嘱託刑事 能登旅日記

沢藤南湘

第1話のみ

羽田空港八時五十五分発、能登里山空港九時五十五分着のANA747便に乗るために、朝五時妻の雅子と私と慌てて、家を飛び出た。

 雅子は東都大学の准教授で日本史専門そして、私は先日神奈川県警を定年したばかりであった。

 羽田空港で搭乗手続きをして、無事飛行機に乗ることができた。

 空港に着くとツアーコンダクターらしき人が黄色の小旗を掲げて出口で待っていた。

 そこに十名ほど集まってきたのを見て、「バスツアーの団体さんね」と妻が言った。

 私は、福田レンタカーと書かれた窓口に行って手続きを終えると、案内板に従いモータープールに行った。

 車種はトヨタのアクアだった。

 従業員から、簡単な説明を受けたが、さらに妻がナビの使い方がわからないと言い、その男に取り扱いの説明を求めた。

 男の丁寧な説明に、妻は「ありがとうございました」と礼を言い、最初の行き先輪島の朝市にナビをセットした。

「じゃあ行くか」

 いよいよ、能登二泊三日の旅の始まりだ。

 朝市に着いたのが、十時を多少回っていたためだろうか、なん軒かは店を閉じていた。  

 平日なのに、人通りは思った以上多いのに驚いた。

「あなた、あの人たち」と妻が言った。

 妻の見ている方向に顔を向けると、先ほど見かけたツアーの人たちが列を組んで店店を覗きながら歩いてきた。

 妻が多少の土産を買ってから、駐車場に戻った。

「朝食、どうする」

「ここにはあまり食べる所が無いみたいだから、次に行くか」

 次の白米千枚田しろよねせんまいだに到着した。

 妻の説明によると、ここは、世界農業遺産「能登の里山里海」の代表的な棚田で、日本の原風景と呼ばれ、昔ながらの農法すなわち日本古来の農法「苗代田」を復活させ、実際に種籾から苗を育成し、稲作を行う取り組みを行っているそうだ。

 十月下旬の秋晴れに何十年ぶりに見る日本海の青さと棚田が妙にマッチしているのは不思議に思える。

 外のベンチに座って、そんなことを考えていると妻がおにぎりを買ってきた。

「このおにぎりは、ここの千枚田でとれた米でとこれから行くすずの塩田でとれた塩を使った塩おむすびよ」

「なかなかうまいな」

 たいして時間もかからずに食べ終わり、車に乗ろうとした時、サイレンを鳴らして、救急車が止まり、隊員が先ほど到着した例の観光バスの客の一人を救急車に乗せて走り去った。、

「せっかくの旅行なのに、大変ね」

「どうしたんだろう」と私は言ってから車のエンジンをかけて、次の目的地の曽々木海岸そそぎかいがんに向かった。

 相変わらず前後に車は見えず、スピードの出しすぎに注意しながら十数分ほど走ると目的地に到着した。

 夫婦一組が先客としているだけで、波の音が静けさを打ち消していた。

 窓岩と言われる岩場の写真撮影に夢中になっていた妻が戻ってきたので、道の駅すず塩田村向かった。

 数分走っただけで、すず塩田村に着いた。

 小さな建物の中に入ると、塩田の歴史展示場が主だ。ここは、能登地方に400年以上前から伝わる「揚げ浜式」による製塩を行いながら、その伝統を伝えるために造られたのが目的とのことであった。

 例の団体がツアーコンダクターの説明を聞きながら、展示場に入ってきた。

「よく合うわね」

「彼らのコースは君の決めたコースと同じだな」

「次は」

「見附島よ」と言って、ナビをセットした。

 国道249号を東に向かって走り、見附島に到着した。

「見附島は、弘法大師が布教のために、佐渡から能登へと渡る際に発見したといわれている島で、「見つけた」というのが名前の由来、また、先端部分が突き出たその独特の見た目から軍艦島とも、引き潮の時には、島の近くまで歩いていくことができるそうよ。海岸は「えんむすびーち」と呼ばれていて、あそこにある縁結びの鐘を鳴らしてカップルたちが愛を誓うんですって」

「俺たちも鳴らそうか」

 私が鳴らしている写真を妻が撮り終えると、若いカップルの男が写真を撮ってくれないかと妻に頼みに来た。

 例のツアーの人だ。

 写真を撮り終えた妻が、男にカメラを手渡した時、男が言った。

「またお会いしましたね」

「本当に」

「そういえば、白米千枚田でどなたか具合が悪くなったようですが」と私が聞いた。

「ええ、一人で参加された女性の方が心臓発作を起こしたので、勝又さんが救急車を呼んだんです」

「それは大変でしたね。皆さんびっくりしたでしょう」

 男は頷いた。

「失礼しました、私は浅野と言います。妻です」と自己紹介をした。

「私は平田満で、妻の牧子です」

 牧子と呼ばれた女が頭を下げた。

 平田はツアーのメンバーたちが駐車場に向かって歩いているのに気づき、

「浅野さん、そろそろ出発の時間ですので失礼します」と言って、若夫婦は駐車場へ歩いて行った。

 私たちは恋路海岸こいじかいがんに行った。

「その昔、深い恋仲となった二人の若者、鍋乃と助三郎がいて、鍋乃に思いを寄せる恋仇の男の罠のため、助三郎は海の深みにはまって命を落としたの。鍋乃も助三郎の後を追って海に身を投げ死んでしまうという悲しい恋の伝説から、いつしかこの地が「恋路」と呼ばれるようになったんだって」妻の説明を受けた。

