俺の消えた世界で生きる・・・・・大切な君へ。

utsuro

第1話 僕の最期の物語

 恐れていた日がやってきたことを、俺は知った。

 君と共に生きていられる時間が、残りわずかとなったのだ。


 君と君の兄と俺の3人が暮らしているマンションのリビングで、今は俺だけが、独り冷たい静寂に包まれていた。


 俺は買ってきたばかりの淡い緑色の封筒と、真っ白な便箋を取り出し、ペンを手に取った・・・・・・。


 恐怖に凍え震える気持ちを落ち着かせるように、ゆっくりと、丁寧に、俺は君との記憶を紐解き始める。


************

 

 俺が勤めていた会社に、君が新入社員として入社してきたのは、俺が入社して3年目のことだった。


 俺を女と見間違えた君は、真っ直ぐな目をして、俺にそのことをわざわざ告げてきた。


 女顔なうえ線が細いせいか、女に間違えられたり実際の年齢よりかなり若く見られることが、俺にはよくあった。

 だが、ここまでストレートに言われたのは初めてだ。


 俺と同じ部署に配属が決まり、寮でも同室になった20センチも背の高い君は、あまりにも出来過ぎていて俺は少し呆れてしまった。

 だって、博識で優しく勇気もある君は、明るく素直なうえに仕草や見た目までよかったんだから、呆れるしかないだろう。


 欠点があるとしたら、忘れっぽくて、方向音痴なところくらいなんだから・・・・。

 


 1年が過ぎ、君がすっかり仕事に慣れたころ、小さな事件が起きた。

 

 恋愛関係のもめごとに巻き込まれた俺が、事を収めるために部署を異動することを選んだんだ。

 それが、俺たちの運命を分ける選択になるなんて知らなかったから・・・・・。


 俺の移動先の部署は、商品の製造部門を担当する工場だった。


 俺が配属され少しすると、長年勤めていたパートのおばちゃんたちや係長が、体調不良というあいまいな理由で、別れの挨拶を交わすこともなく突然退職していった。


 次々と、同じ理由で社員が辞めていく中、俺はついにその原因を突き止めた。

 俺が新しく配属された部署は、商品の材料に含まれる"石綿"という名の煌めく悪魔の粉で侵されていたのだ。


 勤続年数が同じくらいの他の社員を調べると、遠い過去にほんの数日間この部署を手伝っただけの社員が、同じ病に倒れ、すでに何名も亡くなっている事が分かった。


 俺は・・・手遅れかもしれない。

 暗く冷たい想いが、世界から急速に色を奪っていく。

 

 突然口数の減った俺を君が放っておくわけがないことを、その時の俺に考える余裕はなかった。



*************


 俺の様子を心配して見に来た君が、輝く毒の粉が降り注ぐ中、マスクもせずにたたずんでいるのを見た時。

 俺の心臓は凍り付いた。


 いまさら自分の浅はかさを呪っても、間に合うものではなかった。

 ここに来てはいけないと、君に伝えておくべきだったんだ・・・・・。


 俺は力ずくで君を作業場から追い出した。


 「もう二度と、ここへは来るな!」


 自分への激しい怒りを抱えた俺は、乱暴に言葉を投げつけると、傷ついた表情かおで見つめてくる君を残し、きびすを返した。

 このまま声を上げて泣いてしまいたかった。


 怖い・・・・・・。

 怖くてたまらない。


 なぜ、君は来てしまったんだ。

 ほんの少し吸っただけで、胸に死の種を植え付けられてしまうかもしれないこの場所に・・・・・。


 打ちひしがれたまま仕事を終え部屋に戻ると、君は眠ったふりをしていた。


 君の「おかえり。」という声が聞けない夜は初めてだった。

 切なさと寂しさから、思わず彼に向け伸ばしてしまった俺の手は、無言のまま遮られ強く拒絶された。


 俺は・・・・・君を酷く、傷つけてしまったのだ。


 冷たいシャワーを浴びながら、戻すことのできない時を呪い、俺は声を潜めて涙を流した。


 翌朝。

 目を覚ますと、部屋の中に君の姿はなかった。

 俺を避けて、コンビニで時間をつぶしているのだろう。


 力なくいつものように職場へ向かい1日の仕事を終えた俺は、重い足取りで部屋の前まで来て、立ち止まった。

 冷たく震える手でドアを開けると、目の前に君が立っていた。


 驚き、目を見開く俺の腕を、温かい手で力強く掴み、君は口を開いた。


 「嘘つき。」


 あふれ出す涙で、君の顔がよく見えない。

 

 「もう。何も言わないでください。あなたの優しさは僕には辛すぎる。」


 そう言って頭を撫でてきた君の手があまりにも優しくて・・・・・・。

 俺は静かに目をつぶった・・・・・・。


 唇に感じる柔らかな温もりと、耳元で紡がれる甘い告白が、世界を再び鮮やかに染め上げていくのを感じながら、俺は・・・・・人生で2度目の、最後の恋をした。


 痺れるような幸せに溺れそうになりながら、重なり合う温もりの中をまどろんでいた俺は、君の鎖骨を目にした瞬間、あまりの驚きに息をのんだ。


 俺の目線に気づいた君は微笑んだ。


 「あぁ。あざですよ。気持ち悪い・・・ですか?」

 「違うっ・・・・・。」

 

 傷ついた様子の君に、俺は慌てて首を振った。

 赤い蝶に似た形のその痣に、俺は見覚えがあったんだ。


 こんな偶然があるのだろうか・・・・・。


 俺は、大切な思い出を辿るように、その痣を指で静かになぞり、そっと口づけた。

 幼い日の夏休みの記憶が、鮮明に俺の頭の中を駆け巡る・・・・・。


 再び涙をあふれさせた俺の頭を腕に包み込み、君は笑いながら囁いた。


 「あなたって人は、本当に泣き虫だ。」


 どこかで聞いたことのあるそのセリフに、俺の心が愛おしさに震える。


 俺の世界は、あの遠い夏の日、生まれて初めて色づいたんだ・・・・・・。

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