習字の日
~ 十一月二日(火) 習字の日 ~
※
脇、肘を開き、筆を垂直に持つ
書道に適した構え。
正直書きづらい。
校長が、町内の書道大会で優勝したとのことで。
はた迷惑な企画が立ち上がった。
曰く、書道は青少年の育成に必要不可欠なうんぬんかんぬん。
曰く、書道で評価されることは人間性を認められたものとじゃんじゃんばりばり。
そんな高尚な理由で始まったのは。
全校書道週間というものだった。
筆と硯を四十個。
学校が準備したのは一クラス分。
だから順繰りに、一クラスずつ使いまわして。
授業を二時間分つぶしてまで。
『青春』と書きなぐる無駄な時間。
そんな責め苦が。
いよいよ俺たちにも訪れた。
「いいか? 納得いくまで集中して書くように。心・技・体。どれかが欠ければ文字に現れる。一つ一つを忘れることなく半紙に向かえ」
さすが昭和脳。
石頭の先生に見張られて。
それでも真面目に。
半紙に向かえば。
「わ、忘れた……」
「どれ。心? 技? 体?」
「細筆」
危うく笑いかけたが。
今のは、仕込みでもネタでもない。
こいつの、寂しそうに垂れ下がった眉根が。
大まじめだったことを物語る。
「いいじゃねえか、太筆で書けば。そもそもみんなそうしてる」
「そういうものじゃないの。あのね?
「止まれ止まれ止まれ。何が始まった」
「い、今のは、雨の日に書道するときの注意……」
「今日は?」
「晴れ」
「細筆の話は?」
「ほ、細筆忘れた……」
何が言いたいのかわからんが。
意外にも。
書道に並々ならぬこだわりがあったこいつは。
別に細筆じゃなくたって。
名前くらい、太い筆の先でちょちょいと書けばいいだろう。
なんてこと口にしたら。
ご高説を小一時間は聞かされることになりそうだ。
だって秋乃のこだわりは。
自前で習字道具を持ってくるほどなわけで。
その手に握られた太筆は。
使い込まれて、鈍い飴色に。
硯も角が取れて丸くなるほど。
そしてくすんで光沢を失った文鎮には。
かろうじて読み取ることができる。
時代を感じる文言が書かれていた。
いさねんにくみまいまいはまめきの。
「物持ちいいなあ」
「お、お父様にいただいた大切な習字セット……」
「自分で書いたんだ、名前」
「まいまいになってる……」
高級品なんてことは無い。
ごくごく安物の習字セットなのに。
親父さんと接点が少なかったせいで。
これほどの愛着を抱くとは。
実に秋乃らしい。
……でも。
そんな習字セットを見つめているうちに。
胸の中に芽生えたのは。
みょうな苛立ちと。
みょうな対抗意識。
よし、細筆だったな?
俺が準備して。
そして無様に笑わせてくれる!
「……はい」
「え?」
「細筆」
「ふ、太筆よ、これ」
「よく見ろ」
秋乃に手渡した太筆の。
胴の辺りに書かれた文字は。
← 細 太 →
そして筆のお尻についた。
紐のループを真ん中からちょん切って。
毛が二本の細筆にしておいたんだが。
「お返しさがしてわたわたすんな。まず笑え」
いつものように、笑いやしないで。
お返しの笑いを考えながらわたわたしてる。
そんな秋乃の右手に握られていたのは。
墨を付けた。
自分の毛先。
「うはははははははははははは!!! 細筆持ってた!」
ちきしょう!
天然に負けた!
こいつとの勝負には。
ネタの面白さだけじゃなくて。
この飛び道具の破壊力も計算にいれないといかんのか!
「舞浜ちゃん、細筆持ってるの? 貸して貸して!」
「は、はい。どうぞ」
「うわあ」
「舞浜が細筆持ってるって? 俺にも貸せよ!」
「はい」
「うわあ」
「うはははははははははははは!!!」
そんな、歩く細筆が。
飴色の毛先を黒く染めながら教室中を練り歩くと。
「おい。何の騒ぎだ」
代わりに、先生が。
やたら太い筆を持って席に来た。
「先生も書いてたんだ」
「誤魔化すな。廊下に立っとれ」
「俺は関係ねえ。秋乃が細筆欲しいからって、自分の髪を筆にしたんだ」
「……ふむ、なるほど」
ふっさふさの筆を手に。
秋乃の様子をうかがった先生は。
それきり何も言わずに。
教卓へ向けて歩き出す。
「なんだ。おとがめなしか」
「記念筆というものがあってな」
「記念筆?」
「うちの娘の記念筆、どこにしまったか……」
「なんか特殊なのか?」
「赤ん坊の時に切った髪で作るのだ」
そう言いながら。
遠くを見つめる先生に向けて。
俺は考え無しに。
思ったことをそのまま呟いた。
「ああ、それで」
そんな俺の視線が。
自分の持っていたふさふさの筆と頭部を行ったり来たりしていたことに気付いた先生は。
烈火のごとく怒った後。
バリカン持ち出して。
俺の襟足を刈り上げて。
細筆を四十本分作りやがった。
「…………墨、塗っとく?」
「やかましい。……はくしょっ!」
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