 そして、十六時少し前にこじんまりした旅館花の舞に到着した。

 女将が入り口で私たちを迎えた。

 妻がフロントで手続きを終えると、従業員に部屋へ案内された。

「きれいな部屋ね」

「まあまあだな。ちょっと休んだら風呂に行くか」

「そうね。食事は六時からだからお茶を飲んで行きましょう」

その頃、ツアーコンダクターの勝又は、フロントから預かったキィーをツアー客たちに手渡していた。ただ、救急車で運ばれた田中真理はすでに勝又たちより先に旅館に入っていたので、102のキィーは勝又の手にはなかった。

「お名前を呼びますので、取りに来てください」と言って、手渡した。

矢部誠と美代子は103、平田夫妻は104、田崎幹夫は105、四人組は二部屋で201と202の部屋であった。

 私たちが風呂に行こうと部屋を出ると、ツアー客たちがちょうど各自の部屋に入るところであった。

 平田夫婦や他の何人かが、私たちに気づき軽い会釈をした。

 浴場には露天風呂が付いていた。

 湯船につかっていると、ツアー客たちが入ってきた。

「また、お目にかかりましたな」と初老の男が声をかけてきた。

「まわる所がほとんど同じようですね」

「明日はどちらへ行かれる予定ですか。失礼、私は田崎と言います」

「浅野と言います、実はこの旅行はすべて妻が計画しているので、明日どこへ行くか知らないんですよ。ただの運転手です」と笑いながら答えた。

「私たちは、雨晴海岸あまはらしかいがん気多大社けたたいしゃそして、能登金剛のとこんごうが主なところのようです」

「明日はどちらにお泊りですか」

「勝又さんの話では、当初の旅館が変更になりそうだということで、まだ未定のようです」

「皆様は、どちらから来られたのですか」

「ほとんどは東京からのようです。私は世田谷からひとりで、田崎幹夫といいます」

「失礼しました、私は浅野孝といいます。川崎から妻と二人でレンタカーでまわっています。そういえば、今日はツアーの方が救急車に運ばれて大変でしたね」

「そうなんです。確か田中真理さんというやはり一人参加の方が具合が悪くなったので、勝又さんに救急車を呼ぶよう執拗に頼んでの事でした。このツアーにはいろいろ訳ありの方がいるようですよ。そういう私もその一人かもしれませんが」と田崎は笑った。

「露天風呂に入ってきます」と、私は田崎に会釈をして湯船を出た。

 露天風呂には、先客が二人いた。

「こんばんわ」と言って湯につかると、

「浅野さん、こんばんわ」平田が声をかけてきた。

 もうひとりはこちらを振り向くことなく、ただ外を見続けていた。

「浅野さんは、奥様と来られたのですか」

「ええ、なにか」

「あまりにも奥様がお若いので」

「旅先では、よく不倫旅行じゃないかと疑われているようです」と言った時、外を見ていた男がこちらに顔を向けた。

「こんばんわ」と言うと相手もそれに答えたてから、湯から出て行った。

「浅野さん、彼は、矢部さんという方で某大学の教授のようです。若い女性を連れてこられています」

「奥さんじゃないですか」

「どうも彼らの会話を聞いていると、夫婦らしくないのです。まだ私も若造なので、分かっていないのかもしれませんが。ではお先に失礼します」平田は更衣室に向かって行った。

 いつの間にか、浴場には私一人になっていた。

 空を見上げると、私の住んでいる町の数倍ほどの多くの星が輝いていた。

「宇宙にはこんな多くの星があったのか」私は変な感慨を持った。

 着替えを終えて、部屋の戻ると妻が待っていた。

 食堂に入ると、ツアーの人たちがすでに食事を始めていた。

 従業員に案内されて、席に着くと、

「お酒は飲まれますか」と聞いてきたので、

「瓶ビール、グラスは二つおねがいします」と答えた。

 周りを見回すとツアー客たちは、グループごとにテーブルを囲んでいたが、田崎はあの田中真理という女と相席であった。

 真理は田崎と話をしているときでも、矢部誠のほうを気にしてチラチラ見ている。また、時々、テーブルに置いたスマホを手に取り、何気なく写真を撮っているようであった。

「どうしたの」妻が気にして私に声をかけてきた。

「あそこの相席の田崎さんという人の前に座っている女性だけど、なにかおかしいんだ」

「職業柄の習性ね。どうぞ」妻はビールを私のグラスに注いだ。

「この旅館の料理、おいしいわね」

「なかなかうまい」

「ワイン飲もうかしら」

 私は従業員を呼び、赤ワインをデカンタで頼んだ。

 真っ赤な顔の私に対して、妻は顔色が全く変わっていない。

 眠くなってきた私は、荒げた声の方向を注視した。

 矢部誠が田中真理のそばにいた。

「君、さっきからじろじろ見たり写真を撮ったりして、失礼じゃないか」

「羨ましく思い見ていました。写真は記念にとあなただけじゃなくて皆さんのも撮らせてもらっています。それがどこか悪いですか」

「嘘つけ、魂胆は何だ」

「矢部さん、楽しんでいる他のお客さんに迷惑ですよ。席に戻ってください」田崎が仲裁に入った。

 大人げないと悟ったのか、矢部はしぶしぶ席に戻った。

「せっかく楽しい旅行に来ているのに、興ざめだわね」

「田中さんは矢部さんとどんな関係なのかな」

「きっといろいろあるのよ。変な癖を出さないで頂戴。そろそろ部屋に戻りましょう」

 私はテーブルに置いたキィーを取った。


 今日も晴天だった。

 朝食を済まして、九時に出発した。

 一時間ほど走って、雨晴海岸に着いた。

「あなた、富山湾越しに立山連峰がはっきり見えるなんて、運がいいのよ」

 海に浮かぶ山々は、江の島から見る富士山とはまた違う素晴らしさがあった。

「ここは、源義経が奥州へ落ちのびる途中、にわか雨の晴れるのを待ったという義経岩があり、また、地名雨晴の由来にもなっているそうよ。また、大伴家持はここが大好きでいくつもここで歌を作っていて、その一つが’馬並めて いざ打ち行かな 渋谿しぶたにの 清き磯廻に 寄する波見に’と歌っているの」私は妻の講釈に頷いた。

