ、まだ午後の授業があるだろうが」
隠し事を見抜かれたような気がして、嫌な汗が背中を伝うのを感じる。言い訳は所詮、嘘にしかならず。どんなにねじくれた邪念の持ち主だとしても、それを自然と受け止めて行動する連中には敵わない。
「じゃあ、付き合ってくれますよね?お昼ごはん」
「……いや、俺には用がある」
「そんな言い訳要りませんから、ね!」
行動力のあるやつは強い。
午前の授業が終わりを告げるチャイムと共に、抵抗もむなしく抱介は食堂に拉致されたのだった。
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