第2話 夏色
俺の家は母が原因で、かなり複雑な状況にあった。
母は恋多き人だったから、俺を産むと父を置いてすぐに他の
父は俺を母の実家に残し、離婚届を置いて去った。
俺が、4つの時の話だ。
厳格な祖父母は、俺のことを良くは思わなかった。
「あれの息子だ、まともな訳がない。」
「既にお前の母と縁などない。なぜうちでお前を預かるのか。・・・・・当家の恥だ。」
「居候が。」
と、俺の耳を毎日侵していく呪いのような言葉が、ただただ哀しかった。
それでも俺にとってこの場所は、以前とは比べ物にならないほど、居心地が良かった。
空腹に耐える必要も、抗えない理不尽な男たちの力を我慢する必要も、痛みもなかったからだ。
それだけではない。
俺を嫌ってはいても、この祖父母は熱を出せば、布団を用意してくれたし、医者に診せ薬もくれるのだ。
俺が祖父母の元で辛いと感じたのは、食事を別にされたことだった。
両親と共にした食事の楽しさを記憶の片隅に残していた俺は、一人だけ食事の時間が分けられていることに肩を落とした。
俺が食事をしている間は、毎回祖母が厳しい目で見張り、作法や姿勢を事細かに注意してくる。
冷めてしまったおかずを慎重に口に運びながら、幼かった俺は寂しさをこらえきれず、涙を溢した。
*************
小学校に入学するとすぐ、祖父は俺を自分の所属している剣道の道場へ入団させた。
入団した俺は、稽古のあるなしにかかわらず、どんなに少なくとも1日に千本以上は竹刀を振るようになった。
素振りをするのは嫌いじゃなかった。
振っている間は、全ての煩わしさや苦しみから切り離され、俺は一人無心でいられたからだ。
それに、同じ年の子にくらべ、身体が極端に小さく、体力もない俺が強くなるには、人と同じことをしていたのでは全く足りないのだ。
祖父の剣道に対する情熱は強く、俺はこれが祖父と繋がりを持てる唯一のものだと信じ一心不乱に稽古を続けた。
5年の月日が流れ、気づけば俺は、団の中で圧倒的に強い存在となっていた。
6年生になると、祖母の勉強に対するチェックが突然厳しくなったが、俺は物を覚えるのが苦手ではなかったから、幸い勉強で苦労する必要はなく、相変わらず稽古に集中していられた。
祖父母の態度は変わることがなかったが、信頼できる仲間ができた。
俺はようやく、自分もみんなと一緒に笑ってすごしていいのかもしれない・・・それが許されるのではないかと、そう思えるようになってきていた。
そんな、小学校最後の夏休みのことだった。
俺が、彼と出会ったのは・・・・・・。
*************
その日。
俺は剣道の夏合宿で、他県にある深い森に囲まれた稽古場に来ていた。
休憩時間となり、俺は一人外へ出て涼みながら、自分の長い髪を後ろで結い直した。
祖父母は俺の髪が伸びることに全くの無頓着だ。
散髪のできる店は、俺の家から歩いて行ける範囲にはなかったし、金の無心をするような真似もできず、前髪だけ自分で適当な長さまでざっくり切って中央で分けて流し、後ろ髪は伸びるにまかせていた。
2リッターのスポーツドリンクをボトルのままラッパ飲みしていると、後ろから剣道の先生と祖父の声が響いてきた。
どうやら死角になっていて俺の姿は見えていないようだ。
「お孫さんがあんなに強くなられて、鼻が高いでしょう。今年の個人戦優勝候補は、間違いなく彼ですよ。」
そう明るく話しかけた先生の言葉を、祖父は鼻で笑った。
「フンッ。あれが強いのは私の手柄ではない。あれが勝手にやっていることだ。お前も知っているだろう?汚らわしいあの娘が産んだ子だ。何をするかわからん。あれがどうあろうと何をしようと、私は何も感じんよ。あれを孫だと思ったことは一度もない。家の恥・・・ただのお荷物だ。」
祖父の言葉が、俺の心の中を重く凍らせた。
息が、上手くできない。
俺は今まで何をしてきた・・・・・?
気づけば俺は、駆け出していた。
焼けるような真夏の日差しを浴びているのに、指先も、胸の中も、氷のように冷たかった。
止めることのできない涙だけが熱く、走る俺の視界をぼやけさせた。
**************
どれくらい走っただろうか。
木々の間を走っていた俺は、突然何かにぶつかった。
はじけ飛びそうになった俺の肩を、誰かの温かい手がつかんで引き寄せた。
手にしていたペットボトルが落ち葉の上に滑り落ちる。
「あっぶな!・・・・お前、大丈夫か?」
俺より大分背の高い少年は、そう言って心配そうに俺を見つめてきた。
俺より背が高いとは言っても、雰囲気からして、恐らく年下だろう。
彼は俺の顔を見て、眉間にしわをよせた。
「どっか痛くした?なんで泣いてんの?」
そう言われて初めて俺は、この年下の彼に泣き顔を晒していることに気づいた。
腕で彼を押しのけるようにして、慌てて顔を背ける。
「泣いてなんかいない。」
「いや。凄い泣いてるよ。」
「泣いてないって言ってるだろ!」
頭の中がぐちゃぐちゃだった俺は、思わず両手で彼の胸倉をつかんだ。
伸びたTシャツの首元から、赤い蝶に似た形の痣のついた鎖骨が目に映り、俺は我に返って手を離した。
「ごめん・・・・・。」
自分の中に、母が連れてきた男たちの影を見たような気がして、俺の身体は震えた。
「別に。・・・・何?寒いの?」
彼は、そう言って、俺の背をなでた。
その手のひらがとても温かく、ひどく優しくて、俺はその場にうずくまり声を殺して泣いた。
彼はずっと、何も言わずに震える俺の背をなでていた。
「へへへ・・・・。お前って、泣き虫だな。」
ようやく落ち着いて顔を上げると、彼は笑いながらそう言ってきた。
俺は彼の顔を鋭くにらんだ。
なんてデリカシーのない奴なんだ。
「はははっ。怒んないでよ。俺、泣いてる奴を綺麗だって思ったの初めてだったから、ついね。別にいいでしょ。」
「意味がわからない。」
「わからないの?・・・・・誉めてるんだよ。」
そう言って笑みを見せる彼から顔を背けると、彼はあっけらかんとした口調でとんでもない事を言い出した。
「でも今は、できれば笑ってる顔を見ていたい。」
「何言ってるんだ?」
「不安な時は、笑顔になるといいって、俺の兄ちゃん言ってたから。」
「不安?」
「俺、今迷子なんだ。俺って、忘れっぽい奴で。そんでもって、方向音痴なんだって。」
俺は一瞬固まった。
俺・・・・・ここまでどこをどうやって走ってきた?
まずい。
俺は決して方向音痴ではないけれど、動揺してここまでがむしゃらに走ってきてしまったため、全く道を覚えていなかった。
真夏の森は、俺たちを深い緑の中に閉じ込めてしまったのだ。
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