 いつの間にか来た例のツアー客たちが立山連峰をバックに写真を撮っていた。

 勝又がスマホで立山の写真を撮っている矢部に声をかけていた。

「矢部さん、お二人の写真撮りましょうか」

「私は写真嫌いなんで結構です」と矢部が断った。

「浅野さん、写真撮りましょうか」そばにやってきた平田が、妻に言った。

「お願いします」妻が、平田にカメラを渡し、私たちは岩の上に立った。

「立派なカメラですね。どうしたらいいんですか」

「シャッターを押すだけです」

 私たちは、平田たちと別れ、雨晴海岸を後にして、道に迷いながらもやっと千里浜なぎさドライブウェイに入ることができた。

 妻が言うには、ここは、日本で唯一砂浜を走れるドライブウェイだそうだが、走っている車は数台もない。

 波打ち際を砂浜にタイヤを取られないように、神経を使って車を走らせた。

 ここは長居せずに、三十分ほど走り、気多大社けたたいしゃに着いた。

 例の観光バスが駐車していた。

「ツアーの人たちのほうが早かったようだ」

「なぎさにはいかずに、雨晴海岸から直接ここに着たんだわ」

 私たちは立ち止まって、説明板きを読んだ。

’天平十三年(七四一年)能登国が越中国の一部であった時代、越中国の一宮は現在の気多大社であった。気多大社が文献に初めて見えるのは『万葉集』である。天平二十年(七四八)、越中守大伴家持が出挙のため能登を巡行したとき、まず本社に参詣して、「之乎路から直超え来れば羽咋の海朝凪ぎしたり船楫もがも」(志雄街道をまっすぐに越えて来ると、羽咋の海は朝なぎしている。舟と櫓が欲しいものよ)と詠んだ。本社がいかに重んじられ、のちに能登の一の宮となる神威を当時すでに有していたことがわかる。

北陸の一角にありながら朝廷の尊崇が厚く、神階も累進して貞観元年(八五九)には正二位勲一等から従一位にのぼっている。このような国家の厚遇は、東北経営、あるいは新羅や渤海を中心とした対外関係とも無縁ではあるまい。能登半島の要衝に鎮座する気多大社の神威が中央国家に及んでいたのである。近年、南方八〇〇メートルの地に発見された寺家遺跡は縄文前期から中世にわたり、大規模な祭祀関係の出土品や遺構類は気多大社とのかかわりあいをしのばせる有力な資料となっている。 延喜の制では名神大社に列して祈年の国幣にあずかった。「神名帳」によれば、気多神社と称するものが但島、能登、越中、越後(居多神社と称する)にあるほか、加賀には気多御子神社があり、国史見在社として越前に気多神社がある。日本海沿岸にひろく気多の神が祭られていたことを知ることができ、古代における気多大社の神威がしのばれる。

能登の守護畠山氏の社領の寄進、社殿の造営などが見られる。今も遺る摂社若宮神社(国指定重要文化財)は畠山氏の再建で、石川県の中世建造物として重視される。

近世は、前田利家をはじめ歴代の藩主が崇敬し、社領三百五十石を寄進したほか、祈願、祈祷はもとよりしばしば社殿の造営をした。本殿(大己貴命)、拝殿、神門、摂社若宮神社(事代主命)、摂社白山神社(以上国指定重要文化財)、神庫、随身門(ともに県指定文化財)がそれである。 加賀藩の保護した社叢(国の天然記念物)には奥宮が鎮座し、「入らずの森」と呼ばれる聖域となっている・・’

