タイトル未定の関係

フロクロ

第1話

 カリカリカリカリ……。

 数式の書かれた黒板と手元のノートを交互に見遣りながら、板書を写すフリをする。

 カリカリカリカリ……。

 縦書きのノートの上には、過去作の追随を許さない最高傑作が完成しつつあった。


 高校2年生の春。学校が始まって2週間ほど。僕は早くもクラスで孤立していた。

 といっても、孤立していたのは今に始まったことではない。いわゆる帰宅部だった僕は1年の教室でも誰にも馴染めず、ひとりで弁当をつつくのが日常だった。


 しかし、その日常に苦痛を感じていたかといえば、そういうわけでもない。僕はこの孤独な生活に自分なりの安寧を見つけることに成功していた。


 それが、創作である。


 僕は成績優秀なタイプではなかったが、遅々として進む授業がどうにも退屈だった。そこで、高1の夏、退屈のあまり浮かんだ妄想を試しにノートに書き留めてみたら、これが妙に楽しい。普段読んでいた小説の世界を継ぎ接ぎし、新たな物語に作り変える。目の前で紡がれ続ける新しい世界の数々にのめり込み、以降、学校の教室は僕だけの執筆部屋になっていた。誰も知らない、誰とも共有しない、自分だけの秘密の世界。


 しかし、その生活は突如終わりを告げる。


「キミ、授業中なにか書いてるでしょ。何書いてるの」


 放課後、声に驚いて振り向くと、後ろの席の西崎さんがこっちを見ていた。

「ぼ、僕に話しかけてるんですか」

 思わず声がどもる。クラスメイトと話すのなんていつぶりだろうか。ましてや女子。

「他にいないでしょ。キミ、学校でいつもノートに何か書き溜めてるじゃん。何あれ、小説?」

 鼓動が早まり、同時に血の気が引いた。脳内の「安寧」の2文字が音を立て崩れ落ちる。バレていた。授業中に小説を書いていることが。慣れない会話に頭を高速回転させる。とりあえずここは穏便に、落ち着いて……

「べつに、ただ思ったこと書き散らしてるだけですよ。小説なんて大したもんじゃ……」

「読ませてよ」

 西崎さんがぐいっと顔を近づけてきた。ち、近い!そして思わず大声で叫ぶ。

「絶対嫌です!!!」

 高校生活最大の声量を更新。聞き慣れない大声に教室が一瞬静まり返るが、すぐにもとのざわめきを取り戻す。思わず取り乱してしまったことに赤面したが、今はそれどころではない。ほぼ初対面の、ましてやバレー部のエースという陽向の中心にいるような西崎さんに僕の趣味が理解できるはずがないのだ。陽向人間が時折やる相手の領域に土足で上がり込む身勝手で乱暴なコミュニケーションは、僕が最も嫌いなものだった。

「とにかく、もう僕に話しかけないでください」

 荷物を持って、慌てて教室を出た。明日小説を書いていることが言いふらされていたらどうしよう。その時はその時だ。どうせすぐ誰も気にしなくなる。誰も僕にそんな興味はないのだから。


 ■


 翌日の放課後、英語の田中先生が呼び出していると言われ震えながら職員室に向かったが、田中先生には別に呼んでいないと言われ、首をひねりながら教室に戻った。すると

「やあ」

 そこには誰もいない教室で机に座りながら僕の創作ノートに目を通す西崎さんの姿があった。

「ばっ!!!!」

 思わず駆け寄ってノートを取り上げる。

「人のノートを勝手に……ってもしやさっきの呼び出しも……!」

「あ、アレね。ひかるちゃんに無理言って、キミに嘘の呼び出しを伝えてもらったの」

 膝から崩れ落ちそうになった。外道だ……。怒りから思わず拳を握りしめる。しかし、

「この小説、傑作だね」

 その言葉に意表を突かれ、拳が緩んだ。そして何より驚いたのは、それに続く言葉だ。

「キミ、円城塔好きでしょ。テッド・チャンも感じるな……あともしかしてボルヘスも好き?オタクだねぇ」

 西崎さんの口から出た言葉が飲み込めず、しばらく呆然とした。この教室に円城塔を知っている人間がいただけで奇跡なのに、ましてや

「ボ、ボルヘス知ってるんですか」

「う~ん、全部は読んでないけど、でも邦訳が出てる分はだいたい読んだかな」

 自分より読んでるじゃないか。唖然とする。あの陽向の中心にいるような雰囲気の西崎さんが、僕以上の文学オタクだったなんて……。しかし西崎さんはそんな僕を意に介さず、淡々と続ける。

