第16話 思い出というのは心に残るもので



 その夜のことだった。シェリルはぼんやりとベッドの上で寝そべっていた。いつもならすぐに眠れるはずなのに今日はなんだか寝れないのだ。どうしてだろうかと考えて、昼間のユラとの会話が原因なのだろうと至る。


 思い出してしまったのだ、色々と。小さく息をついてシェリルはベッドから起き上がって部屋から出た。


 外に出て空を見上げれば月がぼんやりと浮かび、星が煌びやかに瞬いていた。ここから見ると綺麗だなとシェリルは思う。無数の星々が輝いてそれは宝石の川のように流れている。エイルーン国の実家で眺めた空とは違って見えた。


 星々を眺めながらシェリルは溜息をつく。今頃、実家はどうなっているのだろうか。逃げ出した娘など知ったことないと思っているのかもしれない。


 計画通りにいかなかくて苛立っているマーカスの顔が浮かぶ。自身を妻にしようと企んでいたフィランダー公爵は諦めてくれただろうか。捜索活動とかされていたらどうしようか。


 考えれば考えるほどに不安が押し寄せてくる。自分はこうして良いウルフス族に雇ってもらうことができたけれどそうでなかったら今頃、大変だっただろう。考えるだけでも恐ろしかった。


 このままここにいてもいいのだろうかと考えてしまう。もし捜索されていたとして、見つかった時にラルフに迷惑をかけてしまうかもしれない。ずっと此処にいるのはいけないような気がした。


 マーカスの顔がよぎる。マチルダが近寄っていなかった時は彼は優しく接してくれた。自身を恋人のように扱ってくれた日の思い出が頭を掠める。


 あの時はそう、あの時は愛されているのだとそう感じた。だから、自身も愛そうと彼の傍にいた、それが幸せだと思って。



「どうして、愛してしまったのだろう……」



 今はもうそんな感情がない。悲しみと怒りしかないのだが、少しでも愛していた時期があったのは間違いない。その間、自身は幸せを感じていたのだから。


 あぁ、どうして思い出してしまったのだろうか。もう気にしてなどいないと思っていたというのにとシェリルはゆっくりと瞼を閉じた。



「どうした、シェリル」



 ふと、声をかけられてシェリルは瞼を上げて振り返った。ラルフがすぐ側までやってきていた。彼は少しだけ驚いたように一瞬、目を開いてまた目を細める。



「泣いているのか?」

「え? 泣いている?」



 その言葉に何を言っているのだとシェリルは笑う、泣いているわけないじゃないかと。そんなシェリルにラルフは近寄るとそっと頬に触れた——彼の指に雫が溜まる。



「これは涙じゃないのか?」



 そう見せられてシェリルは目を瞬かせた。自分は泣いていたとそれに気づいた瞬間、ぼろぼろと瞳から涙が溢れてきた。どうして泣いているのだろうか、おかしいなと涙を拭うのだが止まらない。


 どうして、どうしてと呟いていると腕を引かれた。ぽすっとラルフの胸に収まったかと思うと抱きしめられる。



「泣きたいときは泣けばいい」



 そう言ってラルフはシェリルの頭を優しく撫でてくれて、シェリルの瞳からまた涙が溢れてきた。


 どうして泣いているのか。それはずっと我慢していたのだ、自身は。婚約破棄された時だって本当はもっといろいろ言いたかった。どうして彼女を選んだのだと、自身の無実を。


 あの優しさは形だけだったのか、最初っから愛していなかったのか。私が受けていたそれらの感情は偽物だったのかとたくさん言いたいことはあった。



「私は、どんな人でも、愛したと、いうのに……」



 愛していたのだ、たった短い期間であったとしても。あんなにも簡単にそれを無かったことにされたことが嫌だった、悲しかった。


 だってそうだろう。自身へ向けていた優しさを何事もなかったように悪意へとかえたのだ。それは信じられないことだった。愛して信じていたからこそ、それが辛かった。


 嗚呼を溢しながら泣くシェリルをラルフはただ抱きしめていた。



「お前はそいつが今でも好きなのか」



 低い声だった。それは怒りを含んだものではなく、何処か寂しいようなもので。シェリルは顔を上げて彼の金の瞳と目が合う。何を考えているのかわからないけれど、震える瞳にシェリルは涙を拭いながら首を左右に振った。



「もう、そんな感情はないの……。でもね、でも……幸せだった日々というのがあったの。あのひと時は確かにそこにあった。それを思い出してしまっただけ……」



 どんなに気持ちがなかろうと、たったひと時の思い出というのは心に残るものだ。ずっと我慢していた感情というのもあった。だから、それが涙となって出てしまったのだ。


 忘れようと思っていても、心に残ったものというのはそう簡単には無かったことにはさせてはくれない。


 自分って弱いなとシェリルは困ったように笑む。そんな彼女をラルフは優しく頭を撫でた。そして、強く抱きしめられる。


 あれとシェリルが不思議そうにラルフを見遣れば、彼は目を細めて何か考えているようだった。



「ラルフさん?」

「いや、何でもない。シェリル、何かしてほしいことはあるか?」



 そう優しく問われてシェリルは考える。彼に何かしてほしいこと、頼むのも申し訳ないのだが、ラルフは気にするなといったふうに見つめてくる。



「じゃあ、もう少しだけ胸を借りてもいいですか?」



 なら、もう少しだけこうしていたいなと思った。恥ずかしげに答えれば、彼は小さく笑んで「構わない」と抱きしめる力を強めてくれた。




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