「由緒ある神社なのよ」

「門も古く、歴史が刻まれているね」

 神門をくぐると、見学を終えたツアー客たちとすれ違った。

 私たちは笑みを浮かべながら会釈して彼らを見送った。

 拝殿も格調が高い。

 私は手を合わせ、欲張って多事を祈った。

 二十分ぐらい見学して、この旅行の最後の目的地である能登金剛のとこんごうに向かって、車を走らせた。

 到着したのは、一時を過ぎていた。

 ここでも、すでにあの観光バスが止まっていた。

 昼食をとるために、レストランに入り、私たちはラーメンを食べた。

 そして、遊覧船に乗るために下に降りていった。

 遊覧船の乗客は、私たち夫婦だけであった。

 乗務員が説明し始めた。

「左側に見えるのはヤセの断崖と言って、よくサスペンスのテレビ撮影によく使われます」

「あなた、松本清張のゼロの焦点でも使われているのよ」

「あっ」私は叫んだ。

「何か落ちたみたいですね」乗務員も驚いたようだ。

「あなた」

「下船したらあそこに行ってみよう」

「よかったらもう遊覧を終えて、桟橋につけましょうか」

「そうして下さい」

「分かりました。十年もやっていますが、こんな事初めてです」

 下船すると、乗務員は、先ほど崖から落ちたところを目指して歩いて行った。私たちも彼らの後に続いた。

 巌門と呼ばれている岩の近くの海面に人らしきものが浮いていた。

 勝又が、私たちが来たのに気づいて叫んだ。

「早く、彼女を助けて下さい」

 乗務員は、その場から去って行って、しばらくして、手漕ぎのボートで海に現れた。

 乗務員たちに岩場に引き上げられた女の体を、勝又がゆすった。

「真理さん、しっかりして下さい」

 私は、勝又の肩に手を当てた。

「ちょっと、どいて下さい」

 そして、脈を確かめてから、田中真理の横に膝まづき、胸骨圧迫を繰り返し行ったが、彼女の意識は戻らなかった。

「浅野さん、だめでしたか」そばに来ていた平田が唸った。

 救急車とパトカーのサイレンが止んでしばらくして、ツアー客の田崎が救急隊員と警官を誘導して来た。

 救急隊員は、田中真理をタンカーに乗せて、救急車に運んで行った。

 二人の警官は、現場から離れるように私たちに指示した。

 しばらくして、私服の刑事が二人、警官に挨拶をして田中真理の所に行った。

 そして、警官から現場の状況を聞いてからヤセの断崖に向かおうとした時、一人の刑事が私に向かって言った。

「浅野警部ではありませんか」

「奥沢さんですね。お久しぶりです。私は二年前に警視庁を退職したので、警部はやめてください」

 奥沢とは、石川県警の刑事で、何年か前の殺人事件の件の合同捜査で、私は知り合っていただんがいのうえに。

「そうでしたか。浅野さんはどうしてここに」

「妻と能登二泊三日の旅行に来て、たまたまここの事件か事故かわからないけど、遭遇したんです」

 妻が、奥沢に頭を下げた。

「それは失礼しました。これから、ヤセの断崖に行きますけど、一緒にどうですか」

 私は、頷いて奥沢の後に続いた。

 歩きながら、私が遊覧船から見た状況を説明した。

「田中真理さんは、この辺りから落ちたと思います」

「さくを乗り越えて、落ちたのか、落とされたのか」奥沢は腕を組んで考え始めた。

「浅野さん、彼女が落ちるとき断崖の上に人影を見ませんでしたか」

 私は、一生懸命その時の様子を思い出そうと考えていた時、妻がそれらしき者を見たと言った。

「奥様、それは男か女かわかりましたか」

「ちょっとそこまでは」

 下に降りると、勝又が奥沢に近づいてきた。

「そろそろいいでしょうか。お客をホテルに案内しないと」

「分かりました。今日どちらにお泊りですか。ホテルの食事が終わりましたら、この件で皆さんにいろいろお聞きしたいのですが」

「和倉温泉のホテル綾乃風です。八時ごろ来ていただけませんか」やや困った顔をして言った。

 奥沢は、勝又に軽く会釈して、私の所に来た。

「今日はお泊りになるんですか」

 私は、妻の顔を見た。

「和倉温泉の旅館加賀の宿に泊まります」

「ツアー客から八時過ぎからホテル綾乃風で、事情聴取をしますので、浅野さんも来ていただけませんか」

「いいですよ。家内と一緒に行きます」

 私たちが帰ろうとしたときには、警察関係者が増えており、くまなく調べているようだった。

 旅館までの三十数キロを四十分ほど走った。

「あなた、田中真理さんは他殺かしら」

「おそらく、自殺ではないだろう。遺書も見つかっていないし、君が見た人影が何らかの関係を持っているかもしれない。どうも田中真理は矢部誠か連れの藤井美代子と何か関係がありそうだ」

「奥沢さんは、あなたをこの事件に巻き込もうと考えているみたいね」

「せっかく楽しい旅を味わおうとしたのに」

 旅館で、風呂に入ってから夕食を取り、ホテル綾乃風に行った。

 奥沢がフロントの前で私たちを待っていた。

「浅野さん、田中真理のバッグに盗聴器が入っていました。彼女は探偵社に勤めていたようです」

「その探偵社の名はわかりましたか」

「コスモス探偵社で、新宿にあるようです。今、新宿署に問い合わせています。もう時間です、行きましょう」

 奥沢に続いて、広間に入った。

 現場に奥沢と一緒に来ていた刑事が、奥沢に言った。

「まだ二人人来ていません。今、ツアーコンダクターの勝又さんと矢部さんが、呼びに行っています」

「来ていないのは誰だ」

「田崎幹夫と藤井美代子です」

 しばらくして、慌てふためきながら勝又が戻ってきた。

「大変です。田崎さんが」

「田崎さんの部屋に案内してください」と奥沢が言った。

 呆然と灰皿を持った藤井美代子の前に、頭から血を流した田崎が、仰向け倒れていた。

 美代子の着衣は乱れていた。

 美代子が、矢部の姿に気づき、我に返ったのか彼に抱き、大声で泣き始めた。

「美代子さん、どうしたのですか」

「誠さん、急に田崎さんが迫ってきたんです。やめてくれと声を上げたんだけど、今にもという時、ベッドの横のサイドボードに置いてあった灰皿で思い切り殴ってしまったの。どうしましょう」

 奥沢は、電話で広間の刑事に田崎の部屋に来るように部屋番号を伝えた。

 山田刑事に今までの状況を説明して、ここで美代子の話の詳細を聞いてくれと指示した。

 奥沢は、思い出したように私に言った。

「皆さんが待ってます。早く部屋に戻りましょう」

 奥沢たちは、別室でツアー客たち一人ずつとツアーコンダクターの勝又好子、運転手の大和田正雄、そして最後に私たち夫婦を面談した。

 ツアー客たちの面談の途中で、石川県警からの応援がやってきたので、奥沢は田崎の部屋にいる山田刑事と代わるよう頼んだ。

 