「この小説、どっかに出さないの?」

「どっかって……」

「文学賞とかさ」

 ブンガクショウ。慣れない概念で変換に時間がかかった。

「だ、出さないですよ。こんな片手間の趣味で書いたもの……」

「でも、この作品、自信あるでしょ? 特に舞台設定と、構成の組み方」

 図星だった。書いていたのは人間の深層心理を舞台にし、現実と虚構が次第に溶け合う構成。表現力やキャラクターの魅力に自信はなかったが、設定とストーリーの構成は今までで最高のものが描けていた。何なら、世界でまだ僕しか書いていないとすら思えた。僕はつい西崎さんに問うてしまう。

「西崎さんは、なんでそんな僕に構うんですか」

 こんな根暗のオタクに執拗に話しかけ、小説を勝手に読んでべた褒めする動機が、僕には全く見えなかった。すると西崎さんは返した。

「私はね、編集者になりたいの」

「編集者?」

「そう。最高の作家を発掘して、まだこの世に存在しない最高の作品を送り出す仕事。退屈な現実世界を言葉の力でひっくり返してくれる、そんな傑作を引き連れて歩く、そんな仕事!」

 西崎さんは目を輝かせながら語った。そして僕にぐいっと顔を近づけて、言った。

「断言するけど、キミには才能がある。私と組まない?」


 ■


 そうして、西崎さんとの執筆生活が始まった。昼休みや西崎さんの部活がない放課後に二人で机を挟んで、僕が書いた小説について議論する。西崎さんは僕がこだわっている部分と、ただ意識が向いてない部分をひと目見て峻別し、前者の独りよがりな部分には修正を与え、後者には客観的な助言やリファレンスを与えてくれた。

 執筆の話だけでなく、最近読んだ小説や映画の話もした。西崎さんのインプットは膨大で、部活もこなしながらどうやってその量を吸収しているのか、謎だった。

 夏休みにはファミレスで顔を突き合わせながら朝から晩まで小説を書いて、二人で苦心して生み出されたその作品は学生限定のSF文学賞で最優秀賞を獲得した。

「西崎さん、さ、ささ、最優秀賞だって……!」

「当たり前でしょ。面白いもん。これで選ばれなかったら審査員の目が節穴なの」


 ■


 秋になり、再び学校が始まった。僕は自分に自信がついたからか、以前より人と話せるようになって、友達も何人かできた。書いた小説を人に読んでもらう機会も増えた。反応は「おもしろい」だったり「よくわかんない」だったりまちまちだが、リアクションがもらえることの嬉しさを知った。


 そして何より、学校で西崎さんと話すのが楽しかった。自分の知らないことを知っていて、確かな審美眼を持って自分を導いてくれる。西崎さんとなら、作家と編集の二人三脚でプロの世界を目指せると、本気でそう感じた。


 季節は巡り、12月。冬休み前最後の放課後、いつものように書いた原稿を西崎さんに渡した。かつてはノートだったそれも、今では原稿用紙の束だ。西崎さんの感想をもらうまでのこの時間は、生きている中で一番ドキドキする。まるで、自分の皮を剥いだ、その中身を覗かれているようで。


 一通り原稿に目を通した西崎さんは、小さくため息をついた。

 その瞬間、背筋が凍るのを感じた。胃が収縮し、掌から悪い汗がじっとりと滲む。そして西崎さんは僕の目を見て、哀しそうな目をこちらに向けて、こう言った。

「もう、駄目になっちゃったんだね」

「えっ……」

 言葉の意味はわからなかったが、そこには何やら死刑宣告めいた響きがあった。

「以前の君だったらここで展開の流れを断ち切って、事態を複雑に絡めていたはず。設定と人物の隙間を縫うようにストーリーの解決を模索したはず。それがどうして、どうしてこんなに安易にまとめてしまったの?」

 冷たい声が空の教室に響いた。冬の無音が耳に痛かった。

「クラスに居場所もなく、孤独で、教師からもうっすら嫌われていた君の作品は、もっと淀んで、どす黒くて、ギラついいてた。こんな平凡で、安直で、ありふれた妄想なんて書かなかった。これじゃまるで、退屈な現実そのままじゃん」

 悲鳴に近い声だった。何が起きているのかわからず、教室がぐるぐると回るような感覚に陥った。

 西崎さんは教室を出ていく前に、こう言い残した。

「最初に見せてくれた作品を超える自信作が出来るまで、もう話しかけないで」


 そして1ヶ月、2ヶ月経ち、春を迎え、クラス替えの季節になった。結局、西崎さんと話すことはないまま、高3で僕らは別々のクラスになった。


 今も、結局小説は書いていない。書いていないが、それなりに幸せである。それでいい気がしている。




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