 私たちに順番が回ってきた時は、十一時を過ぎていた。

「遅くまで申し訳ございません」奥沢がまず頭を下げてから、今までの面談の内容を説明した。

「まず、矢部誠、六十七歳、東南大学教授、機械工学が専門で住所は文京区。矢部誠の連れの藤井美代子、四十五歳、東南大学の事務員、住まいは江東区。平田満、三十九歳、経産省の国家公務員でキャリアで住まいは多摩区。平田牧子、満の妻三十七歳、厚労省のキャリア。次の四人は、東南大学文学部の同窓です。沢田順子、六十一歳、主婦、町田市在住。木山信代、六十一歳、主婦、練馬区在住。百足広子、六十二歳、主婦、足立区在住。井口紀子、六十一歳、主婦、横浜市在住。ツアーコンダクターの勝又好子、四十二歳、石川観光勤務、石川県在住。運転手の大和田正雄、五十八歳、石川観光勤務。田中真理と田崎幹夫については、警視庁で調べてもらっています」

 奥沢が続けて話した。

「何かツアー客たちに、知っていることや変わったことはなかったかを聞いてみました。四人組の井口紀子からですが、輪島の朝市でやはり四人組の百足広子が藤井美代子と口論していたそうです。はっきりは聞こえなかったようですが、何か不倫はどうのこうのと。

ツアーコンダクターの勝又からは、白米千枚田ちょっと前で、田中真理が急に心臓が痛いので救急車を呼んでくれと言われたので頼んだと。後から、なんでもなかったので直接旅館に行くと電話があったということでした。次は、平田夫婦だけでなく、ツアー客のすべてから、花の舞での夕食時に田中真理に矢部誠が勝手に写真を撮ったと真理のテーブルに怒鳴り込んだと、その時に田崎幹夫が仲裁に入ったと」

「それは、私たちも目の前で目撃しました」

「最後ですが、先ほどの真理と矢部の口論後、夕食を終えて、真理が田崎の部屋に入る所を見たと平田満が言ってました。以上です」

「なるほど、今後の捜査の方針は」

「はい。ツアー客たちは明日の午後の飛行機便で帰る予定なので、ツアー客たちの調査は警視庁に依頼することにします。そこでなんですが、浅野さんに東京と石川の橋渡しをお願いしたいのですが、いかがでしょうか」

「私はもう刑事ではない、一般人だよ」

「分かっています。石川県警は、浅野さんを嘱託刑事として採用しますので、問題ありません」

「なに、そんな話聞いていないぞ」

「今、お話しした通りですので、よろしくお願いいたします」

 奥沢は、頭を下げ懇願した。

「あなた、人さまのお役に立ったらいいんじゃないの」

「承知していただければ、浅野さんは、警視庁へ出向することになります」

 私が嘱託を受けると言ったので、奥沢はやっと腰を上げた。

 そして、明日いや今日の朝九時に今までの捜査の進捗状況を説明しに来ると言って、帰った。

 午前一時を回っていた。


 翌朝、朝食後、部屋に戻って、帰り支度をした。

 九時になると、ノックの音がした。

 奥沢を部屋に入れた。

 奥沢は、昨日以外の捜査の進捗状況を丁寧に説明した。

 そして、嘱託の件についての話をした。

「浅野さん、東京に戻りましたら、明後日九時に、警視庁の広域捜査一課一係に行ってもらえませんか。そこが浅野さんの職場になります」

 話を終えた奥沢は、空港まで車で送るので、途中食事でもしないかと言った。

 私たちは、事件に巻き込まれて、最終日の観光地巡りをできずに川崎の自宅に帰宅した。

 そして、翌日。

 私は、久しぶりに背広にネクタイをつけて、九時前に警視庁広域捜査一課に出向いた。

「浅野さん、お久しぶりです。今回の事件、よろしくお願いします」と言って、一課長の山根が手を差し出した。

 そして、山根は、一係長の吉田を紹介した。

「浅野さん、あの時はお世話になりました。今度の事件ご苦労様です」と言って、頭を下げた。

「川井君、ちょっと」と吉田が、座っている女性に声をかけた。

「浅野さん、この川井君がお手伝いしますので、よろしくお願いします」

「浅野です、よろしくお願いします」

「川井智美です。よろしくお願いします」

「川井君は、石川県警からの能登の事件の書類について一通り目を通しています」

 川井は、頷いてから私の席に案内した。

 その机の上には、手錠、警笛そして、メモ帳が置かれていた。

 そして、

「警察手帳用の写真を撮りに行きますので、ご案内します」と言って、撮影場所に案内された。

 しばらく待つと、私の警察手帳が出来上がってきた。

「川井さん、まずは田中真理の勤め先の新宿にある探偵社に行きましょう」

 川井は、すでに探偵社の所在を調べていた。

 桜田門から永田町と青山一丁目で乗り換えて、三十分ほどで新宿駅に着いた。

 十一時を多少過ぎていた。

「浅野さん、ここから歩いて十分ぐらいです」と言って、事前にプリントしてきた地図をバッグから出した。

 その事務所は、五階建てのペンシルビルの三階にあった。

 事務所内は畳十二畳ほどの広さに、机が三つと応接セットが一式が狭苦しそうに配置されていた。

 入り口に近い所に座っていた女性が、私たちを応接セットの所へ、案内した。

 窓際に座っていた女性が、私たちの前に立った。

 私たちは警察手帳を見せながら名のった。

 その女性は、社長の長谷川と名のった。

 私は、単刀直入に聞いた。

「社員の田中真理さんが、能登ツアーに参加した目的は何だったんですか」

「田中さんには、矢部誠先生の不倫調査をしてもらっていました」

「依頼主は、どなたですか」

「それは個人情報ですので、申し上げることはできません」

「そうですか」

「長谷川さん、あなたの部下が殺されたんです、個人情報有無どころではないでしょう」

 川井がいきりたった。

「川井君」私は、川井を咎めた。

「田中真理さんを恨んでいるような人に心当たりありませんか」

「刑事さん、こんな仕事、恨まれるほうが多いですよ」

 私は、これ以上聞いてもらちが明かないと思い、事務所を出た。

「これからどうしますか」

「まず、飯にするか」

 近くにあったファーストフード店で、昼食をとり、矢部誠を訪ねることにした。

 川井は、矢部の勤務先の東南大学の教授室へ電話して、矢部から了解を取った。

「十五時までならいいそうです」

 私たちは、目白にある東南大学工学部棟十一階にある矢部誠の部屋の扉をノックした。

 矢部が、扉を開けた。

「こちらへどうぞ」と言って、ソファに腰かけるよう勧めた。

(さすが、東南大学の教授室は広い)

 私は、警察手帳を見せた。

 続いて、川井が名のった。

「浅野さん、神奈川県警を退職されていたんでは」

「そうだったんですが、この度の事件で、警視庁の嘱託になりました」

「警察にも嘱託があるんですか」矢部が、納得した様子を見せてから言った。

「能登半島の旅行にはまいりました。楽しい旅が、こんなことになるなんて」

「矢部さん、その件なんですが。あなたは、藤井美代子さんとどのような関係ですか」

 川井が、メモ帳を出した。

「近々、結婚しようと思ってます」

「奥様は」

「別れます。浅野さん、美代子は正当防衛で無罪ですよね」

「まだ捜査中です。ところで、田中真理さんは以前からご存じでしたか」

「いいえ、今度のツアーで初めて知りました」

「花の舞の夕食時にあなたは田中真理さんと口論してましたが、どのようなことでもめたのですか」

「些細なことで、声を荒げてしまったこと、大人げなかったです。今は、反省しています」

「些細なこととはなんですか」

「彼女が、私たちをちょくちょく変な目で見続けていたものですから、いい加減にしてくれと頼んだのです」

「そうですか」

「彼女は、自殺ではなかったんですか」

「実は、あなたと藤井美代子さんがヤセの断崖に登って行ったところを見ていた方がいるんですよ。彼女と一体何があったんですか」

「私たちが、断崖に上がった時には、そこには彼女はいませんでした。美代子さんに本当かどうか聞いてみてください」

「能登金剛からホテルに帰ってから、あなたはずうっと美代子さんと一緒でしたか」

「夕食が終わるまでは一緒でしたが、その後、私は外にタバコを吸いに出ました。それから刑事さんたちが待つ広間に行きました。美代子さんには、直接広間に行くと伝えておきました。まさか、あんなことが起こるなんて、信じられません」

「すみません、矢部さんと美代子さんの関係を奥様はご存じですか」川井が、聞いた。

「いや、まだ話してはいません。そろそろ講義の時間なので」

「分かりました。長い時間ありがとうございました。またお伺いすると思いますので、よろしくお願いいたします」

 私たちは、部屋を出た。

 警視庁に戻って、自席に着いた私は、パソコンを開いた。

 奥沢からメールが届いていた。

 それには、真理のバッグに入っていた盗聴の録音が入っていた。

 隣に座っている川井に声をかけ、録音を再生した。

 時々、川井の顔が赤くなり、うつむいた。

 事件の真相にかかわるものはなかった。

 私は、奥沢に電話をした。

「奥沢さん、メールありがとう」

「どうでしたか」

「事件に関することは録音されていなかったね。ところで、田中真理の携帯は見つかりましたか」

「まだです。今日も海中を探していましたが、見つかっていません。見つけるまで頑張ります」

「よろしくお願いします」と言って、私は電話を切った。見つかりましたか

「浅野さん、、そろそろ清瀬に行きませんか」

「あっ、今日は私の歓迎会か、忘れていたよ」


 翌日の朝、多少酒が残っていたので、シャワーを浴びてから出勤した。

 一係の人たちは、朝が早い。

 一人ずつ、昨日の礼を言ってから席に着いた。

「川井さん、今日は藤井美代子に会って話を聞こうか」

 川井は、はいと返事をして、美代子の勤め先の東南大学の庶務課に電話を入れた。

 電話を終えると、

「浅野さん、事務員の方が言うには、勤務時間はとっくに過ぎているのに、まだ来ていないからこれから彼女に電話するところだったと言ってました。美代子は、今まで遅刻などしたことはないので、心配もしていました。連絡が付いたら、私に電話してくれるそうです」

 しばらくすると、川井の携帯がバイブした。

 美代子に電話しても、出ないと言ってきた。

 川井は、美代子の電話番号を聞き出していた。

「川井さん、美代子のアパートに行こう」

 美代子のアパートは、東京メトロ東西線の門前仲町駅から数分歩いた所にあった。近くに深川公園がある。

 二階の藤井と書かれた表札の入り口のブザーを川井が、押した。

 応答がないので、扉をたたきながら叫んだ。

「藤井さん、いますか。警察の者です」

「彼女に電話をしてみたら」

 かすかに、美代子の部屋から、着信音が聞こえてきた。

「浅野さん、どうしますか」

「管理人に頼んで、開けてもらおう」

 川井は、すぐに下に降りて管理人を呼んできた。

 扉を開けてもらって、私たちは住居に入ってからも藤井美代子の名を呼び続けた。

 窓側に向かって置かれたロッキングチェアの正面に、川井は回った。

「藤井美代子さん。浅野さん、大変です!」

 机の上のパソコンの画面を見ていた私は、すぐに川井の所に行った。

 私は、美代子の首に手を当てた。

 絶命していた。

「青酸カリ系のものを飲んだようだな」

 川井は、一係長へ電話をした。

 電話を終えた川井を呼んで、パソコンの画面を見るように促した。

’ 私は、田中真理さんと田崎幹夫さんの二人を殺めてしまいました。本当に申し訳なく思い、自らの命を絶ってその報いとします。今までご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。

 平成二十九年 十一月八日      藤井美代子’

「浅野さん、美代子さんは自殺でしょうか」

「まだ、分からんな。美代子はどのようにして、毒薬を飲んだんだろう。この辺りには、カップやグラスがないのだよ」

 私たちは、キッチンや洗面所を調べたが、それらしきものはなかった。

「川井さん、鑑識が来たらそのことを伝えて、我々は矢部教授に会いに行こう」

 警視庁から一係長や鑑識の人たちがやってきて、私たちから説明を受けた。

 そして、皆持ち場についた。

 私は、美代子を見ていた鑑識の担当者に、死因と死亡推定時刻について聞いた。

「死因は、おそらく青酸カリによる中毒だと思います。死亡時刻は昨日の二十一時から二十三時頃と思われます」

「ありがとう。川井さん、東南大学へ行こう」

「は、はい」

 川井が、携帯を出して電話をしようとした時、

「川井さん、電話はいらない。事務室に用がある」

 私は、門前仲町から高田馬場乗り換えで目白駅に到着するまでの途中三十分ほどの間に、川井に東南大学の事務室を訪ねる目的を説明した。

 私たちは、東南大学の事務室に入った。

 応対した女性は、先ほど川井が電話した庶務課の女性であった。

「藤井さんに何かあったのですか」と彼女が、不審そうに聞いてきた。

「亡くなりました」と私は、ただそれだけを答えた。

「えっ」

「お忙しいところ申し訳ありませんが、工学棟のすべての出入り口にある防犯カメラの昨日の録画を拝見させてください」

「なぜですか」

「まだ、お話はできません」

「ちょっとお待ちください。上司に相談してきますから」

 事務の女性が、三谷という上司を伴って戻ってきた。

「ご苦労様です。防犯カメラの管理は統括守衛室でやっています。どうぞ、こちらへ」

 三谷が部屋の扉を開けた。

「長谷川さん、こちら刑事さん。昨日の工学棟の出入り口すべての防犯カメラの録画を見たいそうだ。協力してください」と私たちに長谷川という男を紹介して、部屋を出て行った。

「長谷川さん、ストップしてください。ちょっと戻していただけませんか。浅野さん、この人」

「間違いないな。十八時三十二分か」

 矢部誠を見つけるのに、時間はかからなかった。

 長谷川と三谷達に礼を言って、再び門前仲町の駅に来た。

 川井が、改札口の駅員に警察手帳を見せて、防犯カメラの録画を見せてほしいと頼んだ。

 駅員は、私たちを部屋に入れ、駅長を呼びに行った。

 駅長は、快く防犯カメラのある場所に案内した。

 担当の駅員が、私のいう通りに録画を見せてくれた。

「彼だわ」

「一番出入口に、十九時二十五分だ」

 駅員が、驚いた。

「ありがとうございました」と川井が言って、東南大学と同様その録画を貸してもらった。

 出口に立って、川井がスマホでアパートまで調べた近道を歩きながら、防犯カメラの設置場所を探した。

 アパート近くのコンビニの外壁に防犯カメラがあるのを、川井が見つけた。

 コンビニの店長に了解を得て、録画を見たが、残念ながら矢部の姿を見つけることができなかった。

「川井さん、警視庁に戻って、明日からの応援を頼もうか」

「はい」

 翌日の午前中に、他の捜査員がやはり近くにあったスーパーの防犯カメラに、矢部誠が映っていたとの知らせが、川井にあった。

「浅野さん、これで矢部が藤井美代子のアパートに行ったのは、ほぼ間違いないですね」

「たぶんそうだと思うが、殺害の証拠にはならない。決定的な証拠が欲しい」

「司法解剖するよう願い出たらどうですか」

 川井の努力により、司法解剖が行われた。

 その結果、胃より青酸カリとコーヒーの成分が検出された。

 また、鑑識から美代子のキッチンの排水トラップの排水から青酸カリとコーヒーの成分がやはり検出されたとの報告書がでた。

「川井さん、矢部から本人の指紋の提供を求めよう」

「美代子の住居から出た指紋と照合するんですね」

「もし矢部が犯人だったら、青酸カリをどのようにして入手したんだろう」

「浅野さん、ネットで闇サイトから入手した可能性もあります」

「川井さん、動機は何だろう」

「私の仮設ですが、田中真理が矢部と藤井美代子の関係を執拗に調べていると疑って、矢部が、彼女に何らかの交渉をしたんですが、聞き入れなかったので、彼は、彼女をヤセの断崖から突き落とし殺害したのではないかと思います。また、矢部と一緒にいた藤井美代子は当然それを目撃していますので、彼は、いつかそのことを誰かにしゃべらないかと心配で口封じのために、美代子を殺害したのです。浅野さん、どうでしょうか」

「田崎幹夫の件は」

「田崎幹夫は、おそらく矢部が田中真理を崖から突き落とすところを見たか、もしくは彼らの口論を聞いていて、矢部を脅していたのではないでしょうか。田崎幹夫の殺害は、美代子の正当防衛と言ってますが、矢部と美代子の共犯による殺人だと思います」

「川井さんの仮説は妥当性があるな。矢部は、名門大学の教授だ。不倫がマスコミに知れて、公になったら、彼は人生を棒に振ることになる。どの事件でもいいから矢部が直接手を出したという決定的な証拠が得られるといいんだが」

 携帯がバイブした。

 石川県警の奥沢刑事からだった。

「浅野さん、田中真理のスマホが見つかりました。海底に沈んでいました」喜びを隠しきれずに声が弾んでいた。

「それは良かった。何かわかりましたか」

「それがですよ。そのスマホに、ヤセの断崖での真理と矢部の口論が録音されてました。これで、矢部が真理を突き落としたことが明白になりました。今、録音をメールで送ります」

「奥沢さん、ありがとう」

 私は、奥沢からの電話の内容を川井に話した。

 奥沢からのメールを再生した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

真理:矢部さん、ここまで呼び出して、一体何の用ですか。

矢部:田中さん、今までの私を撮った写真をここで削除してくれませんか。

   迷惑なんです。

真理:お断りします。

矢部:ただとは言いません。いくらなら削除してくれますか?

真理:お断りです。

矢部:なぜなんだ。

真理:そんなこと言えません。

矢部:どうしてもやだというなら

真理:危ない、やめてください・・あっ キャー

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私と川井は、耳を澄まして聞き入った。

「明日、矢部に会って、指紋を提供してもらおう」

「浅野さん、この録音はどうしますか」

「それはまだにしよう。美代子の部屋の指紋が矢部のものかをまず確認だ」

 土曜日であったが、矢部は学校に出勤するというので、九時五十分に目白駅で、私は川井と待ち合わせして、矢部の部屋を訪ねた。

「今日は、何でしょう?」

「矢部さんの指紋を提供いただけませんか」

「疑われているんですね。いやだと言ったら・・、なんて言いませんよ。どうぞこのカップでよければ持って行ってください。美代子さんの部屋で、私の指紋があっても当然です。たまに、彼女のアパートに行ってますから」と飲み終えたコーヒーカップを差し出した。

「ありがとうございます」と私が答えると、

「ほかに何か」

「いえ、今日はこれだけですので、失礼します」

 川井が、警視庁に戻り、報告書を書くというので、私たちは目白駅で別れた。

 月曜日を迎えた。

 川井は、先日矢部から預かったカップを鑑識にもっていった。

 その結果が、午後に報告された。

「浅野さん、美代子の部屋の指紋と先日の矢部のカップのものと一致しました。また、コーヒーの成分も流しから検出されたものと同じだそうです」

「よく、コーヒーの成分まで鑑定できたもんだ」

「そのコーヒーですが、普通のインスタントコーヒーでなく、高級なものだそうです」

「銘柄は何ですか」

「インドネシアのコピルアクという名のもので、百グラムで五千円ぐらいするそうです」

「そういえば、矢部は、いつもドリップを使っていたね」

「浅野さん、矢部を任意同行しましょうか」

「そうしましょう」

 川井は、係長の吉田の席に行って、しばらくの間、話し合っていた。

 川井との話を終えるて、吉田は私の席にやってきた。

 そして、笑みを浮かべながら言った。

「浅野さん、いよいよ解決ですね」


 矢部誠は、素直に任意同行に応じた。

 取り調べは、川井が主に行った。

「矢部さん、私たち警察は、田中真理さん、田崎幹夫さんおよび、藤井美代子さんの三人の殺害はあなたが関係しているとみてます」

「これは、田中真理さんのスマホです。これにヤセの断崖でのあなとと真理さんのやり取りが録音されていました」と言って、川井が音声を再生した。

 矢部は驚き、そして動揺して、うつむいてしまった。

「この男の声は、あなたですね。あなたはなぜ、執拗に真理さんに写真の削除を求めたのですか」

 矢部が顔を上げた。

「私は、超有名大学の教授ですよ。私と美代子さんとのツーショットが世間に知られたら、私の名誉はどうなるんですか、わかりますか。許されるわけないでしょう」

「なにを言っているんですか。あなたは、人の命より自分の名誉のほうが大切なんですか。あなたの奥さんに頼まれて、田中真理さんはあなたの不倫の現状を調査していたのです。奥さんは、すでにあなたの不倫に気づいていたんです。真理さんは、ただ探偵社に勤めている者として、あなたの奥さんの依頼を忠実にこなしていただけなんです。矢部さん、この録音通り、あなたは田中真理さんを崖から突き落としましたね」

「いいえ、スマホを彼女から取ろうとして、もめているうちに彼女が断崖から落ちてしまったのです」

「それはおかしいですね。あそこには柵があります。その柵を乗り越えてもまだ緩衝地が多少あるので、もめたぐらいでは断崖から落ちることはありえない。矢部さん、突き落としたのでしょ」と、私は矢部に近づいて、殺害場所の写真を見せた。

 矢部が黙り込んでしまった。

 私は、川井を見て、次に進むよう促した。

「次に、田崎幹夫さんの件です。あなたは、美代子さんの正当防衛を主張していますが、美代子さんは、あなたが田崎さんを殺害するのを美代子さんに手伝うように頼んでいるのをスマホに録音していました。あなたは、そのことを知ってましたね」

 矢部は観念したようだった。

「知ってました。彼女は、その録音を私に聞かせました。そして、私に結婚を迫ってきました」

「それで、藤井美代子さんを殺害したのですね」

 矢部は、ただ首を縦に振るだけであった。

 そして、小声で言った。

「刑事さん、トイレに行きたいんですが」

「どうぞ」と返事をした川井のそばに行き、私が同行すると伝えた。

 私の同行で、用を足した矢部の顔に絶望の色がにじみ出ていた。

 取調室に戻った矢部誠は、一連の事件について、自供し始めた。


「浅野さん、お疲れさまでした」山田が、ねぎらった。

「川井さんのお手柄です」

 川井が照れた。

 私は、嘱託を解く辞令を受けて、警視庁をあとにした。

                                  了

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 嘱託刑事 能登旅日記 沢藤南湘 @ssos0402

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